読書: 『「一九〇五年」の彼ら』 -②民主党政権とAKB総選挙
『「一九〇五年」の彼ら -「現代」の発端を生きた十二人の文学者- 』 (関川夏央著、NHK出版、¥780)
何の為の「公」なのかを巡って、ぼくが得たヒントもある。 1911年(明治44年)9月、平塚らいてふ・長沼智恵子らによって「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。」に始まる創刊の辞を掲げた『青鞜』が発行される。冒頭に与謝野晶子の詩が掲載されたそうだ。「一人称にてのみ物書かばや。われは女(おなご)ぞ」とあるのだそうだ。
なるほど、「一人称にてのみ物言わばや。われは民ぞ」だ。個々の「私」、その実現・確立・確保・保障の為にこそ「公」は在る。政治や総選挙から遠い、若者・中年男らがAKB総選挙(?)に一喜一憂し、日本武道館に詰めかけた一万人や、居酒屋やレンタルビデオ店のモニターTV前では、開票速報に投票者たちの歓声と溜息が交差している有り様だという。この狂想曲の仕掛人は、かつて「天皇在位20周年祝典」のセレモニーを演出したりしていた。「日出づる国の」と「祝典賛歌」を奉じていた。「祝典賛歌」と「AKB総選挙」が深いところで繋がり共犯関係にあることの証左であろう。 大新聞社発行の月刊誌にコメントを寄せる学者は、この総選挙狂想曲光景を肯定的に捉え分析した挙句、仕掛人の思惑に便乗する各種メディアと投票者の「あてがい扶持」文化の「危うさ」への警鐘ひとつ語りはしない。
消費の大部分が「誘導された欲望」に支配され、渋谷の街は「誘導されたファッション」に包まれた若者で今夜も溢れ、大新聞やエセ公カルチュアは奴らの企画演出の狂想曲に易々と乗ることで、本来責務の放棄を忘れらるのだ。 100年を費やしてなお、この国には「公」が無い。それは、「私」そのものがないからなのだ。 政権にしてからが「公」が無いから、原発再稼動に走り、普天間-辺野古を言い続け、公約違反の消費税強行を実質大連立で乗り切ろうとしている。民・自・公とは、議会の8割、つまりは大政翼賛会なのだ。 「公」の無いところには、擬制の「エセ公」が「公」を僭称して登場するぞ。国家神道・武士道・大和魂などではなく、それを活用したとしてもメインは「新しく」「カッコよく」「人々に支持され」て登場するだろう。そうハシズムはその一例だろう。 1905年からの約100年の曲がり角に政権を手にした民主党は、その意味も、その使命も、何も分かっていない。民主党の「私」さえすでに氷解し去った。 新聞紙上に民主党政権へのブラック・ユーモアが出ていた。政権の無策・「羅針盤喪失航行」を述べて「民主党は要らない」ではなく「自民党は要らない」と説く。曰く「自民党の仕事は、全て民主党が行なっているから」と締め括る。 社会民主主義的「的」政権や、ヨーロッパ左派政権を構想して期待した人々も、いよいよ民主党を見限る時期に来ていよう。 「私」の確立による「公」の展開・・・、下手に政権にある限りその構想への妨害でしかない。この国のなけなしの「抵抗勢力」「総結集を想定できる潜在力まで溶解せられては、再建の支障だ。それよりは、 対立軸が明確であり、相対的「左派」の異議申し立てが常に一定の社会的波及力をもって存在する・・・、今ならまだその復刻へと舵を切れる。民主党政権への一切の幻想を棄てることが、「私」の確立であり、従って「公」への道なのだと、一年かけて想い至った次第である。