たそがれ映画談義: 浦山桐郎 初期三部作

浦山桐郎初期三部作、山田洋次新作のことなど

年末のブログ、2011年に逝った人を挙げた記事の、脚本家石堂淑朗という名と共にあった映画:「『非行少女』って何でしょう?」と若い人から質問がありましたので、お答えしておきます。                                                                                                                         【『非行少女』:あらすじ→goo映画 http://movie.goo.ne.jp/movies/p21010/story.html 】

彼女によれば、ネット検索しても『非行少女ヨーコ』なる作品にヒットして、監督名と共に入力しても、「画像なし」「ソフトなし」「中古品¥28,000」(ソフトが廃版なんでしょうね)だそうで、「これは成人指定映画?」「よほどのお宝エロ・シーンがあるのですか?」となる。ちなみにぼくはそのビデオを持っているので、お望みならお貸し出来ますが・・・。互いの住所確認などお厭でしょうね。                                                                                                                                                            日活に浦山桐郎という監督が居りました。この人は1930年生まれ、敗戦時に15歳ということになる。1985年に55歳で早逝しています。同世代の映画監督としては、大島渚、山田洋次、篠田正浩、熊井啓、吉田喜重などがいる。50年代~60年代初頭の日活映画を注意深く観ていると「助監督:浦山桐郎」というクレジットに出合う。確か『幕末太陽傳』(監督:川島雄三)や『豚と軍艦』(監督:今村昌平)もそうだった。監督第一作が62年『キューポラのある街』で第二作が63年『非行少女』、第三作が69年『私が棄てた女』。これを、ぼくは「初期浦山三部作」と命名して一文を書いたことがある。浦山は観客動員が見込めない映画ばかり企画しては日活を困らせた問題児で、ゆえに寡作家であった。その後75年・76年に東宝で『青春の門』二作、83年断末魔の日活で『暗室』、85年東映で『夢千代日記』。生涯に全部で9作だった。が、初期三部作以降の作品は、三部作を越えられなかった。                           

ぼくが、『キューポラ』『非行少女』『棄てた女』が三部作だというのは、60年代の「おんな」の悪戦を、主人公に寄り添って描き、同時に自らの「戦後第一期青年性」とその限界を等身大に描いた誠実がそこにあり、間違いなく「時代」を切り取ってみせたと思えたからだ。浦山は、主人公ジュン(キューポラ)、若枝(非行少女)、ミツ(棄てた女)を、60年代を生きる少女~おんなとして、時と境遇の違いを越え、同じものの変容態として提示し、もって「時代」の正体を逆照射して見せたのだ。それは、そのまま自身=男の正体を晒すことでもあった。

『三丁目の夕日・異論』( http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re57.html#57-3 )で書いたが、東京タワーを背に蠢く三丁目の人々が、アッカラカンと置き去りにして行くものども・ことどもにこそ「時代」を視ていた浦山が選んだ主人公三人は、貧困と無知に正面から立向かおうとするジュンであり、そうは出来なかった若枝(注:まわり道をして遅れて挑むラストです)であり、60年安保学生に棄てられる集団就職のミツである。三丁目の六子(堀北真希)のような虚構の「いい子ちゃん」などではない。彼女らは、浦山が捉えた「時代」と「おんな」を、従って「男」を三作を通してようやくおぼろげに示したのだった。                                                                                                                        質問者でも知っていよう『キューポラ』のジュン(吉永小百合)が、貧困・進学無理家庭の、いわばその層内の精神的エリートだとすれば、『非行少女』の若枝(和泉雅子)はノンエリートであり、『棄てた女』のミツ(小林トシエ)とは、彼女らの無垢な努力に共感を覚えながら、「所得倍増」「高度経済成長」に走った元左翼青年のモーレツ勤労者に再び棄てられる存在なのだ。                                                                                      それはそのまま、時代が「選び取り」「選び棄てた」もの全てだと語っていた。                                                                 「お前が棄てたもの」は何なのか?と。                                                                                                                              ところで、良い映画とは確実に「時代」を写してもいるのだが、浦山桐郎と同世代の作家とは、思春期に戦争を体験し、戦後の混乱期と復興期に大学に学んでいる。その奥深い記憶の光景は、戦争・焼跡・闇市から復興・所得倍増・モーレツとバブルに走る狂想曲であるに違いない。彼らが描く世界には、その光景と「今」とが写し取られていた。

山田洋次が「男はつらいよ」のヒットを背景に、盆・正月に「寅さん」を撮ることを交換条件にして、数年に一本自主企画実施を松竹に飲ませ、世に出した作品群は実に時代を写し取っていた。『家族』『故郷』など「民子三部作」、『幸福の黄色いハンカチ』『ダウンタウン・ヒーローズ』『学校』『息子』『母べえ』などがそれだ。そして、寅さんこそ、実に時代を描いていた。                                                                              話は変奏するが、『寅次郎忘れな草』のリリーさん、ええねぇ~! 時代のインチキ提案とは和解すまいとアナーキーに生きる者の「孤独」「不安」「自立」は、地位・家・財との現実的距離感も確立したい模索の中に在った。全48作中、寅さんとぼくが最も惚れた「おんな」なんですねぇ。浅丘ルリ子が100年に一度出会った役として演じていた。リリーさんは難しいことは言わないが、困難な生であり、見事な世紀末の「おんな」振りの可能性を示していた。その先に確実に「時代」が立ちはだかっていた。願わくば、リリーさんは一回こっきりの登場にして欲しかった(スミマセン、ミーハー願望です)。                                                                                                        実際には、その後『寅次郎相合い傘』『ハイビスカスの花』『紅の花』と三作に登場                                                                                                                                                                                                                     最近の日本映画には、何が写し取られているのだろうか・・・?と不安だ。                                                                                                           山田さんが、『東京物語』(小津安二郎)をベースに、いわばその21世紀版らしい、『東京家族』を撮り始めるという。今秋公開か?                                                                                      出演は、菅原文太、妻夫木聡、蒼井優、市原悦子、室井滋、夏川結衣とぼくの好みの役者ばかりだという。楽しみだ。                                                                             

不器用だった浦山桐郎を久し振りに思い出させてくれた通信でした。                                                                  『非行少女』の印象深いシーンも思い出した。                                                                                                          寒い寒い夜、更正施設に入寮している若枝を浜田光夫が訪ねるのだが、廊下の洗面台前の窓越しの会話のシーン。今井正『また逢う日まで』の岡田英二と久我美子の窓ガラス越しのキス・シーンは映画史に残る名場面と言われているが、この和泉・浜田のシーンもなかなか・・・。                                                                                                                                          若枝の旅立ちのラスト・シーン。駅(確か金沢駅)の待合室の場面では、カメラが360度グルリと回りながら二人を撮るという禁じ手で、小説でいえばナレーション・地の文が足許フラフラ、定まらないみたいな論難があったのを記憶している。実際、その浮遊感に驚いた。批判の言い分は織り込み済みだったと浦山は語っている。

さて、後年「あの時代」として次のような括りになることだけは「大阪府民(?)」として避けたいものだ。                                                      『市民や・労働団体・市民運動・政党が官僚に認めさせ培って来た、高コストの施策を、官僚支配打破を謳い文句に、根こそぎ効率主義で斬って棄てようとする知事が選挙の圧倒的勝利を得て大阪に登場。                                                                      大阪府民は、威勢よく歯切れのいい知事を、レーガン・サッチャー・小泉のようにいやそれ以上に支持し喝采を送った。                                                                                     教育と福祉の場に競争と選別を持ち込み、競争に「勝てる子」を作らんとしている。初期に言った「子どもの笑顔が政治の中心」との言は「競争に勝って微笑む子ども」のことだったのだ。一握りの勝者と多くの敗者・・・儲ける自由・勝ち抜く自由・選別する自由・・・、そのことを子どもに排他的競争を通じて「教育」するのか?!!                                                                                                                                                                                     やがて、大阪を震源地とするハシゲ現象は全国を覆い、それがファシズムか否かの論争に明け暮れる知識人・政党を尻目に、21世紀型「ハシズム」として国民運動になった。就労先を探し歩き疲れ果てた「府民」は、己より弱いもの、虐げられし者、障害者、少数者、マイノリティ、在日外国人、女性・・・を排除すれば「俺の雇用は確保出来るのだ!」と、さらに一層「ハシズム」の運動員となって奔走し始めた。                                   2012年とは大阪発のそういう「時代」の始まりであった。』                                                           

そうさせてはならない!

 

 

 

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