8/2 内田樹講演会。 『ポストグローバル期の国民の歴史』

『国民国家・民族の枠とボーダーを越え、「儲け」以外依拠するモノを持たないグローバリズム経済。                                                                                                                                                                                                                                                                      国家にも、民族にも、地域独自文化や民俗にも、帰属意識や忠誠心を持たぬグローバリズム企業。                                                                                                                                                                                                                   有利と見れば、トランプゲームのカード総入替えのように、企業への愛着さえ相対化し、まるごとの売却さえ行うグローバル企業。                                                                                                                                                                                                                                         より安価かつ従順勤勉な労働力、より原材料・運輸コストを容易く入手できる条件、より政情不安なき地域、各種規制(労働法制・建築法制・公害規制など)がより緩やかな場所・・・、それだけを求めて漂流するグローバリズム資本。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       不都合あれば、費用対効果に照らし、生産現地の事情・労働者の権利を顧みず、一時退却・閉鎖・本格撤退を為し、生き延びる。                                                                                                                                                                                                                                                己だけしか乗れない脱出ヘリコプターを確保して、船員には船の死守を命じ任務と義務を放棄する、沈没船の船長のようだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    だが、にも拘らず今ある国民国家という現実に、諸領域・諸課題で制約されてもおり、国民国家の統治に、各国政権は逆にナショナリズムや民族を持ち出す強権政治を動員して支えている。                                                                                                                                                                                                        グローバリズム資本にとって、国民国家こそが「最終対立矛盾事項」かもしれないのだが、国家も旧来の資本も民族も労働者も越えられなかった地平を超えて行く彼らにも、我々にも、国民国家解体以降のモデルがない。』                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 (「歴史教育者協議会・第65回大阪大会」内田樹記念講演より抜粋:旧東海道品川宿「たそがれ自由塾」塾頭メモより要約。                                                                                       演題:『ポストグローバル期の国民の歴史―日本社会はこれからどうなるのか』8月2日、於関西大学、参加者650名)CA3A4204

数十年前なら、「それを超える立脚点こそが『プロレタリア国際主義』なのだ」と返したかもしれない。                                                                                                                                                                                                                                    だが、ソ連東欧陣営の氷解や、第三世界の民族解放闘争の果ての「開発独裁」を見聞きし、また氷解以前から現在まで、大国による民族抑圧や国家という装置を基本にした国家「意志」が、体制の違いを問わず、残念ながら国家と民の結集軸ツールとされて来たし今もそうだと強く想う。                                                                                                                                                                                                                                                                          現在も、国家を運営するに、危機(経済的であれ、政治的であれ、文化的であれ)であればあるほどその傾向は強まっている。そこには20世紀モデルの、いわゆる「体制」云々を超えた文脈を築いてしか読み解けない「全文」がそびえ立っている。                                                                                                                                                         東アジアに目を向ければ、中・韓・日で互いに「ナショナリズム」と「強国志向」が強まり、歴史の改竄や、ひと度は受容れた国際的に定着した評価を否認して「国家」を前面に掲げて、内外に対処している。

日本の「集団的自衛権行使(他国の戦争への参加)」「敵基地攻撃態勢」への準備や、改憲・戦後社会の基本の変更、尖閣諸島問題での対応。                                                                                           中国の、アジア海域でのヴェトナム・フィリピン・ブルネイへの覇権行動(「中国の赤い舌」)や、バーチャル実戦の戦闘劇:魚釣島(尖閣)侵入者撃退ゲーム・ソフト(激しく売れているという。侵入者一人一人に固有名詞が付き、射殺を繰り返し勝利に至るらしい)などに見る国民を煽る政策。                                                                                     それは、共に大国主義・覇権主義・排外主義・ナショナリズムの動員だ。何主義を標榜しようがしまいが、国家の維持にそれの動員を強行しているのはどの国家も変わりはない。

自国史への真摯な自省は、ただでさえ苦く困難なことだ。内田樹は、その例として自由と人権の国とされているフランスを挙げている。                                                                                                                                                                                                                                                          フランスでは、初等中等教育や社会的一般合意に、第二次世界大戦の期間(1939~1945)のほとんどの時間(1940年6月~1944年)が、対独敗戦後に成立した親ナチ政権=ヴィシー政権(英国にドゴール将軍の自由フランス亡命政権が在ったとはいえ)による統治であり、つまりは「枢軸国」陣営の一員であったことは、あまり触れられないという。                                                                                           (2010年の映画『黄色い星の子供たち』はヴィシー政権による、1942年のヴェロドローム・ティヴェールユダヤ人大量検挙事件{婦女子を含む13,000人のユダヤ人無差別検挙・生き残り僅か400人}を克明に描いた。フランスは、つい先年1995年まで、「ヴィシー政権はフランスではない」として国家責任を認めなかった)                                                                                                                                                                                                                  (ヴィシー政権:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%BC%E6%94%BF%E6%A8%A9)                                                                                                                                                                                                                                                                 対独敗戦による休戦協定は、フラン対マルクが戦前の12フラン=1マルクから、20フラン=1マルクになったこと、フランス人捕虜1人解放に対してフランス人労働者3人をドイツ国内の工場に送ること、など過酷であった。そうした背景があったとはいえ、この政権は、イタリアよりも厳しいと言われる「ユダヤ人迫害法」さえ「自主的」に採択した。                                                                                                           (1940年10月:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%BC%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E4%B8%A6%E3%81%B3%E3%81%AB%E5%A4%96%E6%9D%A5%E8%80%85%E3%81%AB%E5%AF%BE%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95)                                                                                                                                                                                                              もちろん、対独レジスタンスの歴史はあるが、国家としての顔、国内体制は親ナチなのだった。このことを出来れば忘れて欲しいという潜在願望があり、どうしてもその切開が希薄だ。その曖昧さが排外主義極右の蔓延・ネオ・ナチ政党=国民戦線の勢力確保(2012年大統領選挙得票率17,9%)に寄与しているだろうとも言われている。                                                                                                                                                                                              (国民戦線:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E6%88%A6%E7%B7%9A_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9)

日本に於いては、なお一層「アジア侵略」の当事者であったにもかかわらず、アジア侵略と昭和の戦争の美化と本質忘却、繰り返しての教育・言論・学術・報道での「自省」欠如が、ネオ・ナチ勢力の拡大と、「改憲=戦後社会の根本解体」を目指す政権党の「昭和旧体制美化(美しい国)」「その日本を取り戻す」「日の丸・君が代強制」「アジア侵略否定」「労働法制後退」「団結権否認」「ヘイトスピーチ行動の野放し」「従軍慰安婦問題」「麻生ナチス発言」「自国史への自省を『自虐史観』と呼ぶ作られた世論」「集団的自衛権行使容認」「敵基地先制攻撃論」等々として現出している。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              )集団的自衛権

国家なるものは原理的には、そのままでは「自国史」への「自省」という頁を破棄して成るもののようだ。それに加えて国民国家や民族を超える意志によって推進されるグローバリズムの席巻により、一層の「自国史検証の野放し」は深化している。                                                                                                                                   各自国史への「検証機能」が、もう一つの自国史からだけ為されたのでは普遍性を欠くこと(もちろん昭和日本のアジア侵略等に関して世界的に評価は明確だ)を我ら民の教訓として受け止めたい。                                                                                                                                                                                           だから、かつての『プロレタリア国際主義』の輝きの、21世紀的あるいはグローバリズムを超えて人々が「グローバル」に繋がる『思想』と、そのことを前提とした自国民自らの国際的に耐え得る「自国史」検証の文脈を求めることこそが重要なのだろう。                                                                                                                                                                        今、日本の政権党は、グローバリズム経済のリスクや混乱による、生産拠点の自国内への撤退や一時Uターンなどと、グローバル企業の下請けたる国内企業の雇用の困難をも見越して、少子化・労働人口の減少下での安価な労働力を求め、「解雇自由制(金銭解雇)」「限定正社員制度」や突然の「産休三年」「大学の統廃合による減少」(狙いは、60年当時の金の玉子か?)などを打ち出している。                                                                                                                                                                                                                                         内田樹はこれらの混迷を語り、グローバリズム経済への市民的対抗軸形成の困難を述べ、だからこそ「教育」(30年後にハッキリとした影響・反映が論証できようという)は重要だと訴え講演を終えた。                                                                                                                                                                                                                                                                                          『プロレタリア国際主義』を超える『*****国際主義』は聴衆たる諸君が探せということのようだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        『****』を埋めるに、新自由主義とも新保守主義とも一線を画して生きる生産者・勤労者・消費者・生活者そして民主的経営者をグルリと繋ぐ相対的左翼の連帯(社会的左翼)を思い浮かべるが、ピタリ来る用語が見当たらない。30年代の「人民戦線」のようだが違う。見当たらないということは、21世紀に相応しい陣形もその構想もぼくは持ち合わせていないということだろうか?                                                                                                                                                          取り敢えず、『アンチ・グローバリズム「グローバル」連帯戦線』とでも言っておこうか…。

【余談】                                                                                                                                                                                                                             「tono-taniの日記」なるブログが、はげしく内田を口激していた(2011年9月)。                                                                                                                                                                                                                                                                              話のあらましは、某女子大の「全共闘運動経験者のオーラル・ヒストリー その実践と考察」なる修士論文のインタビュー部分に登場する内田の語りが、「全共闘体験詐称だ」ということのようだ。加えて内田が「ゲバ棒なんてヘナヘナした物で、そんなものでぶたれたって痛くも痒くもない、ゲバ棒なんて『極めて象徴的』なものだ」と語ったことに激怒している。ゲバ棒が象徴を超えて如何に有効なシロモノであったかを述べている。やや柔らかい木材だが、折れたら折れたで有効な使い方があるのだと説明している。「ほんなら、どついたろか」とまであり、言論の応酬としてはいささか穏当を欠いたものになっている。もちろん、内田からは反論はないようなので、応酬ではなく一方的な怒り爆発といったところか?                                                                                                                                                                                                                                                                    私見では、「極めて象徴的なもの」と言うのは当たっているし、「いや当時の叛乱での、有効な限界武器だった」というのも当たっている。内田の発言が、当事者の「自省」から来る自嘲的な想いの「象徴」だと読めなくもない。ちなみに、内田は合気道など「武術」の達人(自称)で、書物も出している。それはともかく、                                                                                                                                                                                       ある種の「錯誤」さえ抱えて行なった事象への経歴詐称疑惑にこだわる、自戒に乏しい論難にどれだけの意味があるのだろうか?

zouhanyuuri[1]が、主眼は1970年東大入学(東大安田講堂陥落の翌年)の内田は、全共闘の当事者などではないとして、「全共闘ヅラ」するなと吠えているようだ。女子学生に経歴を詐称する者の言説など信じられようかと言いたいのだろうか。内田の個人史もブログ作者の論難の根拠も詳しくは知らない。                                                                                                                                                                                                                                                                                              もし、ブログが言う「全共闘ヅラ」の「詐称性」が事実だとしても、ここでは、何人であれ免れ得ないだろう「自分史」「自団体(党など)史」「自社史」に着いて回る恣意性、「検証機能不在」その普遍性の欠落を想うしかない。そして、他者の自分史の非客観性や非事実(とブログ筆者は考えてしまっている)への怒りに触れ、その百万倍複雑な要素に満ち溢れる「自国史」検証の普遍性・客観性確保の道の困難を想うばかりだ。

昭和日本(明治まで、いやそれ以前までを射程としなければならないが)の「自国史」への検証は、国内の統治者ではなく「国内被統治者」から、植民地(沖縄を含む)の「主権等を簒奪された側」から、軍事行動他で主権と領土と資源を、時に「言葉」「文化」「伝統」をさえ奪われた側から、「昭和日本史」・アジア史・世界史を俯瞰し、見聞きし知ることから始めるのが筋道だ。                                                                                                                                                                                               「自国史」を無化して進むグローバル経済世界に在って、ワシらが『プロレタリア国際主義』を超えて進むべき道『*****国際主義』への、                                                                                                                                                            それが入口だ。

【学生のような、ぼくの質問】                                                                                                   *グローバリズムは実質アメリカナイゼーションとして進んでいるのではないか?                                                                                                                                                  *グローバリズムは、世界のフラット化(言語・通貨など全て)を求め、原理的には国民国家の消滅さえ求めている、と言うが、                                                                                                                                                                   グローバリズムこそ「永遠の第三世界」を必要としてはいまいか?                                                                                                                                     *言語・民族・人種・宗教は強固で、たとえば宗教としてイスラム世界、貧困と飢餓の地域を多く持つアフリカ世界・・・。                                                                                                                                                                  グローバリズムとそれらとの衝突の構図とは?

【再:余談】                                                                                                                                                                                                  ン十年振りの大学は、当時とは打って変わって表面的には「学の府」の風貌。建物は新しく、キャンパスは清掃が行き届き塵ひとつ落ちていない。                                                                                                                                                                                                                                                                                         おちぶれ坂うらぶれ坂ですれ違う女子学生は、OLのようにキチンと社会人女性の化粧をしていて、これまた「表面的」には美しく「大人」だ。「関係者以外立入禁止」と書かれた貼紙が、各建物の玄関にあった。                                                                                                                                                                                           地域・市民や社会を拒む「大学」とは何なのか、グローバル企業には門戸を開いているくせに…、などと青く思って、炎天下の坂を下った。IMGP57031[1]

 

2 Responses to “8/2 内田樹講演会。 『ポストグローバル期の国民の歴史』”

  • 殿谷七八四 says:

    【余談】について
     「tono-taniの日記」を読みました。「激しく」もありませんし、「激怒」もありませんでした。「経歴詐称疑惑」とも思われません。「虚偽だろう」と書いてありました。その理由も書いてありました。「ほんなら、どついたろうか」とあったそうですが、見損なったのか、見当たりませんでした。ただ「かかってこいや」とはありました。
     総じて、[院生に対して]もっと勉強するように!せっかくやからね!って書いてあったようです。修士課程というのは、本当に一番勉強できるときなのです。「なのに勿体ないなあ」と言ったところでしょうか。ワタナベ君は人柄も頭も悪くない誠実な人だと思います。それだけに残念だと思います。もっと言いたいことは無いこともないのですが、「tono-taniの日記」程度の文も読み切れないようでは仕方無いですね。

  • 殿谷七八四 says:

    さきほどのコメント、あまり生産的で無いので撤回します。殿谷

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