Archive for 3月, 2012

歌遊泳: 新橋界隈 最後の演歌師

新橋:最後の演歌師

街の声を訊く場として有名な新橋駅:日比谷口のSL機関車が鎮座する通称「SL広場」は、しばしば報道番組などに登場している。                                                                                   一杯機嫌のホワイトカラーが帰宅までの時間を計算して考え、余裕のある者は取材記者に応じ、一刻を争う者は小走りに駅へ急ぎ、深夜まで雑踏状態だ。                                                                                                              インタヴューに応えるホワイトカラーは、本音か勤務先への気遣いから顔が出てはまずいとの手控え発言かは定かではないのだが、酔っている分「本音」に近いだろうとのTV局の判断でか、SL広場はいわば「定番」として、サラリーマン・アンケート取材場所の王座を保ってきた。                                                                                                            新橋界隈のホワイトカラーが主要な客だろう飲食街は、大阪で言えば十三までは辿り着けないが、天王寺・京橋辺りの匂いを持っていて、有楽町から続くガード下の飲食街も併せて嫌いではない。

以前、品川宿で「ここは行ける」と感じた店(何と店の名は『佐平次』) のことを書いた(http://www.yasumaroh.com/?p=13097 )が、その一匹狼的オヤジの友人(84歳)が、新橋で「昭和の居酒屋」を手伝っているという。                                                                                                                       先日、ちょっと厄介な現場の山を越えて品川宿『佐平次』で呑んでいると、オヤジが「店閉めて、新橋へ唄いに行くぞ。来るかい」と言う。                                                                                                                          何でも、70歳前のママが営むその小さな店は、夜半まで客とてそんなになく、カラオケ唄い放題だという。終電車に乗り遅れたサラリーマンが、タクシー帰宅でもビジネスホテル泊でも金が嵩むので「え~い、安いのなら朝まで呑むか」とやって来て、25時から忙しいのだそうだ。                                                                                                         品川宿『佐平次』のオヤジ(同じ1947年生まれ)と連れ立って、新橋へ向かった。                                                                                     飲食街の雑踏をかき分け、サラリーマンの流れとは逆に歩き10時前に店に着くと、話通り貸切状態。                                                                                                                 『佐平次』のオヤジの友人(84歳)は、信じられない若さと気力を発揮して、溌剌として「ホール係」を務めている。呑み・食べ、カラオケ三昧となった。『佐平次』のオヤジと店の好爺は、もっぱら田端義夫・鶴田浩二・春日八郎・三波春夫・杉良太郎などの演歌を唄い、ぼくは60年代以降の歌謡曲:中島みゆき・加藤登紀子・アリス・小椋佳・沢田研二・長渕剛などに加え阿久悠モノを唄った。何せ、三曲に一曲唄うことになるわけで、忙しいことだった。久し振りに唄いまくった。                                                                                                                                         24時を回ると客もチラホラ・・・、で、25時に退散したのだが、何と好爺もいっしょに帰るという。えっ?これから店は忙しいんじゃないの? それじゃあまるで客が来るまでの時間、客が居ない時のママの話し相手をすることが、あんたが言う「手伝っている」なの? 「そうなんですよ」だった。                                                          深く詮索する気は無いが、この84歳、中々の御仁である。見習いたい。

その夜、この84歳氏以外にも「いいもの」に遭った。退散する小一時間前、新橋にただ一人残った「流し」=演歌師がやって来た。この店をベースキャンプにしていると言う。                                                                                                          飲食街を唄い歩き、小休止にここへやって来る。まだ、客もほとんど無い時間に来て食事をし、ママと好爺と話し、また夜の街へ唄いに向かう・・・、それが日課だそうだ。唄うのをやめて呑みに行く時には、ここにギターを置いてゆく。なるほど彼のベースキャンプだ。                                                                                      最近フジテレビが取材+撮影したそうで、たしか5月15日に放映されるらしい。                                                                                                              『新橋・最後の演歌師』といった内容だそうだ。「流し」始めて五〇年という。なら70歳前後のはずだ。田端義夫に似ていた。                                                                                                       「流し」氏の名は須賀慶四郎、通称ケンちゃん。                                                                                                              歌は、何でも来い。若い人の歌も唄います。最近の歌でもOKと言っている。                                                                            彼が唄った歌を五〇年分連ねたら、昭和が、ホワイトカラー諸氏の「ホンネ」が、浮かび上がるだろうか・・・。                                                           ハイ、かく言うわたくし:品川康麿、演歌派です。                                                       そのスタンスは、もちろんこういうことだ。                                                                                       「演歌と『切れて繋がる』 」                                                サラリーマン諸氏が演歌と酒席というカタルシスを得て、このSL広場から一歩も出ない昭和だったということは明らかなのだから・・・。

 

その夜、ケンちゃんはこれを唄ってくれた。  http://www.youtube.com/watch?v=gbA15I5_zQM

 

 

訃報: 吉本隆明逝く

吉本さんが亡くなった。                                                                                                            吉本さんには、人類が辿り着いた科学(原発を含む)への残念なスタンスを見せ付けられ失望(http://www.yasumaroh.com/?p=12371) したが、氏が切り拓いた思考の構えへの提言の数々・・・その真価は失せはしない。思索する人間・生活する人間・独り起とうとする人間、その思想的拠点を指し示してくれた。                                                                                                                                 40数年前に著作に出遭って以来、幾多の領域で「追っかけ」をして来た。87歳という。考えてみれば、我々もすぐそこなのだ。                                                                                              改めてすごい人だと想う。死ぬまでにもう少し理解は進むだろうか・・・。

 

                      

【毎日新聞転載】

<吉本隆明さん死去>晩年まで独自の思考を重ねる

毎日新聞 3月16日(金)12時28分配信

 

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書斎で仕事をする吉本隆明さん=東京都文京区で松田嘉徳撮影

 戦後最大の思想家、吉本隆明さんが亡くなった。晩年まで衰えることなく独自の思考を重ね、筆を執り、日本と世界の状況に鋭いまなざしを向け続けた。思想界の「巨星」にふさわしい87歳での大往生は、「戦後」と呼ばれた時代の完全な終わりを告げるものといえる。【大井浩一】

【写真特集】吉本隆明さんの1970年代からを写真で振り返る

 終戦時、20歳だった吉本さんは文字通り青春を戦争の中で送った「戦中派」だ。自分がかつて皇国青年だったことを、戦後も一貫して公言していた。文学活動は詩作を通じ、生きる意味を徹底して問うところから始まるが、背景には敗戦に伴う深い喪失感と、一転して民主化を掲げた周囲への違和感があった。

 「時代のイデオローグ」と見なされるようになったのは、1960年代の学生運動を通じてだった。60年の安保反対闘争では反日共系の全学連主流派と行動をともにした。運動の挫折体験を通じ、「自立」「単独者」と表現される隔絶した思想的立場を固めた。60年代末の大学紛争では、全共闘の学生たちの間で「教祖」的な絶大な影響力を持った。

 吉本思想の特徴は、日本のアカデミズムにありがちな西欧からの“借り物”の学問と異なる点にある。そして、常に「現在」の問題を取り上げ続けた。70年代以降、批評の対象は心理学や宗教、古典など幅広い領域へ拡張を続けたが、民衆の立場に寄り添う「大衆の原像」という思考の立脚点は揺るがなかった。

 ソ連・東欧崩壊のはるか前に社会主義体制の行き詰まりを喝破する一方、消費中心への資本主義の変質にも早くから注目し、先鋭な分析を加えた。豊かな文学性と生活感情からくみ出された批判の情熱と詩的な論理は、若い世代を含む広範な読者を魅了し続けた。

 晩年は糖尿病による視力の衰えに悩まされたが、年に数冊の本を出し続け、思考の健在を示していた。2011年12月には石川啄木没後100年をめぐる毎日新聞の取材に応じたが、その後、体調を崩した。12年1月刊行の「吉本隆明が語る親鸞」が事実上の最後の著作となった。

 ◇評伝=誠実で穏やか 庶民的な雰囲気

 記者が吉本隆明さんに初めて会ったのは1997年。既に70代だったから、晩年と言っていい。以来、2度の聞き書き連載などで度々話を聞いたが、偉そうなところはまるでなく、不思議なくらい肩の凝らない人だった。

 語尾に「ぜ」や「さ」が付く東京の下町言葉で、話し出すと止まらなかった。誰が相手でも、誠実で穏やかな熱を帯びた話しぶりは変わらない。初対面の人は決まって「これが、あのヨシモトリュウメイなのか」と驚き、庶民的な雰囲気にひかれた。ある世代の人々にカリスマ的な影響力を持った秘密は人柄にもあったに違いない。

 突き放した言い方になるが、世代を超えた「吉本人気」は、意外と自身の提供する話題性にも支えられていたのではないか。新進批評家として戦後論壇に登場した最初、当時はインテリ層の間で権威の高かった日本共産党や、花田清輝らの論客を相手に、舌鋒(ぜっぽう)鋭く論争を挑んだ。60年安保で学生とともに行動し、警官隊に追われ飛び込んだ先が首相官邸で、逮捕されたという話も有名だ。

 サブカルチャーの分析を通じ消費社会の意味を論じた80年代には、盟友だった作家の埴谷雄高とも論争した。ブランドファッションを身に着けた吉本さんが女性誌「アンアン」に出たのを、埴谷から「資本主義擁護」と非難されたが、逆に倫理主義的なインテリの視線そのものに批判を加えた。96年には海水浴に訪れた伊豆の海岸でおぼれ、辛うじて一命を取り留めるという事故も報じられた。

 熱烈に支持する読者の存在から“吉本教”などとも呼ばれたが、本人は組織の束縛を嫌い、あらゆる権威主義に反骨を通した。安保闘争の敗北後、谷川雁らと同人誌「試行」を刊行し(61~97年。途中から吉本さんが単独で編集)、主要な発表の場としたのもその表れだろう。

 2011年の原発事故後も「反原発」批判の持論を変えなかった。「大衆の原像」に寄り添い、独自の道を歩んだ吉本さんの生涯は、独立した知識人の生きざまとして人々の注目を浴び続けるものだった。【大井浩一】

 ◇吉本隆明さんの主な著作◇

「固有時との対話」(詩集)1952年▽「転位のための十篇」(同)53年▽「マチウ書試論」54年▽「文学者の戦争責任」(武井昭夫と共著)56年▽「高村光太郎」57年▽「転向論」58年▽「芸術的抵抗と挫折」59年▽「擬制の終焉(しゅうえん)」62年▽「丸山眞男論」63年▽「日本のナショナリズム」64年▽「言語にとって美とはなにか」65年▽「自立の思想的拠点」66年▽「共同幻想論」68年▽「心的現象論序説」71年▽「書物の解体学」75年▽「最後の親鸞」76年▽「初期歌謡論」77年▽「戦後詩史論」78年▽「悲劇の解読」79年▽「世界認識の方法」80年▽「空虚としての主題」82年▽「『反核』異論」82年▽「マス・イメージ論」84年▽「重層的な非決定へ」85年▽「記号の森の伝説歌」(詩集)86年▽「宮沢賢治」89年▽「ハイ・イメージ論1・2・3」89、90、94年▽「母型論」95年▽「アフリカ的段階について」98年▽「日本近代文学の名作」2001年▽「夏目漱石を読む」02年▽「現代日本の詩歌」03年▽「吉本隆明全詩集」03年▽「詩学叙説」06年

 

通信録: 鳩、某歌手

白い鳩、某歌手の肉声

 ガラス多数の搬入は、ビルに入居する企業への通勤者の邪魔にならぬよう早朝にするというのが基本だ。千代田区の施工現場、朝7時に搬入開始して、通勤ラッシュ8時半前にもちろん無事終了した。と、元請の担当者がガラス施工を見たくてやって来た。何でも、ガラスを工夫したエントランス・プランがコンペを勝ち抜いた主な要因だそうで、そのちょっと難しい施工を是非とも見たいという訳だ。                                                     施工にかかる前に、荷上げを終えての一服というわけで、屋上の喫煙コーナーでガラス施工職人さんなどと談笑していた。路を挟んだ向かいのビルのベランダに二つの白いものが動く。その元請の担当者が言う。

『品川さん、ほらあそこに・・・。まっ白な鳩ですよ。あれは夫婦でしょうねえ』                                                                           『親子かもしれんし、ひょっとしたらフリンかも・・・。』                                                                                       『何を言ってるんです。鳩は一夫一妻です』                                                                                                                    『へえー、そうなんですか』                                                                                                                                              『鳩は、ピジョンミルクというミルクを分泌して雛を育てるのですが、何と雌だけじゃあなく雄もそのミルクを分泌するんですよ。人間の父たちは乳を出しませんよね。春は一番の繁殖期です。あのカップルのように二羽だけで行動する場合が多いのです』

 

夜8時までかかってガラスの基本設置を終えた。明日、コーキングをして完成だ。                                                                      その帰途、元請会社の担当社員と半蔵門の駅前の居酒屋に立ち寄った。                                                                                   現場の修正可能な不具合や上出来な箇所を反省会と称して語り合っていると、その若い社員が顎でぼくの後方を指している。後ろの席に誰か居るようだ。                                                                                                        それとなく振り返ると、かの有名歌手(又はそのそっくりさん)が業界人間と話し合っているではないか。しばらくして声を掛けた。                                                                                                              以下は、その有名人(又はそのそっくりさん)の言。                                                                       氏名公表と画像公開は、今のところご遠慮願いたいとのことなので、画像は黒ライン入りとします。

『大阪の「維新の会」の言い分はファシズムである』                                                                            『国旗国歌への起立斉唱を強制する者に、文化・芸術を語る資格は無い』                                                                                                    『公務員は不足している。都会は知らないが我が故郷ではそうだ。冬に来てみろ』                                                      『我が政治上の盟友S氏は、反****ですよ』

爺バカ通信: 高校受験

高校受験・中学卒業のシーズンだ。

今、中学校の教師をしていて三年生の担任をしている息子は、きっと生徒の受験・進路に悩まされ、特に秋以降は頭を抱えることもあったのではないだろうか?と想う。                                                 

十年程前、某大学を出て外食産業に勤務した息子は、店長として転勤を繰り返し四年程勤務した後、中学時代のラグビー部顧問であった恩師の強い勧めもあって、教師を目指して退職した。我が家に一年間居候し、不足する教職単位取得に専念。教員採用試験に臨んだ。                                                                     家族からは「ラグビー部の顧問になりたいだけやろう?」などと茶化されたりもしていたが、翌春、無事中学校の国語教師になった。

                                                                                                                                       自身が育った同じ市の公立中学に赴任したが、ラグビー部は無く一から創設。年々力を付け、昨秋は大阪府大会で準決勝に進出、有名私学に当たり予想を覆す善戦(ぼくも観戦した)だったが、惜しくも敗退した。                                                                     観戦していた件の恩師や応援の母親たちの話では「主要メンバー数人の怪我欠場さえなければ勝っていた」そうで、実際僅差スコアの実力伯仲のゲームだった。                                                                その有名私学は決勝にも勝って優勝した。

勝敗はともかく、部員たちが流した涙にもらい泣きして、彼の中学時代を思い出しもした。

添付画像は、彼が受験を控えた中学三年生だった20年前の正月、ぼく以上の親バカに違いない、彼の母親が作った年賀状だが、今度は彼が生徒たちに何かを伝えているだろう、と親バカ夫婦は想いたい。                                                               他との比較ではなく、排他的でなく、地位や財にまつわる私欲に基づかない限り、                                                               親バカは伝播していいのだ。

 【余談】                                                                                                                                                                                   どういう訳か、彼の妻が、昨年OLを辞め、某自治体教員採用試験を受け合格、今春には小学校教員新任だそうだ。                                                                                                                  このご時世、心配の種は尽きないが、陰ながら精神的応援を送るしかない。

 

 

ほろよい通信: 閏(うるう)年、そして『天地明察』

2月29日、『天地明察』を想う

昨日は2月29日。今年は閏年なのだ。                                                                                                                                                                           ところが、誰かが勘違いして、我が事務所の白板の業務予定カレンダーが28日までとなっていて、数日前に書き直したところ「一日得したようだ」「損したようだ」と若い者がアーだコーだ・・・・。工程を正確に内外に徹底しなければならない業務の社としては何たるズサン。まぁ、それぞれの現場の工程は各自キチンと掌握しており、白板の間違いは皆が知っていながら放置していた次第。

閏年の仕組みを調べてみた(誰でも知っているらしいが、ぼくはあやふやでした)。http://e-eyenet.ne.jp/amusement/column/200702.html より

『 一年は365日、つまり地球の公転は365日で1周するといわれています。しかし厳密には365.2422日で1周しており、4年でだいたい1日分の余りが発生することになります。
この暦と実際の季節の移り変わりを2月に1日増やして補正しましょうというのが閏年(うるうどし)なのです。                                                                                                                  地球の公転が365.25日で1周する場合は、4年に1回366日にすればピッタリなのですが、上述のとおり精確には365.2422日なので、僅かな誤差が生じてしまいます。紀元前45年1月1日からユリウス暦が使われてきた16世紀後半のヨーロッパでは、実際の暦と10日以上のズレが生じていました。                                                                                                                                                                そこで改訂されたのがグレゴリオ暦で、世界各国でも採用されるようになりました。
以下のルールに従い、グレゴリオ暦では400年に(100回でも96回でもなく)97回の閏年が設定されます。

  • 西暦が4で割り切れる年は閏年
  • 西暦が4で割り切れる年のうち、100で割り切れる年は平年
  • 西暦が100で割り切れる年のうち、400で割り切れる年は閏年。つまり、閏年を中止するのを中止するという訳です。

2000年は3番目のルールに当てはまる閏年でしたが、誤って2番目までのルールで閏年を算出して平年としているプログラムがあり、郵便貯金ATMが停止するなど”2000年問題”のひとつの要因にもなりました。 』

『天地明察』の主人公:二世安井算哲(渋川春海)なら、もちろん地球公転時間を承知していた。何せ、次の日食日を江戸「和算」を駆使して解き示そうとしていたのですから。

『天地明察』(冲方丁 うぶかた とう、 角川書店、¥1,890 )                                                                    http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E6%98%8E%E5%AF%9F-%E5%86%B2%E6%96%B9-%E4%B8%81/dp/404874013X

 

 

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