ウチナー  と ヤマトゥ の 4・28

昨日(4・27)の知花昌一講演会(クレオ大阪北)で、氏は「私もついに『沖縄独立論』に立たざるを得ません」と語っておられた。                                                                                                        容易く「独立」を語る安逸さを排し、耐えて禁句を封印し、「沖-日連邦論」的可能性に生きて来た知花さん。                                                                 その彼にして切らざるを得なかった舵・・・。再び、三たび、四たびの「沖縄植民地」認識に基づく発言・政策・現実・・・。【添付画像は「琉球新報」】                                                                                                              戦争末期、1945年6月下旬、昭和天皇は当月初め御前会議で決定された「徹底抗戦」方針の軌道修正に乗り出し、連合国との和平交渉へ踏み出すこととなった。その際「和平交渉の要綱」の「条件」の項で、『国土に就いては、止むを得ざれば固有本土を以て満足す』とあり、固有本土の解釈は「最下限沖縄、小笠原、樺太を捨て」と説明されている。つまり、沖縄は日本の「固有本土」ではなく、和平の条件として連合国側に捨てられるものと位置付けられていたのだ。                                                                                                                                                                                                                              敗戦後の1947年9月19日。
新憲法の施行から、わずか4か月余りのときに、“象徴”であるはずの天皇は、マッカーサーに「米軍による沖縄の半永久的な軍事占領を勧める」という秘密メッセージを送っている。 日本国憲法の効力及ばない地域にとって、分割米軍統治を決めたサンフランシスコ講和条約・1952年4月28日とは、何の日なのか?           

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