労働組合でこそ出会えた 「四人娘」の自前の言葉。
2011年7月に亡くなった原田芳雄の最晩年のTVドラマ『火の魚』(2009年)の再放送を観た。 故郷の瀬戸内海離島で単身暮らす、初老の直木賞受賞元流行作家:村田(原田)。彼と若い女性編集者:折見(尾野真千子)との「いのち」を巡る交流の物語だ。 出版社から原稿を取りに来た女性編集者がいつもの男性編集者と違っていて、村田は出版社に軽んじられたなと立腹する。若い女性編集者:折見を、見下し小バカし、命を語り人生を説く。歳を重ね「ふんべつ」盛りでもある(はずの)村田は、度重ねて折見に無理難題をぶつける。 尾野真千子さんは、死にゆく者のあはれと、初老作家を向こうに回して一歩も引かない若い女性の誠実な強さを演じて、ホント見事でした。 (次回、もう少し詳しく書きます)。
この初老の作家と若い女性編集者との遣り取りと、30過ぎのガキだったノーテンキ男と20代後半の「四人娘」との「ハチャメチャ会話」とは、 比ぶべくもなく、シチュエーションも違うのだが、もし現在のぼく(60代半ば)と20代後半だった「当時の」彼女たちという架空の設定が許されるなら、述べておきたい物語がある。 ぼくを衝き動かした(今も衝き動かす)思い出す四つのエピソードを書かせてもらう。
慢性的争議状態の果ての労組臨時大会だった。執行部はスト権を確立すべく提案していた。 女性組合員の誰かが言った。会社の組合否認政策・暴力的対応の理不尽は解るし、スト以外にそれを糾す道の無いことも解る。「まとも」な労使関係を得たいとも思う。けれど、ここでストを決行すれば、会社は次なる攻撃を仕掛けて来るに決まっているでしょ。 自分や自分の将来、親や家や収入…それらを賭けてストを決行するという選択は出来ない。それらが傷つくことへの覚悟は持てません。 一瞬静まり返った議場内から、四人娘の一人が小さな声で言った。 「傷つくことなく何かを得ることなど出来ないのだ、と私は思います」 議場の空気が変化して行く気配を感じた。
「私、学生時代に一時、左翼っほいサークルに関わってたんです。で、そこで挫折したんですね」。 バリケード占拠開始から半年、職場の地下食堂での恒例の当日泊り込者7~8人の夕食時。四人娘の一人がそう言った。 へぇ、それはどんなことだったの?よかったら聞かせてもらうよ、と応ずるべきだった。 ぼくらより10年上の60年安保世代のいわゆる「挫折病」を想起したのか、そしてそれへの「ぼくらはそんな処からは離陸している」という思い上がった「違和感」が先行したのか、「ザセツって、そんな…」と返してしまった。 その返答と表情に「小娘が、何をザセツなどと…チョコザイな」(そんなつもりは無かったのだが)という匂いを嗅ぎ取ったらしい彼女は 「いえ、いいんです。所詮、お嬢さんのザセツですから」と言って会話を停止し、組合在籍中二度と再びその話題を持ち出さなかった。 訳知り顔の大人ガキが、若い人の肉声を入り口で断ってしまふ悪例の極みだ。 いつか、話してみようと思いながら、後年彼女の転身を見送ることになった。
「私には、適性も能力も無いことがよく解ったから、学べる処へ行きます。」そう言って去ろうとする四人娘の一人を、ただただ「考え直せよ」と慰留して、彼女の「決断」の深い意味も想像出来たのに、個人間の些細な業務上トラブルとして対処してしまった。 彼女が作った某メーカーへの提案書は、たぶん数日かけて作ったのだろうディスプレイ空間と陳列器具の提案書だった。今日のような3D画像満載の、キャドなどを駆使したパソコン作業ではなく、分厚い手書きの労作だった。 同職種の先輩男性組合員にやり直しを進言されたのを、「これは、使い物にならない」との刻印だと受止めたのだろうか、上記の決断となった。 二人を呼びぼくを含めた三人の会談をセットし、この素人企業にスキルアップのシステムを構築するきっかけにすることから逃げたのは、戦力不足の自主企業で、彼女が慣れない課題に挑んでいることを百も承知の、他ならぬぼくだったのだ。決定的な遣り取りを恐怖したに違いない。 低水準収入・業績の低空飛行、そこからの脱出だけを考えていて、若い女性の「人生」に心を向ける余裕がなかったんだ、というのは言い訳だ。 「品川さん、ここに社内教育や自主学習のシステムが在ります? 貴方も、男、バリバリの大阪の商店主、オッサンやん。非難してるんじゃあないんよ、それは当然だと思うし私がアカンのやと思うもん。」 それが、最後のセリフだった。
「謝ることはないと思います」そう四人娘の一人が言った。 差し障りがあるので、関係社名や内容をここに書けないが、彼女が言う通りどう考えても当方に非がある事態ではなかった。 けれどもぼくは熟慮した末、謝罪によってしかねじれた関係を修復することができないと判断し、菓子箱を手に相手先へ「謝罪訪問」に出かけた。深々と頭を下げて詫びた。幸い最後は先方と握手し仕事は維持できた。戻ってきたぼくを迎え「ご苦労様」と言った彼女の眼が、赤く腫れていると感じたのは気のせいか? 数年後、今度は別の客先の些細な(今思えば、実に些細な)理不尽要求に、ぼくが頑として譲らず、数度の折衝の果てに、先方会議室で机を引っ繰り返さんばかりに激高し、商い停止・出入り禁止となった。零細企業にとっては貴重な得意先、年間八千万円~一億五千万円の顧客を失った。 帰って来たぼくに、彼女は「組合の経済事情も忘れ我慢できなかった姿は、経営者として失格だと思います。」と強く言って、ショボンと凹んでいるぼくに、「同等の売り上げが見込める次のお客さん探して下さい。それが経営者の務めでしょ」と付け加え、ニヤリと笑った。完敗だった。 TVドラマのサラリーマンもののようだが、どこか違うと断言したい。
四人娘は、辞めて行ったり最後(自主企業の破産、1998年)まで居たりしたが、当時見えなかったものが最近クッキリと見えたりする。 思い浮かぶシーンは、全国の全業種の、どこにでもある企業ドラマのエピソードと違わないとは思う。けれど、その登場人物や社内風景や会話が、労働組合が差配する時間と空間での出来事だったことへの拘りを、その意味を、ぼくは生涯手放す気などない。 我田引水的に言わせてもらうなら、そこには「自立と連帯」を想う者の、「協働」を構想する者の、「組合的」言動が在ったのだと思いたい。 倍バカげていて、倍棄て難いのだ。
次回、原田芳雄遺作TVドラマ『火の魚』について書きます。