Archive for 11月, 2011

ほろ酔い通信録: 品川宿で浪速女の歌を聴く

品川宿ほろ酔行

東京出稼ぎも6年目だなぁ。文京区向丘(本郷の北)に二年強、品川に事務所移転して二年強。10月から6年目に入った。                                                                                                                                                                 ここ品川宿は、幕末の志士たちの志や混沌を遠い彼方に押しやって、「昨日勤皇、明日は佐幕」(「侍ニッポン」)そのままの(?)「食料自給立国」VS「工業製品輸出大国」論争(に見えて、アメリカン・スタンダードの押し付けを容れるか否か)のTPP議論も何処吹く風の趣。                                                                                                                                               某宗教政党と某左翼政党の地盤と言われながら、某知事の覚え目出度きモーレツ主義教育長の号令下その地盤もヒビ割れ、新自由主義社会を黙々と支えている空気。品川宿で「うん、こいつは中々・・・」と思える呑み屋を探していたが、とうとう出交わした。                                                                                                                                                                                                               主は、伊豆・深川・赤坂を転々として、元そこそこの(?)料亭だったのを手放し、品川に流れ着いた「チョイ悪」風来坊風の御仁。通ううちに、呑むうちに、話すうちに、同い年の「猪」の64歳、江戸への造詣、無類の「反権威」、云わば無国籍人、などなどが分かって来た。呑むにも気分がいい。                                                                                                               この御仁の「小説にしたい」恋物語は秘すとして、先日ここで聞いた浪速女の歌唱のことを・・・・・・。

ある夜、カウンターに座ったワシの耳に、何とも心地よい歌唱が届いた。主との会話(島田荘司著:『写楽・閉じた国の幻』を語り合っていた)に夢中になり、歌をちゃんと聞いていなかった。が、「話に区切りが付けば聞かせてもらおう」と思わせる魅力に満ちている。                                                                                                                                                    やがて聞かせてもらった。主の友人が、このCDジャケットにコメントを載せている縁で貰ったという。                                                                                                                                唄うは華乃家ケイ、大阪は難波で「懐メロちんどんの店『はなのや』」を営むママさん、知る人ぞ知る歌姫ならぬ唄姐御らしい。ワシは寡聞にして存じ上げなかったが、あんさん知ってる?(ひょっとして、みんな「ああ、あのオバハンかいな」と知ってるのかも)                                                                               戦後歌謡曲の中から、敗戦直後ものを中心にワシ好みの歌ばかり唄っている。戦後空間の儚くて危うい気分をこれほど的確にドンピシャに唄っている歌唱を聞いたことが無い。                                                                                                  あの時代を唄わせたらちあきなおみが最高だ、と常々思って来た。                                                                             彼女は、はすっぱで投げやりでしたたかに見えて、けれど知性をも秘め持って生きた戦後女性の本音を、                                                                                                                                  見事に唄っているが、どこか強くはすっぱ度が過剰かも。                                                                                          希望や未来をかすかに信じながら、喰うことに汲々とし、若い女性に働く「場」は乏しく、主婦という名の存在の家事労働には電化生活などなくそれをこなすだけで日が暮れて、時代を見つめるいとまもない、その不安と混沌の中で髪を振り乱して「生活」を確保し押し進めるしかない、当時の女たち。したたかに生きるのだが、詩心や唄心も持っていたい女たち。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           この華乃家は、ちあきよりいま少し、弱く儚く一般人(?)風に、取り合えず幼い初恋や夢物語に託して淡々と、ちあきとは逆方向から時代の希望や夢と存在不安と、そして「おんな」を唄う・・・。そういう境地を開いている。う~ん、いい歌唱だ。ええんです。

で、店の主と言い合った。                                                                                                                                  団塊の世代などと括るけど、何の共通項もありはしない。やたら人が多く、小学校は1クラス60人、学年10クラス、白モノ家電の高普及、大学では全**の嵐の中で右も左も真っ暗闇、仕事では数にモノを言わせて先輩を圧倒し嫌われながら、せっせと年金を納め前世代にいい目を提供、ところが今や若者から「あのワガママ世代をオレたちが支えるのかよ?」と迷惑がられてもいる。それ以外に共通項などありはしない。それぞれの場面で選択した道は、言いたくはないがぜんぜん違うし、その違いにはこの先も和解できない種類のモノもある。                                                                                                                                                                    けれど、そうだひとつだけ、動かしがたい共通項があるな。ここで唄われている歌、なかんずく敗戦直後の歌こそは、団塊どもは聞いていたのだ。                                                                                                                                                                                                                                                                             母の胎内に居た頃から・・・。                                                                                                   もう一つ共通項、団塊世代=1947~49生れは、間違いなく戦争で生き残った者の子だ。クラスに父が戦死した者はいなかった。当たり前だ、戦争で命を落とした者は、団塊どもの親になれるはずもない。                                                                                  分かり易く言おう。ひと世代年長1935年生れの寺山修司が、戦争で命を落とした父への想いと戦後を生きる己の核を詠んだ歌が、これだ。                                                                           マッチ擦る つかの間海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや                                                                                  団塊とは戦争に生き残った者の直系だ、ならばそのDNAは重く大切だ、団塊とはそういう命なのだ。と、ワシは思う。

歌「100語検索」 30、 <折>

ポケットで折れていたハイライト(『狂った果実』)。うん、うん、そうかいそうかい。                                                                                                            かけがえのない「あの日あの時」を折れるほど抱きしめたい(『夢去りし街角』)のかい。                                                                        けれど、木村友衛は「折れた情け」に充ちた人生、「男」ではなく「女」の人生こそが「浪花節」だと言っている。                                                                中村あゆみは、折れた翼を修復して翔ぼうぜと言っている。あるいは、翔べなくてもいいんだよと言っている。

『狂った果実』 http://www.youtube.com/watch?v=yAFFEMCukA4 アリス                                                                                                『風雪ながれ旅』  http://www.youtube.com/watch?v=LeR9i3cpt8o&feature=related 船村徹                                                                                             『浪花節だよ人生は』 http://www.youtube.com/watch?v=yhiWf1A4DnE テレサ・テン                                                                                  『浪花節だよ人生は』 http://www.youtube.com/watch?v=wpwv3whJZ1M&feature=related 木村友衛                                                                                       『恋唄』 http://www.youtube.com/watch?v=W8Ax2yDitJY 前川清                                                                                                   『うそ』 http://www.youtube.com/watch?v=JvQkY6raPH0 中条きよし                                                                                      『難破船』 http://www.youtube.com/watch?v=ski722P1368 加藤登紀子                                                                            『めまい』 http://www.youtube.com/watch?v=NLsL9eUKLRQ 小椋佳                                                                                 『夢去りし街角』 http://www.youtube.com/watch?v=bR70yHuQp5A&feature=fvst アリス                                                                                                       『翼の折れたエンジェル』 http://www.youtube.com/watch?v=oRiZUJ5evZ8 中村あゆみ

<ウィキペディアより>                                                                                                                          【浪花節だよ人生は】                                                                                            最初は1976年(昭和51年)に小野由紀子の歌唱によりシングルのB面曲として発表された。その後この曲の歌詞を自分の人生の引き写しのように感じたという木村友衛が藤田に直訴して1981年(昭和56年)に歌い始めると、地道なキャンペーンの努力が実り徐々に人気を獲得するようになった[1]。これを受けて歌手16人[2]、レコード会社13社[3]による競作としてレコードが制作され、1984年(昭和59年)にその人気は最高潮に達した。同年の第35回NHK紅白歌合戦では水前寺清子細川たかしによる同曲対決が行われ、第26回日本レコード大賞では細川が最優秀歌唱賞を、木村が特別賞を受賞した。

【浪花節】                                                                                                                     浪花節は古くから伝わる浄瑠璃説経節、祭文語りなどが基礎になって、大道芸として始まった、その後明治時代初期、大阪の芸人・浪花伊助が新しく売り出した芸が大うけして、演者の名前から「浪花節」と名付けられた。(浪花節と言われ始めたのは1872年頃と言われている。)「浪曲」と呼ぶようになった理由は諸説あり定かではない。東京では関東節の祖と言われる浪花亭駒吉や横浜で祭文語りで活躍していた玉川派の祖と言われる青木勝之助が東京の寄席に出演し人気を博し浪花節は全国的に広まった。以後、桃中軒雲右衛門二代目広沢虎造の活躍で戦前まで全盛を迎えた。太平洋戦争後は娯楽の多様化で衰退し現代まで続いているが、現代に合う新しいスタイルを模索している。

庶民的な義理人情に訴える作品が多い事から、転じて「浪花節にでもでてきそうな」という意味で、義理に流された話を「浪花節的な」あるいは単に「浪花節」と比喩することも多いが、実際は武芸物、出世物、任侠物、悲恋物、ケレン物(お笑い)など多種多様である。

現在、浪曲の定席は東京都台東区浅草の「木馬亭」と、大阪府大阪市天王寺区の「一心寺門前浪曲寄席」がある。

【歌100語検索(ここまでの語):1~30】   http://www.yasumaroh.com/?cat=26                                                                                                                                                                              1~10: 川、空、夜、時、遠、時-2、砂、雨、風、港。                                                                                                                                                                                                                11~20: 夢、人生、道、手紙、愛、愛-2、忘、恋、別、友。                                                                                                                                     21~30: 季節、歩、走、帰、行、追・逃、変、待、捨(棄)、折。 

 

 

交遊通信録: また 菅原克己

光子

二十年前の唱歌のうまい幼女は
十二年前おれのお嫁さんになった。
あの桃色のセルをきた明るい少女よ。
お前は今でも肥って明るい。
まるで運命がお前を素通りするように。

どんな失敗があっても
お前の善意が帳消しにする。
どんなに困ることが起きても
必ず解決されるとお前は信ずる。
未来への肯定、その明るさがお前の身上。
それが、われわれの、
ながい貧乏ぐらしの灯となった。

何のためにそんなに明るいのか。
おれを信ずるのか。
この生活をか。
ときどきおれはふしぎそうにお前を見るが、
肥った身體はやはりゆっくり道をあるき、
笑いは何時までも
あの桃色のセルを着た娘のようだ。

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菅原 克己(すがわら かつみ、1911年1月22日1988年3月31日)(ウィキペディアより)

詩人宮城県に生まれる。日本美術学校中退。室生犀星の影響をうける。日本共産党員の時期もあったが、1961年の第8回党大会前に、党の紀律にそむき、意見書や声明を発表し、除名された。その後は、新日本文学会の中心メンバーのひとりとしての活動を続けながら詩作を続けた。

1911年-宮城県亘理郡亘理町に生まれる

1931年-日本美術学校入学

1933年-日本美術学校除籍

1947年-日本共産党入党

1962年-日本共産党除名

連載 68: 『じねん 傘寿の祭り』  七、 しらゆり (4)

七、 しらゆり④

県庁前の舗道は朝靄に包まれていた。                                                                                                前夜の雨が上がっても、今にも再び降り出しそうな雲行きだった。明日のオープンに向けてギャラリーじねんに十一時に集合だ。大空とヒロちゃんは一〇時の便で来るだろう。昨夜届いているはずの黒川自慢の十数点の陳列をして、店内最終清掃と床ワックスを夕刻までに済ませることになっている。                                                                                                                                                                                                                裕一郎はモーニング食うか?と独り言のように言って、ギャラリーじねん近くの喫茶店に向かって亜希と歩いた。途中すれ違う勤め人は、大阪とは違ってあくせく歩いてはいないように思えた。喫茶店の斜め向かいの公園入口の門柱が目に入った。そこに座るシーサーのせいだ。彼が、前夜の雨で濡らした身体そのままにこちらを睨んでいる。その視線が何故か気になった。それは責めているというより、嘲笑っている又は呆れている、に近いものだった。                                                                                                          

昨夜、亜希は「分からないんです」と言った。オレだっていまだに何も分からないのだ。人が持っているよく働きたいという誠実に近い勤勉が、評価や報酬を得たいという欲を抱えていようと、異性に対する共感や情愛が性的な欲望と区別できないとしても、それは当然だと思う。ただ「分からない」のだ。その狭間の不可思議な感情の立ち位置にあるはずの「そうではない」ものを定位させる方法が・・・。分からないから、いい歳をして上滑ってしまうのだ。裕一郎はシーサーに向かって黙応していた。                                                                                               裕一郎は昔、高校を卒業してすぐ就職したのだが、普通校だったので商業系の珠算・簿記はもちろん工業系の技術も全く無く、接客のイロハも知らず勤務先で難儀した。最初勤めた企業では経理総務に配属されたのだが、何の戦力にもなっていない実態を誰よりも自身が痛感していた。次々質問して、自ら「仕事」を見つけるべきなのだが、それが出来ない。何を質問すればいいのかさえ分かっていないのだ。胃痛と下痢を繰り返し、一ヶ月で失意の退職となった。引き金は「あの**高校卒だから優秀だと思っていたのにな」という課長と係長のヒソヒソ会話が聞こえたことだった。続いて勤めた小さな個人経営の物販店では店番をした。のだが、雑然とした倉庫まがいの店内を片付けようとは思いながら、商品知識が乏しい上に店の親方と奥さんが使い慣れた商品の配置を勝手に並べ替える訳にも行かず、手を出さなかった。片付けたいのに、何から何処からどういう風にすればよろしいでしょうか?と問う、それが出来ない。若い奥さんの「ボーッとしてる時間があるんやったら、少しぐらい片付けたらどうなん?」との叱責に言い返して退職となった。北海道に行き、いや逃げ、パチンコ屋に住み込んだのだ。

考えて見れば、気が利かず世間知らずの自分がダメなのだが、企業内教育機能など無縁な職場の貧困が根本理由だろう。けれど、働くに際して持っておくべき基本的な、知力・体力・知識・技術以前の、学者が「人間力」などと語る内容に欠けていたことは疑いない。早くから職業選択を前提にした進学先を選ばせるドイツやイギリスの教育制度の歪みや弊害が言われていると聞いたが、誰もが同じように高校大学へ押し出され、同じ価値観・就労観をばら撒く教育がいいとも思えない。                                                                                             世に在る分かりたいのに分からないことの多くは、こうした構造の中に雑在している。仕事や大人の恋愛を持ち出すまでもなく、例えば学生のクラブ活動や幼い恋愛にだってそれは在る。しかし、人はやがて分かるのだ。分からないことを分かって行く方法を・・・。

 裕一郎は自身の古い幼い恋物語を思い起こしていた。                                                                                        分からなかったのだ、オレも彼女も・・・。互いに相手に対して誠実であろうとしていたに違いないのに・・・、そして終ったのだ。                                                                                               では、女房との数十年の生活と、今離れている事態はどうなんだ、分からないままの還暦か。                                                     そして亜希との昨夜は何なのだ?

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