交遊通信録: また 菅原克己
光子
二十年前の唱歌のうまい幼女は
十二年前おれのお嫁さんになった。
あの桃色のセルをきた明るい少女よ。
お前は今でも肥って明るい。
まるで運命がお前を素通りするように。
どんな失敗があっても
お前の善意が帳消しにする。
どんなに困ることが起きても
必ず解決されるとお前は信ずる。
未来への肯定、その明るさがお前の身上。
それが、われわれの、
ながい貧乏ぐらしの灯となった。
何のためにそんなに明るいのか。
おれを信ずるのか。
この生活をか。
ときどきおれはふしぎそうにお前を見るが、
肥った身體はやはりゆっくり道をあるき、
笑いは何時までも
あの桃色のセルを着た娘のようだ。
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菅原 克己(すがわら かつみ、1911年1月22日 – 1988年3月31日)(ウィキペディアより)
詩人。宮城県に生まれる。日本美術学校中退。室生犀星の影響をうける。日本共産党員の時期もあったが、1961年の第8回党大会前に、党の紀律にそむき、意見書や声明を発表し、除名された。その後は、新日本文学会の中心メンバーのひとりとしての活動を続けながら詩作を続けた。
1931年-日本美術学校入学
1933年-日本美術学校除籍
1947年-日本共産党入党
1962年-日本共産党除名