連載 77: 『じねん 傘寿の祭り』 八、 しらゆりⅡ (4)
八、 しらゆりⅡ④
「知ってるよ。いいって、いいって」 ユウくんは裕一郎の「悪いなユウくん。北嶋さんな、仕事の都合で大阪へ帰るんや」に対してそうケロリとして返した。園舎の玄関横に在る、蛇口がいっぱい付いている長い手洗い場で、ちょうど園庭から園舎に入る時の決め事「手洗い一分間」を実行しているユウくんに声をかけたのだ。 「知ってたのか・・・、いつ知った?」 「最初からだよ。北嶋さんが来た時から。北嶋さん、チチのギャラリが出来るまで居ると言ってたよ。この間も、ギャラリで亜希さんにさよなら言ったよ」 ユウくんは現実を受容れる訓練を日頃からして来たのだ。もう北嶋さんとは海へ行けない、もう北嶋さんが作る美味い夕ごはんも、フレンチトーストも食べられない、「じんじゃえる」を飲んで美味しい焼き鳥を食べた居酒屋へも行けない・・・。そんなことはとうに覚悟している。いや、覚悟しているからこそ、ひと時裕一郎にあれこれせがみもしたのだ。無いモノねだりをして駄々っ子になったりはせず、淡々として事態を受け止めている。父親よりも自分よりも、よほど「人間」が出来ている。裕一郎はそう思って感謝に近い感情に包まれていた。 「亜希さんは行かないから、北嶋さん悲しいね」 「亜希さんはね元々行く予定はないんだよ」 「そうか・・・、残念だね」 「亜希さんは自分の予定や仕事があるんや。南アジアという処へ行くんだよ。外国だ」 「ふ~ん、北嶋さんもそこへ行ったらいいのに。毎日亜希さんに逢えるよ」 「ユウくん、逢えない方がずっと仲良しでいられることもあるんだよ」 「そっか・・・」ユウくんはそう言って、微かにため息を漏らした。 裕一郎は今自分が吐いた言葉が、年齢差・関係性・経過事実や相手の心の辺境とその理由、それらを見ないことにして振舞った先夜の己を、救済する為のものだと自覚していた。正確に言えば「ずっと仲良しでいられたらいいのにな」だろうか。
ユウくんが園舎内に戻るのが遅れますと職員に伝え、了解をもらっている。心得たものだ。 ユウくんが胸にぶら下げた携帯電話を手にする。開いた左の掌を裕一郎に向け「ちょっと、待ってて」と合図した。ユウくんが慣れた手つきでどこかにかけている。 「うん、そうだよ。うんうん。北嶋さんは石垣島に行ってから大阪へ行くって。えっ?うん、は~い、いま代わるね」 ユウくんが「北嶋さん、ハハだよ」と携帯電話を寄越した。 ハハ美枝子は開口一番にギャラリーオープンへの感謝を言って、次いで黒川家の家事に関して、続いてユウくんとの日々への慰労を口にした。 話の最後に「私たちの送別会に来てくれた人、亜希さんでしたか、あの人と逢えて良かったですね」と付け加えた。裕一郎は、何でも知っているのだなと呆れるより、美枝子-ユウくん間に成立している日頃のホットラインの頻度や濃さを思った。 ユウくんは黒川との日常以外の場所で、美枝子と連絡を取り合ったり、バスでの往き還りのでのユキちゃんとの逢瀬を確保して、黒川が知らない世界も生きていたのだ。しかも、黒川の知るところとなって黒川との間に気まずい空気を作ってしまうことを避けながら。 ユウくんの工夫や秘匿が思い遣りに近いものだと思えて来る。人間の感情の機微へのユウくんの智恵ある配慮に間違いなく元夫婦は助けられて来たと思うのだった。 この父母だけではなく裕一郎を含めた大人たちの振舞いこそが子供じみているのではないだろうか・・・。 無垢と威厳。裕一郎はしらゆりの花言葉を思っていた。