Archive for 9月, 2012

自民総裁に復帰した「美しい国」の元首相と、東アジア

東アジアの地理的かつ歴史的な俯瞰の中で 尖閣・竹島を視たい

自民党総裁選は、厭な拙予想( http://www.yasumaroh.com/?p=15145 )が的中してしまい、安倍元首相が勝った。「日本を取り戻す」なる大合唱の中で行なわれた総裁選び、尖閣・竹島・「従軍慰安婦」へのただ一種類の「言い分」・・・。もちろん、他の候補が勝ったところで大勢に何か影響がある訳ではないのだが・・・。                                                                                                                                                  どの新聞だったか忘れたが「自民党は、曲りなりの国民政党から、思想的には極右少数政党になり下がった」と論じていた。「リベラル保守・保守護憲から中道まで、巾のある国民政党だったのに・・・」とは、いささか能天気な分析だ。 が、民主党政権の「社会民主主義」(?)からの撤退・変身・放棄(いや松下政経塾DNA塾是の本領発揮政権)が、自民党の選択肢を狭め一隅へ追いやり、加えて尖閣・竹島問題等が自民党総裁候補の「言い分」を逆規定したとも言えるのか?                                                                                                                                                                                                      その選挙戦風景は、まるで某大国の大統領選挙が草の根極右やキリスト教原理主義勢力に強く支えられたように、街頭演説などで何らかの組織・団体の動員に路上を占拠されていた、との報道もあった。                                                                                                                                                                                                ともあれ、宏池会的DNAは出る幕は無かったのである。そこへ、明智光秀にも擬えられた幹事長=某知事の息子の立候補などで谷垣氏は降りたのではあった。                                                                                                                                             「維新の会」の安倍氏へのラブコールと今回の安倍勝利を、結合させ第二幕を迎えたい力学は、尖閣・竹島を巡って、それがメディアの使命だとでも言うようにすでにあちらこちらの紙誌上で「魔女狩り」「名指しの非国民告発」を開始している。

                                                                                                                                                                                        例えば、週刊新潮(10月4日号)は三人の現・元政治家と一人の映画監督を槍玉に挙げて叩いている。その手法は、ひとつの方向性と相容れない論説を述べる個人を徹底的に攻撃するという異様なものだ。言論世界のこの流れは、新総裁の「美しい国」政策や、新党内の権限を一個人に過度に集中して恥じない党首の教育観や公務員観や歴史認識の強権統治願望と軌を一にした露払いに違いない。企業や教育の場で、ますます「物言えぬ」風土が拡大して行くことだけは避けたいものだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         記事にある4人の発言と新潮側の言い分の記述は、はしなくも左翼でも中国派でもない人たちによる良識見解の広範なるを示してくれたが、一方でそれを最も嫌う者の「魔女狩り」「名指しでの非国民告発」言論が、この先に定着させたい姿も示している。

【記事抜粋】(週刊新潮10月4日号)                                                                                                                 野中広務(元自民党官房長官)(CCTV中国国営テレビ局の取材に)                                                                                                                                              『こんな不孝な事件が起きたのは、まったくの日本の人間として恥ずかしいこと』 『周辺国とどのように大切に平和を守っていくか。これが、国家を担う政治家の責任じゃなければならない』 『長い戦争で多くの犠牲者を残し、今なお傷跡が癒えていない中国に対して、歴史を知らない若い人たち(日本の政治家)は、そういうことを抜きにして一つの対等の国としてやっているんです。それは間違っています』                                                                                                                        新潮のツッコミ                                                                                                                                   かつて日本は中国を侵略したのだから暴力デモも我慢しろ、としか聞こえない。                                                                                              康麿                                                                                                                                                             【野中氏が言った意味を、歴史を知れば勇ましい一方的な主張ではなく、「我が国の領土」だという立場であっても、語るべき違う言葉があるはずだ、そういう文脈で聞きたいと思う】                                                                                                                                                               

岩井俊二(映画監督、『LoveLetter』『花とアリス』など)                                                                                                                                                                                                         『国があの島を買うという行為がどれくらい挑発的かを相手の立場でもう少し考えるべきだと思う。日本はかつて侵略戦争をしかけて負けたのだというのも忘れすぎている。』 『日本のメディアは隣国を悪し様に言いすぎ。』 『日本は隣国を侵略しようとして最後はアメリカと戦い負けた。なのに免責された。侵略された国がまだ怒っていても当然で、忘れてしまっている日本の方がどうかしている。というのがぼくの歴史認識です』                                                                                                                                                    新潮のツッコミ                                                                                                                                                                    さすがにここまで一方的に中国の肩を持てば、反発を受けるのは当然だった。岩井氏のツイッターはさっそく“炎上”した。コラムニストの勝谷誠彦氏はばっさり切って捨てるのだ。「中国には出来るだけへりくだっておこうという考えの持ち主だと分かります。これが日本映画の旗手というのですから・・・。」                                                                                                                  康麿                                                                                                                                                             【言論界の者による、ツイッター“炎上”容認には驚くが、「できるだけ歴史の中に事態を晒してみよう」とか「できるだけ相対化して双方の言い分を聞こう」との言を「出来るだけへりくだっておこう」と無理読み・恣意的な誤読が勝谷氏のあの大声の論法だとは理解できた。その後、岩井俊二批判・攻撃はあらゆる通信手段で継続中。その感情的言論はマッカーシズム下のハリウッド以上の下品さと攻撃性満載だ。】

河野洋平(元自民党総裁、前衆議院議長)                                                                                                                                    『現在はこの問題を解決する智恵を私たちは持たないので、解決は次世代に委ねると中国側リーダー(鄧小平)が明確に表明しました。』 『尖閣を巡っては日中間に一つの合意が在ったにもかかわらず、なぜここまで問題化してしまったのか。それは明らかに石原知事のパフォーマンスです』 『国有化は、明らかに現状維持から踏み込んでいます(言外に、次世代に委ねるとの合意の一方的変更でしょ、との意)』                                                                                                                                       新潮のツッコミ                                                                                                                     河野氏はその昔、「従軍慰安婦」問題で、強制の証拠も無いのに「談話」を発表して謝ってしまった張本人である。デモが起きるのが日本のせいにするところが河野氏である。                                                                                                                       康麿                                                                                                                                                 【互いに見解が違い、暫くおこうか・・・、となっている案件を動かしたのはいかがなものか?という河野氏の論は、「デモは日本のせいだ」とは趣旨が違う。悪意をもって誤読するな】                                                                               

藤井裕久(元財務大臣)(9月23日、NHKの討論番組で)                                                                                                                                               『敢えて私は言いますけど、中国にも韓国にも昔の日本に対するものが残っている。歴史を若い人にもっと勉強して頂きたいと思っています。韓国を併合した。中国を侵略した。』 『日本は中国や韓国を侵略した。そう言えない日本人はダメです。』                                                                                                                                新潮のツッコミ                                                                                                                                           尖閣諸島とは別問題では?尖閣諸島がいずれの国にも属していないことを日本政府が確認し、日本に編入したのは1895年。戦後、日本が連合国から指弾された「侵略」とは関係がない。                                                                                      康麿                                                                                                                                                                                    【1895年、日清戦争の最中の尖閣日本編入は、明治新政府の征韓論や1874年の台湾出兵以来の、脱亜入欧路線日本の東アジアへの欲望の表現であった。藤井氏は後日、近現代の日中・日韓=明治期からの侵略的姿勢総体の歴史を見届ける眼差しがない者=新潮からの質問(侵略と尖閣は別問題、との)に、いわゆる「十五年戦争」に限定する無知無恥を言いたくて、、「もっと勉強しなさい!」と言い放ったそうだ。

 

余談:「世界」8月号・豊下楢彦氏論文:『「尖閣購入」問題の陥穽』から抜粋要約                                                                                                                                ①                                                                                                                                                       「第十一管区海上保安本部」の提供区域一覧表によれば、(尖閣諸島を構成する主要な五島、すなわち魚釣島・北小島・南小島・久場島・大正島のうち)実は久場島と大正島は、驚くべきことに「黄尾嶼」と「赤尾嶼」という中国名を冠して記載され、                                                                                                                                     ②                                                                                                                                            しかも「射爆撃場」として米海軍に供されている。                                                                                                                      ③                                                                                                                                                                                                                   国家間政治力学によって、国境線が右に左に揺れて来たヨーロッパに「固有の領土」という概念は無い。そもそも国際法上も「固有の領土」なる概念は無い。日本の政府と外務省が考え出した、きわめてあいまいにして政治的な概念だと言えよう。例えば琉球諸島から成る沖縄の場合、一体いつから日本の「固有の領土」になったのであろうか。琉球王国は独立国家であった。1879年(明治12年)に沖縄県が設置されてからのことか? しかし、翌年に明治政府は、沖縄本島以南の先島諸島(宮古・八重山諸島など)を清に「割譲」する条約に仮調印を行なった。割譲する地域が「固有の」なのか? なら、尖閣を含む琉球諸島は、15年後の日清戦争(1894~95)を経て初めて「固有の領土」となったのか?                                                                                                                                                                                               ところが、1945年6月下旬、天皇ヒロヒトは当月初め御前会議で決定された「徹底抗戦」方針の軌道修正に乗り出し、連合国との和平交渉へ踏み出すこととなった。その際「和平交渉の要綱」の「条件」の項で、『国土に就いては、止むを得ざれば固有本土を以て満足す』とあり、固有本土の解釈は「最下限沖縄、小笠原、樺太を捨てと説明されている。つまり、沖縄は日本の「固有本土」ではなく、和平の条件として連合国側に捨てられるものと位置付けられていたのだ。

そうやって、現在140万の人口を擁し「固有の領土」である沖縄が外国軍と日本によって永く植民地として扱われていることについては沈黙し、人も住まない尖閣諸島に対しては「固有の領土」として断固死守と声高に叫ぶのである。「固有の領土の死守」は、別の意図を持つ単なるレトリックではないのか。 

【追記】                                                                             ぼくは、野中さんや岩井監督や藤井さんの歴史認識に近い見解の持ち主ですが、同時に大国中国の昨今の覇権主義や、古い古い文献を持ち出しての                                                                                                                                                                                ヴェトナム・フィリピン・ブルネイ・マレーシアとの領土領海争いを                                                                                                                                    「中国の赤い舌」と皮肉り危惧する論に大いに同意する者でもあります。                                                                                                                                       その上で、戦前の「日本の黒い腹」を認めない歴史認識から「中国の赤い舌」を語る、新潮や勝谷氏の思考の我田引水・身勝手・非客観性を痛感する者です。           

哂われるかもしれないが、この先1000年以上(そして永遠に)付き合わねばならない相手に対して、2000年前からの古代史を齧るものとしては、                                                                                                       大陸大国とその沿岸列島弧小国との永い関係を、50年100年で考えて激してしまう覇権主義(?)も贖罪主義(?)も、共に俯瞰時間が短期に過ぎると言いたい。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 

通信: 尖閣・竹島の現実的解決案 に遭遇

戦争無き互恵の為に、歴史的妥協を

「9月14日朝、尖閣諸島付近の日本の領海に中国艦船が六隻も侵入」とのニュースが流れた。メディアはいささか興奮気味に領海・侵犯・主権などの言葉を(意識的に?)繰り返し連発していた。                                                                                                          某知事の購入計画ブチ上げ以来、香港の活動家の上陸、日本の国会・地方議員などの上陸、中日各界が互いに声高にナショナリズム・国家・民族・主権を叫び、街頭行動や有名人挙げての発言、反日デモと来ての、中国艦船侵入だ。事態はエスカレートしており、15日には中国全土各市でかなりの規模の反日デモがあった。                                                                                                同じ15日に、たまたまTVで自民党総裁候補の記者クラブでの共同インタヴュー番組を観た。一様に「毅然とした態度」「海保の強化」「しっかりと対応」などと、民主党の対応を責める割には抽象的でよく解からない。前日だったか、朝日報道ステーションでも、古館氏の尖閣問題に関する質問「直ちに何をしますか?」にも「断固として」「海保の能力充実」などが繰り返された。中国がそれでも領海侵犯や上陸を強行すればどうするのです?と古舘氏は食い下がっていたが、具体案など誰にも無いのだ。                                                                                                                                    たぶん古舘氏は、「単身中国に乗り込んで」とか「相手のトップとの会談」などの返答を期待したのだろうが、そうした大見得は相手の強(したた)かさからして可能性低いと見ての発言自重だろう。が、「しっかり」「断固」の繰り返しでは・・・。それは、民主党も同じで、実は誰にも妙案は無い。「民主党の軟弱が・・・」論も、「某知事が火に油・・・」論も、事態の構造を考えれば、それが根本の問題なのではない。枝葉末節だ。                                                                                                                       「いや、日本に正当性があるのだから」と言っても、そこは相手も「正当性」を持っていると主張している。歴代日本政府の言い分が歴史に照らして、国際法に照らして妥当だと言われても、互いに国家の最高機関・最高責任者の名において「我が領土である」と内外に宣言してしまっているのだ。前言撤回は構造上からも無理だ。                                                                                                                                                                                                 某知事やTV頻出の論客は、いずれも勇ましいのだが、中国がそれでも領海侵犯や上陸を強行すれば?の問いに「物理力・軍事力を行使する!」とでも答えるのか? 勝てないし、人命の殺傷を伴うぞ。国是に反する。                                                                                                            ぼくは、2010年11月のブログ( http://www.yasumaroh.com/?p=8800 )で、明の琉球行「冊封使」がしばしば寄港していたと知っても、                                                                                               日本が、日清戦争(1894~95)の戦勝に乗じて(下関条約には記載なく)実効支配したのだと知っても、                                                                                                  海人のものだ以上の線引きに与することは保留したい、と書いた。                                                                               そして、中国のものでもヤマトのものでも明治政府のものでもありはしない、と書いた。

今、具体的で根本的で、無効に見えて実は一番有効な解決策(だと思われる)案を準備している人が居ると聞き、その案を入手した。日本だけが引き下がるんじゃないのだ。互いに「我が領土」と言っているのだから、そこは互いになのだ。その一線を超えられるか、という課題は、為せば「東アジア」総体が世界から尊敬を得るばかりでなく、「北東アジア共同の家」構想への一里塚にもなる。案をここに転載する。                                                                                                                                                                                                             当ブログ読者諸氏、どう思われます? ネット・ツイッター等で波を広げる動きを作ろうと考えているらしい。賛同する?                                                                                            現在、この案に添える「アピール文」(仮題:戦争無き互恵の為に、歴史的妥協を)を検討中だそうだ。

【案】                                                                                                                                                文案第一号                                                                                                            Ø戦争なき互恵の未来のために誇らしき歴史的妥協を!                                                                             Ø荒れ狂う領有権主義への歯止めシンボルとして、非武装共同管理緩衝地帯の創設を!                                                                Ø所有者なき海の尊厳を海に返還しよう!                                                                                                            Ø国家に見放されてきた離島の矜持を国家から独立していることの矜持として花咲かせよう!                                                          Ø両地域を民族的敵愾心の発生装置から和解の発生装置へと変換しよう!

  竹島(独島)・尖閣(魚釣)諸島領有問題に対する解決策の提案                                                                            竹島および尖閣諸島の領有権をめぐる日韓-日中の国家紛争を永久的に解決する方策として以下の提案をおこなう。

1.竹島(独島)は日韓両国の共同管理区域とし、両国はその領有権を永遠に放棄し、その旨を国際社会に通告する。                                                                                                                                              2.竹島(独島)は一切の軍事施設をおいてはならない非武装の無人地帯として共同管理される。                                                                  3.竹島(独島)ならびに協議のうえ決定された範囲の周辺海域に対する漁業権を両国は放棄し、その海域を漁を禁止された漁業資源保護区として共同管理する。                                                                                                       4.同海域に漁業資源以外の天然資源(石油、天然ガス、レアアース、等)が発見された場合は、その採掘を凍結するか、採掘する場合は完全に均等の出資に基づく共同管理採掘会社を設置し、その採掘資源を均等に両国に配分する。

 同様の条約が尖閣(魚釣)諸島に関して日中両国によって結ばれる。すなわち、                                                                           1.尖閣諸島(魚釣)は日中両国の共同管理区域とし、両国はその領有権を永遠に放棄し、その旨を国際社会に通告する。                                                                                     2.尖閣(魚釣)諸島は一切の軍事施設をおいてはならない非武装の無人地帯として共同管理される。                                                                3.尖閣(魚釣)諸島ならびに協議のうえ決定された範囲の周辺海域に対する漁業権を両国は放棄し、その海域を漁を禁止された漁業資源保護区として共同管理する。                                                                                                                               4.同海域に漁業資源以外の天然資源(石油、天然ガス、レアアース、等)が見つかった場合は、その採掘を凍結するか、採掘する場合は完全に均等の出資に基づく共同管理採掘会社を設置し、その採掘資源を均等に両国に配分する。

通信録: **さん、セイキョウ・リジ やめるって?  やめたらアカンで!

半「公」的存在の社会的使命 と 社会的アドヴァンテージ

**運動? **の闘い? **組合? **生協? **NGO?                                                 【生協のはじまり】                                                                                                     世界で初めて生協が誕生したのは、1844 年、イギリスのロッチデールという小さな町の職工28 人が「ロッチデール公正開拓者組合」の店を作ったことにはじまる。当時イギリスの労働者は、産業革命のあおりを受け、低い賃金と高い物価、悪質な商品に悩まされていた。
何とか苦しい生活から逃れようと考えた末、週2 ペンスの積み立てを続け、1 年かけて1人1 ポンドずつのお金を出し合って、安心して利用できる自分たちの店を持った。この店が生協のはじまりで、その時に決めた運営原則は「ロッチデールの原則」として世界中の生協の中で今も受け継がれている。( http://202.252.170.6/research/staff/kado/06ch2.pdf#search=’ 生協の理念と歴史 より)                                                                                                            営利目的ではない社会的営みが経済活動を伴う時、中枢メンバーは初期運営理念のよほどの反芻確認と運営を支える人々への各種配慮に努めないと、その営みは持続しないし変質すると思う。そのことには無頓着なのに維持出来ているという不可思議が続いているなら、それはその営みが経済活動に純化し、中枢メンバーの経済基盤が安泰だからに過ぎない。そしてそこには、間違いなく一般企業のような風土が育っているはずだ。                                                                                                                                                                               恣意的な人事・奇妙な労務政策・業務の外注・専従職員のモチベーションの溶解・初期理念に基づいた活動の形骸化・意思決定作法の不可解・参加者の発意の減少・パワハラ・不当労働行為・専横・私利・・・・・・などが目立ち始めれば、その組織は経済的領域以外では「死に体」だということだ。そして、しがみ付いている虎の子の「経済的領域」自体が、やがて大崩壊するか、モーレツ企業顔負けの「儲け主義」として存続するか、のいずれかを選ぶことになるのだ。かく言うぼくはその轍を踏んだ身だ。天罰も食らっている。だから、他者のことはいっそうよく見える。                                                                                                                                                                                        分かりにくい文でしょう? そう、具体を書けば何処の何を言っているのか関係者には分かるので控えているのだ。いや、言わせてもらおう。                                                                                                                    

品川宿『たそがれ自由塾』:塾頭として、ハッキリ言っておく。(団体戦、個人戦とも いつでもOKやで。応酬しますか?)                                                                                 実質賃金減少+消費税アップ攻撃の世、扱い額が巨大化したからと言って、活動費基準と職員や理事の報酬を上げることなく、すでに十分な報酬を得ている中枢メンバーの報酬をたとえ数万円でも上げるなら、今すぐ「生協」の看板を降ろして営利企業だと公言しなさい。                                                                                           政治課題を取上げるに、選挙での特定候補応援はOK、反原発は政治的に過ぎるなどという恣意的な線引きを再び行なうつもりなら、                                                                                                     直ちに政党支部にでも名称変更しなさい。                                                                                      パワハラ、恣意的な人事異動、職員への退職勧告を繰り返すなら、「生活」「協同」「組合」の、その、いずれの言葉も返上しなさい。                                                                                 友人の会社は、自己破産したが、手形の裏判も借入の個人保証も当然彼が担い彼個人も自己破産した(債務、ン憶円)。これは特別なことではなく、世の中小零細企業・一人親方の個人事業主は、誰も皆そうしたリスクを抱えて経営している。                                                                      そちらではどうだ? 専務か常務か知らんが、ナンボのリスクを負ってるンや?まるで、「親方日の丸」やないのか!                                                                                                                                    税法上も、固定資産税や法人税における非課税特例(優遇税制)を受けている。                                                              それは有り余る資金で御殿(?)等々を建て続ける巨大宗教団体への優遇税制のように不当なのか? 決してそうではないのだ。                                                                                           なぜか?・・・ 戦後の農地改革・婦人参政権などを始めとする戦後改革の一環で1948年に成立した『消費生活協同組合法』にも明記されている理念によっている。公開の原則・民主的管理・教育促進などが謳われ、『生じた利益は全組合員に帰属する』とその協同性が高らかに宣言されている。それは、まるで9条のように輝いて尊いのだ。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       つまり、一般企業以上の規模の商いをしても、経営陣(と言って悪ければ執行部)は世の企業主に比して限定的なリスクで、「親方日の丸」のようで済まされるのは、生協が「社会的存在」だからである。つまり「公」を抱えて存在しており、「私」企業ではないのだ。                                                                                                                      「消費生活協同組合法」施行規則 http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23F03404001001.html                                                                                                             薄給で勤めろ、ボランティアしろ、極貧に耐えろなどとは言ってない。                                                                                                                                                                       われらと我等の事業は「公」でもある、そのことに恥じない対応、襟を正した佇まいに戻りなさい。そう申し上げている。すでに一般企業水準と同等かそれ以上の報酬を得ているではないか。                                                                                                        各種取組・教育の活動費・必要資金はいつも不足し、ときに「やる気のある者」の自腹じゃないですか!                                                                                          雨の日も嵐の日もやって来てくれる、配送部門のお兄さんの労働条件はどうですか? 兄さんと話し合ったことありますが、いろいろ聞いてますよ。                                                                                                                  組合員理事さんは、幼い子を抱え自分の仕事を持ち、残った僅かな時間で時に深夜に企画書を書き・情宣チラシを作り・通信を発信している。                                                                                                                        これら、活動費や配送職員・組合員理事さんの待遇考慮(保育体制など)に優先して、一握りの者の報酬を上げなければならないとは、とうてい思えないのです、消費税アップを前にして・・・。                                                                                  現在の活動領域を越え、 地域の子育て「力」の復権(若いお母さんへの子育て教室、学童料理教室など)、福祉や高齢者の自立・共生(ケアハウス、グループホーム、特養など)、生活総体を対象に新たな挑戦(男性高齢者予備軍への家事炊事教室など)も構想していると聞けばこそ、                                                                              生協活動に集って来る有意の人々の「やる気」を挫くような対応には、あえて厳しく申し上げた次第。 ワシを怒らせるな!                                                                                                                 以上。                                                                                                           「生活」「協同」「組合」、その原点に立って下さい。生協を取巻く消費経済状況の困難さは承知しております。                                                                                                                お心当たりの団体からの返答を待ちます。当方、もちろん公開での討論でもOKです。

 

 

たそがれ映画談義: 『桐島、部活やめるってよ』

 http://www.youtube.com/watch?v=KjjG0WTQ6C4                                                                                                                     

YouTubeへの投稿より一篇転載:                                                                                             痛いです。ものすごく痛々しい。                                                                                                                           最初は「あ~こういう奴いたな」「自分はこっちグループだったな­」なんてにやにやしてました。                                                                                   しかし途中から、キツくて直視したくない逃げ出したいような感覚­になりました。                                                                                あの頃はよかった…なんて美化しがちですが、高校時代って本当は­痛ましくてかっこ悪いことの連続だった気がします。少なくとも自­分自身は。                                                                                               この痛々しさが、切ないくらいに美しく感じられました。すごい映画です。  (20代の若者からだろうか?)*****************************************************************************************************************************************

『桐島、部活やめるってよ』(12年、現在公開中) http://eiga.com/movie/57626/  監督:吉田大八、 聞いた名だと思ったら、                                                                                                                         『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(07年。佐藤江梨子、永作博美)  http://www.phantom-film.jp/library/site/funuke/                                                                      『クヒオ大佐』(09年。堺雅人、松雪泰子、満島ひかり) http://www.youtube.com/watch?v=6NCvrZpazWE                                                                                                                   『パーマネント野ばら』(10年。菅野美穂、池脇千鶴、小池栄子)  http://www.youtube.com/watch?v=GEN8BKixi74 (http://www.yasumaroh.com/?p=6286)と                                                                                                                その全作品を観ていて、しかも結構お気に入りの作品たちだったのだ。今回、四作目を拝見。

素晴らしい映画でした。バレーボール部のエース:桐島が部活をやめるらしい。桐島は所在不明。                                           たぶん作者の分身だろう帰宅部の菊池と映画部の前田を始め、中学時代大学生と付き合っていたと噂される桐島の彼女梨紗、ちょっと大人でクールで冷静という名の処世術を手放さないカスミ、桐島の代役を押し付けられた技量不足の風助に感情移入するバトミントン部の実果(個人的には女子の中で一番気になりましたが、ラスト近くバレーボール部の練習時に風助へのシンパシーを口にする。あれはいけません、黙っていなさい)、帰宅部菊池への不器用な片恋に悩む吹奏楽部部長の亜矢・・・・・・ 不在の桐島(最後まで桐島は登場させない)への距離、今居ないことへの感慨、事態からそれぞれが「自身の部活・非部活・高校生活」を問い始める。二年生。彼らの中を順に視点を移動させながら事態を立体的に描く手法も、実に上手く行っていた。                                                                                                                                                                                             ぼくの高校時代とは違う生徒達の表現の「直截性」や「可視性」に違和を感じながら、時代を経て変わらない彼らの「俗情」「邪心」「シャイ」「秘めた真剣」「ついそうしてしまう茶化し」などなどに安堵したりで、現代高校生の生態と状況を見事に切り取っていると、知りもせず思うのだった。                                                                                      現在(いま)を切り取っているとして、しかし、ここに登場する準エリート(地方の二流以内の公立進学校生)ではない、いわば四流五流校とされる高校・落ちコボレ・引きこもり・逆にアウトローとして街に出る・・・などの貧困(経済的、状況的、精神的に)高校生を描く映画を撮らねばならない義務を、監督:吉田大八は負ってしまった、と思う。そうしてこそ、両側から時代に迫れるのだろう。                                                                         作者は『桐島・・・』に教師や親を登場させないのだが(そこがまた素晴らしい)、そしてまた政治や社会への回路もあえて描きはしない。説教調で浅はかな取って付けた社会性ほど不快なものはない。生徒たちは、狭いムラで「自分たちだけ」の「自己責任(?)」において事態に対処し解決してゆくのだとでも言うように、幼い「大人」なのだ。その「大人」観察眼の自制的な目線は、あるリアルを捕らえる吉田流の作法でもあるようだ。 その先に当然現在(いま)が在り、社会が在る。                                                                                                                                                                                                                                          吉田大八はここで描いたリアルをバネに、前述した底辺(?)校やドロップアウト生の掴み難いリアル、それをたぶん違う方法で掴み描くだろうと思う。だから吉田大八には、自身の地域活動を「世田谷方式」などと高く自己評価(大塚英志から「ファシズムを下支えするモノへの転化」の可能性を皮肉っぽく指摘されてはいるが)して悦に入る(?)宮台真司に感じたような、ハイソエリート主義(?。失礼)への遠疎感は抱きはしなかった。                                                                                                                                                                                                                                                                     続編、期待したい。                                                                                       

それにしても、優れた作品(だとぼくが思っている)を含めて、強圧にも誘導にも譲ることのない固有性と 出来事の背景を抉り出す鋭い社会性と 人々を仮当事者へと叩き込まずにはおかない迫真性と 現在(いま)を射抜く全体性を湛えた「堂々たる」日本映画に久しく出会えていないような気がする。                                                                                                                                                         例えば、ヴィスコンティの『山猫』、ベルトルッチ 『1900年』、内田吐夢『飢餓海峡』、小栗康平『泥の河』なんてね・・・。                                                                                                       何が、微細化し「私」化し俗欲化しているのか? そこは、「美しい」ものたちがいくらでも浸透できる液状化した砂地だというのに。                                                                                                                                                                                                                              

 

                                                                                                                                                                                                                                                                        、

 

ぼやき: シンゾウ君とトヲル君が、 「美しい(?)」国柄の「価値観」を共有。

「維新の会」と安倍元首相。 

「維新の会」が安倍元首相との連携を進めるべく動いたとの新聞報道。維新の代表になってくれと言われたという情報まである。ご指名に預かった安倍氏の側も妙にはしゃいでいるそうだ。数年前の出来事(政権投げ出し)が恥ずかしくはないのかと言われながら、秋の自民党総裁選挙に立つそうで、維新との連携に進むのだそうだ。                                                                                                                                                          さっそく「あの政権プッツン投げ出しの{お坊っちゃま極右}はかえって好都合、日本の有権者はあの辞め方を簡単には忘れないよ。{美しく}共倒れしてくれるのではないか?」と楽観論が出ている。                                                                                                                                            そうだろうか? 日本の有権者は、簡単に忘れることにかけてはプロだよ。                                                                                                                                   元首相は、辞任(投げ出し)後半年ほどの段階で「ぼくの登場のタイミングが少し早かたようだ。美しい国の真意が理解される時が必ず来る。そのタイミングで再び起つために云々・・・」と周囲に捲土重来を誓って見せていたそうだ。地方行脚(?)を繰り返し、軟弱・お坊ちゃまを返上、パワーアップを図って「来るべき時」に備えて来たそうだ。尖閣・竹島・「従軍慰安婦問題」が浮上する「今」がそのタイミングだという訳か。                                                                                              「維新の会」となら「価値観を共有できる」「戦いにおける同志だ」そうだが、安倍元首相の再登場が、尖閣・竹島・「慰安婦問題」を巡る「国家主義的」世論(?)を背景にして「維新の会」の人気に乗って力を得るなら「楽観論」は通らない。手ごわいと思うし、その先への流れをつくるキッカケにしたい自民党右派の伝統的DNAが前面に登場だ。

「維新の会」は次期総選挙において、「みんなの党」「小沢新党」との連携は採らない一方、公明候補者が居る選挙区への立候補は見送るという。                                                                                                                                                                   最早明らかだろう、「維新の会」とは、議席を獲得するに最も有効なバーターを選択して公明には恩を売り、新自由主義的な経済・労働政策と、国家主義的な教育などの政策への公明の追随を担保し(すでに府政・市政で実行済)、自民右派との連立、さらには連合を考えていよう。安倍元首相が自民党総裁となるならば「維新の会」との連立ということだと思う。別の者が総裁となっても、自民内「価値観」共有派との共同歩調が始まるだろう。                                                                                                                            「維新の会」の目指すものとは結局、                                                                                                                                                             行政改革という名の 公務員叩き、職員基本条例、教育基本条例、福祉切捨て、労働者関連施設廃止、男女共生施策嫌いの施設と予算の縮減などが本音で、大阪都構想・道州制等見栄えする表向きの衣装に過ぎない政治と、                                                                                                                                                              「君が代条例」、従軍慰安婦問題などでの発言、集団的自衛権行使への見解、改憲論、近現代史学習館(扶桑社・育鵬社の教科書製作者を迎えて)の創設構想に明らかな国家主義に貫かれた思想なのだ。                                                                                                           歴史に照らせば、ン十年前ヨーロッパに登場したあの政党の亡霊のような動きではないか。                                                                                                                                        あの時も、既成保守政党の没主体的擦り寄りがその政党の権力奪取を助けたのだが、「維新の会」旋風は、橋下という絶好のタレントを得て、戦後自民党が果たそうとして果たせなかった、国家主義・民族主義・排外主義・反民主主義・改憲政権を、本格的に登場させようとする装置として尊重されるだろう。そこに「大阪ハシズム」の根深さと根本問題がある。 

国家が過剰に語られ、民族が声高に叫ばれ、近隣国への憎悪が組織され、人々が勝利(取敢えずスポーツだが)に熱狂し、外交姿勢を弱腰と糾弾する昨今(実に日露戦争直後1905年の世情に似ているではないか!)・・・、この国の国柄は、宮台真司・大塚英志の対談集『愚民社会』(太田出版、12年1月、¥1600)が言う通り「近代への努力を怠って来た」結果だろうとは思う。ヨーロッパの近現代は果てにナチス登場を許しホロコーストを生んだではないかと語って、近代の意味を否定する論にはぼくは与しない。                                                                                                                                                           ところで、国柄はこんなところに表れる。お茶の間経済ジャーナリストと自称してTVに登場する、萩原博子という一見「主婦の味方」「生活から政府を撃つ」風スタンスのオバチャンまで、悪乗りして「民主党の弱腰外交が、竹島・尖閣問題を悪化させた。知識があって弁が立つ人がやった方がいい」(9/2夕刊フジ)と語るのだ。ナショナリズム称揚とそれに基づく外交選択のお茶の間説得に一役買っても、当然それに動員されたとは自覚しはしない。                                                                                                                                        大同小異はあれ、現在マスメディアが垂れ流している情報に大差はない。竹島・尖閣に怒らないのは「非国民」だと言い始めかねない論調に溢れている。石原慎太郎は「野田政権は日本人の政府ではない」と吠えている。お隣韓国では、竹島(孤島)への見解を問われ言葉を濁したKARAが、猛烈なバッシングに晒されている。

近代への努力を怠る、近代そのものの否認、近代の胎動を経ずして経済大国化、等等・・・・そのいずれであれ、ヨーロッパ的近代体験からは隔たって在って、21世紀に至ってしまっている中露日韓。                                                                                               中・露・日・韓による領土問題は、どちらに正当性が有ろうが無かろうが、いずれかのナショナリズムに立脚した論からは、決して答えに行き着きはしない。                                                                                               領土問題という超難問の中で、東アジア総体の「近代への努力」を、試す・行なう・挑む、その構えをまず確立したいものだ。                                                                                                                                                                         それができない限り、国内的には80年前のヨーロッパのあの政権の類似政権を許すことになる。                                                                                  東アジアへの顔、国内の民度、それはワンセットだ。

【蛇足】                                                                                       言いたくはないのですが、某市市長選に際してのぼくの言い分( http://www.yasumaroh.com/?p=14358 )を撤回する気はありません。むしろ、ますます危惧した状況へと事態は動いているようです。あそこで「維新」の勢いを削ぐことは有効だったと思う。                                                                                                              いずれにせよ、「自民党の伝統的右派DNA+維新」との総力戦が始まるのだと思う。                                                             孫にハシズム社会を遺したくはない! 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        、 

 

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