ほろ酔い通信: フェイスブック4か月 雑感。
夏にFBを始めて4か月になる。少し言っておきたいことがある。
ことわざ辞典によれば「君子は豹変す」の本来の意味は、無節操な朝令暮改や身勝手な都合で意見・態度を変える軽い処世を言うのではなく、 君子=【学識・人格ともに優れた人】たる者は、過ちに気付けば即座にそれを改めるものだ、という意味らしい。 出典は『易経・革卦』にある『君子は豹変す。小人は面を革(あらた)む』で、豹の毛の斑紋が季節で抜け変わるときクッキリしていて目立つことから、「君子は過ちを改めるに、豹の模様の変化のようにはっきりしているが、小人はただ外面を改めるだけである」との意だという。 ぼくなどは小人の部類なので、君子のようにはクッキリすっきりとは全く改められず、ことわざを噛み締めたいところだ。
FBでは、旧知の人や新しく知り得た人などから多くの情報を頂き、目が覚めたり気付いたりの日々は心地よく、「さあ、俺に出来ることはするぞ」と思わせてももらっている。各種私事の投稿も、投稿者の人となりや異業種・異領域での取組が解り感心することが百も千も有って有難い。ご家族の近況や写真はほほえましく親しみが倍加するものだ。例え「箸が転んだ」的エピソードでも、人柄が滲み出ていて楽しいものだ。かく言うぼくも「箸」ならぬ「自身の肉体」が「転んだ」的泣き言を投稿してもいる。全ては「友達」のなせる業でもある。ただ、ぼくの場合その人の発信を常時キャッチしたいという理由で友達申請した事例もあり、「友達」と言うには気恥ずかしい。「友達」未満を含めて「友達」と括るのは辛いねぇ~。 辛淑玉さんは、多くの人(ぼくを含む)からの「友達申請」に、「私にとって友達とは半径3M以内の関係だ」と言いにくいことをズバリ仰っている。 解ります。心したい。「友達」ではなく「受信希望」てな位置取にして欲しいなぁ。
ところで、冒頭に『君子は豹変す』を挙げたが、それが本日の本論だ。
1970年代、某政党はソ連や中国の核実験を「防衛的核実験」、原発を「核の平和利用」と言っていた。当時の世界政治地図から無条件に断罪する知識も思想も立場もぼくは有していないし、その言い分に含まれた一面の真理(?)を全面否定するだけの国際政治学情報も持ち合わせていない。 が、「そんなこと言うたことない」顔をされたのでは異議がある。 小泉純一郎氏は「かつては原発の安全性を信じていた。だから推進論だった。」 「3.11の事態で考えが変わった。安全じゃなかったのだ。よって脱原発だ」 「そもそも捨てる場所がない。原発ゼロしかない」 「(今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが。に対して)逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ」と言っている。 これが君子の豹変かどうか、他の事柄などから総合判断するしかないが、少なくとも一般には解り易く、小泉氏の方が「君子」だと思われるに違いない。(当記事は小泉氏賛美ではありません)
ぼくや「友達:某」はどうか? FBで「憲法」「集団的自衛権」「原発」「核」「米軍沖縄集中駐留」などを巡って、ン年前には全く違う主張をしていた御仁が豹変してPBであちこちに「いいね」を連発している。豹変なさったのならいいことだ。けれど、深夜に口角泡を飛ばしてつかみ合わんばかりに論争した身としては、『軍隊がないから、外交力が無いのだ』 『9条を含め憲法は改正し正規軍を持つべきだ』 『核兵器も持つべきだ』 『防衛的核実験の正当性』 『地政学上、沖縄への基地偏重は米軍であろうが日本軍であろうが当然』(その他もろもろ)なるマジな主張を忘れるのは難しい。 その後の人生で左翼人士や旧知のオールド左翼との交流が増え、処世として前説の「面を革(あらた)」めFBの投稿に至っているのではなく、 正に「君子が豹変」したのなら言うことはない。 だが、やたら著名人との「友達」関係を追い求め、「いいね」を連発する前に、前説から豹変した回路を体系的に、少なくとも自己と論争相手には明らかにすべきだ。それが、見えない限りぼくは深夜の論争を忘れられないだろうと思う。数年後、十年後、再豹変されては「友達」たちが迷惑ですぜ! FBの功罪の一端を申し上げた。自らが「豹変」する時は、豹でありたい。
告: お心当たりの方、個人的に私信くださって結構です。何なら公開で討論してもいいけど・・・・。