交遊録: 奥さんを亡くして一年 友の慟哭
堀あや美さんを偲ぶ会に出席して
1月11日土曜日夕刻、昨年1月12日に他界された友人の奥さん「あや美さんを偲ぶ会」に出席した。 学生期、関わった団体は違うが何故か気が合い、ぼくの人生の危機に幾度も力を貸してくれた友人:堀義明のその奥さんだ。出席者は、金城実・服部良一・元草津市長など著名人も多く、学生期の友人は彼が学生期に関わった団体のメンバーで、ぼくだけが「違う団体」系だった。 彼は、学生期にバイト先(確か彼の親の家業の工場だと聞いた)であや美さんと出会い一目惚れ、被差別部落出自の「こいつと生きて行く」と決断選択し、数年後実家の家業を継ぐことや就職(あの凶状持ちに就職と言ってもねぇ)ではなく、決然として彼女の実家地域に移り住む。努力してやがて同盟員として認知され、数年後市会へと打って出る。以来、人権・反差別・沖縄・反戦をメインテーマに議員活動を続け市議会議長まで務めた。特に沖縄への入れ込みは尋常ではなく、地域から何度も大挙して平和行進に参加するなどして、特に金城実氏との親子あるいは兄弟のような濃い付き合いは有名で、酒を含む(いや、それがメインとも言われた)交遊武勇伝の数々はここに書き切れない質と量だ。
あや美さんと彼とは、仲間あるいは同志であったが、それ以上に彼はあや美さんの「大きな息子」だった。 彼があや美さんの実家地域へ移り住んだ前後、過剰に「立派やな」と持ち上げる者、逆に「恋愛から、よそ者の部落入り?どうなん、同情?」と語る者など、ハイエナ・インテリ特有の賛否(?)の「評論」を聞かされもした。 けれど、その後の彼の時間が、そうした生き様に貼り付けられる「レッテル」を超えた深い「真情」に根差した「人生そのもの」だった、そうさせた一番の理由はあや美さんの人柄だ、と思い至る。 彼ら夫婦の闘いの、現場性・清濁混在性・建て前無理性を少しでも知れば、ハイエナは尻尾を巻いて後退るだろう。40数年を共に生きた者の濃い関係は、ハイエナどもが言うような美談でもなければ、順序がどう?でもなければ、何がメイン?でもない。それは、闘いを知る者には解る「すべてが同じことの変容態であり、分かち難い部分」なのだ。丸ごとが、一つのことであった。
彼は、ぼくの危機には必ず馳せ参じてくれた。 70年代末、勤務先職場の暴力的組合つぶしから会社破産・職場バリケード占拠闘争・自主経営の苦境を知れば、学生期の友人の来訪などない中、ひとり駆けつけてくれた。 89年、ぼくの身内が某市議選に立った際、「明日、選挙応援に行くで」と電話があり、楽しみに待っていると、早朝に居住地を出発したに違いない時間に20数人の大部隊でやって来た、それも数日間連続で。選挙のイロハを知らない素人集団に、手取り足取り「地元回り」を伝授した。中河内の〇さん、北河内の〇さんなどと共に、選挙の素人性を諭してくれたが、あや美さんが「最初はこんなもんとちゃうん?」と語られたと聞いた。同盟の運動や彼の選挙や議会活動の酸いも甘いも知っていようあや美さんは、学生か?と思うほどの素人選挙に言いたいことも山ほどお持ちだったと思うが、一切口に出されなかった。身内の選挙結果はもちろん負けではあったが、候補者は多くのことを学び、今日の某活動に生きていると言っている。あや美さんを深く知りたかったと悔しがっている。
彼は、彼女が自身の葬儀の「式の準備をせな」とせわしく動き回る夢を何度も見るという。この一年に、彼は何度慟哭しただろう。 「ああ、あいつはおらんのや。おらんあいつが、あいつ自身の葬式の準備というのは理屈が通らん。そやから、これは夢や」と目が覚めるという。 『生きていてくれ、けれど死んでしまったのだ・・・』、その「ねがい」と「げんじつ」を往還する魂。それは、錯綜混濁して「死者が自身の葬儀の手配をする」という「ねがい」と「げんじつ」を見事に結合させたシーンとなって夢の中で彷徨する。あや美さん、いずれ彼も我々も行くのだ。待っていて下さい。そして、それまでを見守って下さい。 当日配布された式次第に載っているあや美さんの写真には、あや美さんが好んでそこここで書き記した言葉が添えられていた。
『解放は闘いなり 人の世に熱と光のさす日まで』 (ご遺影添付。ご無礼をお赦し下さい)