訃報: 吉本隆明逝く

吉本さんが亡くなった。                                                                                                            吉本さんには、人類が辿り着いた科学(原発を含む)への残念なスタンスを見せ付けられ失望(http://www.yasumaroh.com/?p=12371) したが、氏が切り拓いた思考の構えへの提言の数々・・・その真価は失せはしない。思索する人間・生活する人間・独り起とうとする人間、その思想的拠点を指し示してくれた。                                                                                                                                 40数年前に著作に出遭って以来、幾多の領域で「追っかけ」をして来た。87歳という。考えてみれば、我々もすぐそこなのだ。                                                                                              改めてすごい人だと想う。死ぬまでにもう少し理解は進むだろうか・・・。

 

                      

【毎日新聞転載】

<吉本隆明さん死去>晩年まで独自の思考を重ねる

毎日新聞 3月16日(金)12時28分配信

 

拡大写真

書斎で仕事をする吉本隆明さん=東京都文京区で松田嘉徳撮影

 戦後最大の思想家、吉本隆明さんが亡くなった。晩年まで衰えることなく独自の思考を重ね、筆を執り、日本と世界の状況に鋭いまなざしを向け続けた。思想界の「巨星」にふさわしい87歳での大往生は、「戦後」と呼ばれた時代の完全な終わりを告げるものといえる。【大井浩一】

【写真特集】吉本隆明さんの1970年代からを写真で振り返る

 終戦時、20歳だった吉本さんは文字通り青春を戦争の中で送った「戦中派」だ。自分がかつて皇国青年だったことを、戦後も一貫して公言していた。文学活動は詩作を通じ、生きる意味を徹底して問うところから始まるが、背景には敗戦に伴う深い喪失感と、一転して民主化を掲げた周囲への違和感があった。

 「時代のイデオローグ」と見なされるようになったのは、1960年代の学生運動を通じてだった。60年の安保反対闘争では反日共系の全学連主流派と行動をともにした。運動の挫折体験を通じ、「自立」「単独者」と表現される隔絶した思想的立場を固めた。60年代末の大学紛争では、全共闘の学生たちの間で「教祖」的な絶大な影響力を持った。

 吉本思想の特徴は、日本のアカデミズムにありがちな西欧からの“借り物”の学問と異なる点にある。そして、常に「現在」の問題を取り上げ続けた。70年代以降、批評の対象は心理学や宗教、古典など幅広い領域へ拡張を続けたが、民衆の立場に寄り添う「大衆の原像」という思考の立脚点は揺るがなかった。

 ソ連・東欧崩壊のはるか前に社会主義体制の行き詰まりを喝破する一方、消費中心への資本主義の変質にも早くから注目し、先鋭な分析を加えた。豊かな文学性と生活感情からくみ出された批判の情熱と詩的な論理は、若い世代を含む広範な読者を魅了し続けた。

 晩年は糖尿病による視力の衰えに悩まされたが、年に数冊の本を出し続け、思考の健在を示していた。2011年12月には石川啄木没後100年をめぐる毎日新聞の取材に応じたが、その後、体調を崩した。12年1月刊行の「吉本隆明が語る親鸞」が事実上の最後の著作となった。

 ◇評伝=誠実で穏やか 庶民的な雰囲気

 記者が吉本隆明さんに初めて会ったのは1997年。既に70代だったから、晩年と言っていい。以来、2度の聞き書き連載などで度々話を聞いたが、偉そうなところはまるでなく、不思議なくらい肩の凝らない人だった。

 語尾に「ぜ」や「さ」が付く東京の下町言葉で、話し出すと止まらなかった。誰が相手でも、誠実で穏やかな熱を帯びた話しぶりは変わらない。初対面の人は決まって「これが、あのヨシモトリュウメイなのか」と驚き、庶民的な雰囲気にひかれた。ある世代の人々にカリスマ的な影響力を持った秘密は人柄にもあったに違いない。

 突き放した言い方になるが、世代を超えた「吉本人気」は、意外と自身の提供する話題性にも支えられていたのではないか。新進批評家として戦後論壇に登場した最初、当時はインテリ層の間で権威の高かった日本共産党や、花田清輝らの論客を相手に、舌鋒(ぜっぽう)鋭く論争を挑んだ。60年安保で学生とともに行動し、警官隊に追われ飛び込んだ先が首相官邸で、逮捕されたという話も有名だ。

 サブカルチャーの分析を通じ消費社会の意味を論じた80年代には、盟友だった作家の埴谷雄高とも論争した。ブランドファッションを身に着けた吉本さんが女性誌「アンアン」に出たのを、埴谷から「資本主義擁護」と非難されたが、逆に倫理主義的なインテリの視線そのものに批判を加えた。96年には海水浴に訪れた伊豆の海岸でおぼれ、辛うじて一命を取り留めるという事故も報じられた。

 熱烈に支持する読者の存在から“吉本教”などとも呼ばれたが、本人は組織の束縛を嫌い、あらゆる権威主義に反骨を通した。安保闘争の敗北後、谷川雁らと同人誌「試行」を刊行し(61~97年。途中から吉本さんが単独で編集)、主要な発表の場としたのもその表れだろう。

 2011年の原発事故後も「反原発」批判の持論を変えなかった。「大衆の原像」に寄り添い、独自の道を歩んだ吉本さんの生涯は、独立した知識人の生きざまとして人々の注目を浴び続けるものだった。【大井浩一】

 ◇吉本隆明さんの主な著作◇

「固有時との対話」(詩集)1952年▽「転位のための十篇」(同)53年▽「マチウ書試論」54年▽「文学者の戦争責任」(武井昭夫と共著)56年▽「高村光太郎」57年▽「転向論」58年▽「芸術的抵抗と挫折」59年▽「擬制の終焉(しゅうえん)」62年▽「丸山眞男論」63年▽「日本のナショナリズム」64年▽「言語にとって美とはなにか」65年▽「自立の思想的拠点」66年▽「共同幻想論」68年▽「心的現象論序説」71年▽「書物の解体学」75年▽「最後の親鸞」76年▽「初期歌謡論」77年▽「戦後詩史論」78年▽「悲劇の解読」79年▽「世界認識の方法」80年▽「空虚としての主題」82年▽「『反核』異論」82年▽「マス・イメージ論」84年▽「重層的な非決定へ」85年▽「記号の森の伝説歌」(詩集)86年▽「宮沢賢治」89年▽「ハイ・イメージ論1・2・3」89、90、94年▽「母型論」95年▽「アフリカ的段階について」98年▽「日本近代文学の名作」2001年▽「夏目漱石を読む」02年▽「現代日本の詩歌」03年▽「吉本隆明全詩集」03年▽「詩学叙説」06年

 

Leave a Reply

Search