Archive for 11月, 2011

連載 76: 『じねん 傘寿の祭り』  八、 しらゆりⅡ (3)

八、 しらゆり③

黒川の講義が続いた。                                                                                                                しらゆりはもちろんユリ科だが、ユリ科にはオニユリ、タカサゴユリ、クロユリなど各ユリの他に、チューリップ・ヒヤシンス・スズランなどがあるんだ。ちょっと意外だが、タマネギ・アスパラガス・ニンニク・ニラ・ネギ・アサツキもユリ科だそうだ。ちなみにユリの花言葉だが、オニユリは陽気・愉快、クロユリなら復讐・呪いと来る。ユリも七変化なんだね。しらゆりはさっき言った母以外にも色々あって、威厳とその反対のような無垢というのもある。けれど、無垢なる精神の極まりにこそ威厳はあるのだという哲学的意味合いにおいて正解だ、とぼくは納得している。そうだろう、母とは無垢にして威厳ある存在じゃないかね。百合子という娘の名付親はみな、そんな想いを込めてるのじゃあないのかねぇ。ぼく、ユリに詳しいだろう? なに、唐津と嬉野の間の山あいに窯を持つ若い陶芸家がね、作品にユリを好んで描くんだよ。扱った時にちょっと調べてね・・・。                                                                                                                                                             裕一郎は、いささか美化されたような黒川の母性観に嫌悪感を抱いた訳ではないのだが、自身の母親を思い浮かべて無垢や威厳とは程遠いなぁ~と苦笑った。                                                                                                                                                                                                                                                                      「何が可笑しいんだ。ぼくを母親依存症のマザコン息子みたいに見るんじゃない。花言葉は花言葉だ。」                                                                                                 「いえ・・・。沖縄とユリは関係深いんですか? あっそうだひめゆり部隊もそこから?」                                                                                                                                                                                                                                            「バカ者、何も知らない男だなぁ。関係深いどころか、しらゆりは鉄砲百合とも言って立派な沖縄原産植物なんだぞ。あちこちに自生群生している。花期は四~六月、まだ咲いてるんじゃないか。日本では六~七月だ。俳句でも晩夏七月の季語だ。それからね、ひめゆり部隊は、ひめゆり学徒隊というのが本当の名称だ。ひめゆりはね・・・」                                                                                                                       1943年、昭和一八年だな、沖縄県立第一高女と沖縄県女子師範学校が教育令改正によって併設されるに当たって、校友会も一つになり、それぞれにあった校友会誌もひとつになった。その際、二誌の名前「乙姫」と「白百合」から字を取って併せ新しい名称にしたんだ。それで「姫百合」になったそうで、ひらかなで「ひめゆり」と呼ぶのは戦後だそうだ。喜屋武岬の断崖に咲くのは偶然ではないような・・・ぼくは、そんな気がしている。                                                                                                                                                                       ぼくの母が、戦後もそのしらゆりを毎年観ていたのだと思えば、この酒は疎かには呑めないんだよ。                                                                                          「しらゆりはうつむき咲きて母はなし(幡 敦)」と黒川がつぶやいた。                                                                                                                                                                                聴いていた亜希が「黒川さん…」と言ったきり絶句して、黒川の手を握った。                                                     「黒川さん、今夜しらゆりを存分に飲んで下さい。私、明日ここへ来なくていいのなら、喜屋武岬へ行きます。断崖のしらゆり、見て来ます」                                                                                                                             「そうしたまえ。しらゆり、今夜久し振りに北嶋君と呑ませてもらうよ」                                                                                   「北嶋さん、いつまで・・・」                                                              「数日中に出るつもりや」                                                                     「そうですか、沖縄では最後になりますね。お元気で・・・。いろいろ有り難うございました」                                                                                                                                                                                   「松下さんも・・・。携帯電話は変えないから、また電話くれよ」                                                                                                                                                     それに無言で頷いた亜希がユウくん言った。                                                                                                                   「またお姉さんと海へ行こうね」黒川がニッコリ笑っていた。                                                                                                                                                               裕一郎は、俺への海行き批判とはずいぶん扱いが違うじゃないかなどとは全く思わず、それでいいんですよと何故か豊かな心に洗われるのを感じるだった。

 船はもう無い。予定通り近くのビジネスホテルに泊るという亜希が去り、三人で帰った。車の中で黒川が言う。                                                                                                                                                                                                                                                                   「ヒロくんから聞いたんだが、先日、大空が告白したらしい」                                                                                                                          「へぇ~、そうですか」                                                                                           「亜希くんの返事は、ゴメンナサイ!だったそうだ」                                                                                           「そうなんですか」                                                                                                         「道理でオープン前ころから急に来なくなった訳だ」                                                                                                                                          「そうですかね、それは違うでしょう」                                                                                                                                                                                                   無言でしばらく走るとまた黒川が口を開いた。                                                                                                                       「君は、先夜の朝帰りの時、亜希くんに拒否されたと言うより・・・、できなか・・・・・・まっ、いいか。二人の態度と会話でぼくには分かるんだよ。無駄に歳は喰ってない」                                                                                                                                          無視しておいた。黒川さん、貴方が言った通り当人たちだけが知っているんですよ。                                                                                                                                                                     裕一郎は思う。大空はいい男だ。けれど、例えどれほどいい男が目の前に現れようとも、亜希はこの三十歳の夏を譲り渡しはしないだろうと。男が手練手管や力で獲得するなら、それはある種の圧政だ、と。その関係はやがて破綻する、と。                                                                                                                          何故なら、「そういう関係」でもなければ、その「タイミング」でもないからだ、と。                                                                                                                                           帰宅後、三人で出かけオバサンの食堂で夕食を採った。オバサンが、黒川のしらゆり持ち込みに快く応じた上に、オープン祝だと二品付けてくれた。二人で半分空けてしまった。                                                                                              

ユウくんが風呂に入っている間に、黒川が何やら箱荷を抱えて部屋にやって来た。                                                                                                                                    「君の報酬の件だが、すまないが現金は五万円にしてくれ。これは、売れば一点十万以上の値が付くはずの花器で、壷と花瓶だ。知念太陽の幻の作品だ。東京の太陽の工房が火災に遭った時、奇跡的に焼け残ったもの九点のうちの三点だが、太陽が工房再建の資金の一部にと売り捌いて、その後マニアの間で高価売買されている。ぼくは当時余裕があったから、カンパのつもりで買ってやったんだ火災の焦げ跡煤が付いた臨場感ある一品だ。ぼくはもう太陽と縁を切っているが、いつか有効な使い方をと考えて来た。三点が行方知れずだと太陽会の会報に出ていたから、面白いことになるかも知れん。これで許してくれないか」                                                                              「いいですよ」他に何の言葉も添えなかった。黒川がキョトンとして出て行った。

 明後日から石垣島へ行こうと決めた。                                                                                                                                                          花器三点を荷造りした。宛名欄に高志の住所・氏名を書いた。                                                                                                                                                                  翌朝高志に電話して、小旅行に行ってから帰阪するので焼物の荷をそちらへ送る、俺マンション返して今住所無いし・・・、代わって受け取っておいてくれ、と伝えて発送した。高志は笑っていた。予想通り現物支給になったのだなと分かったのだろう。                                                                                                                                                                                                                                                       ユウくんへの挨拶が残っている。レンタカーを返す前にユウくんが通うひかり園へ向かった。

 

連載 75: 『じねん 傘寿の祭り』  八、 しらゆりⅡ (2)

八、 しらゆり②

翌日、裕一郎は園を休んだユウくんとともに比嘉の後輩の議員を訪ねた。ユウくんに週一回の付き添いを介護保険の範囲で確保できる手続きを取ろうとなった。帰宅して黒川に伝えよう。たぶん納得するだろう。議員は、黒川の居住地の担当窓口を教えてくれ、月曜日に連絡を入れておくと言ってくれた。上手く運ばない場合、いつでも駆けつけると、聞いていた通りの穏やかで誠実な対応をしてくれた。

昼から比嘉のアトリエを訪ね、ユウくんがシーサーの仕上げに熱中した。                                                                                               帰り際、比嘉が言う。                                                                                                                 「裕一郎。ジイさんは理不尽だ、俺は間違っていないと思っとるんか?」                                                                                                        「いいえ、同じ土俵でジタバタしてると思うてます」                                                                                                      「なら、ワシの話も聞けるじゃろ」                                                                                       ジイさんの求めに応じて普通の男には出来ないようなメシを作り、了解を得てユウくんを海へ連れて行った。良かれと思って、二人で夜の居酒屋に行きユウくんに居酒屋体験を提供した。それは大きくは善意だろう。まぁ便利屋じゃな、ジイさんがお前さんのその便利さに甘えて色々要求したのがスタートだとしても、お前はその要求に長期間応えられないと解かっているのだから断るべきなんじゃ。ジイさん独りで続ける生活に将来繋がるような提案やサンプル提示をするんじゃのうて、お前がせっせと便利屋しとったんではアカンのじゃ。                                                                                                                                                                                  「ええ・・・」                                                                                                                                       「ジイさんは彼なりの智恵を動員して引き止めようとしたんじゃろが、どうやら諦めたようじゃのぉ。ええかい外から来た黒川親子でも沖縄に深く縁ある者じゃ。黒川さんは沖縄の現代史の一側面を身に刻んで生きた人じゃ。お前は沖縄という物語の第一章の第一ページの数行を読んだんや。先を読む気はあるか?」                                                                                                                                            「たぶんあります」                                                                                                                    「よっしゃ、それでええ、また沖縄へ来なさい。いや来れんでもええ。大阪ででも先を読める」                                                                                                           「比嘉さん、ありがとうございます」                                                                                                                     「水臭いこと言うな。あの占拠中ビルの壁の落書き忘れてへんぞ、『叛乱と自治』、株式会社ワイトラップ。社名の由来も、読み解いたぞ。Y・TRAP、逆から読めばPARTY。英語でパーティー、ドイツ語でパルタイ、日本語で党。党組織の三角形が逆になっているようなカタチ、人間集団のスタイル。お互いの夢やのぉ。けど、自治できんのなら、それは結果として、ただの勝手・我が侭や、難しいのぉ~・・・。大阪へ帰ったら、意地張らんと高志に仕事探し協力させろ。」                                                                                            「いえ、高志を卒業しなさいと、ある人に言われました」                                                                                             「それは女性じゃろ、女房か? アハハ。女房の処へは帰れ」                                                                                      「女房ではありません。女房の件は考えてますが、受容れてくれるかどうか・・・」                                                                           体長が人間の半分はある大きなシーサーが仕上がっている。比嘉が「ジイさんがそうしろと言えばいつでも若い者に運ばせる。しばらくここに置いておこう」と言ってユウくんに「それでええかの?」と確認していた。

日が暮れそうになった海岸沿いの道路を走り、ギャラリーに着くと初日と今日の両日を手伝ったヒロちゃんは渡嘉敷に帰っていて、ほどなく配達の帰りだと言う亜希がやって来た。「明日は私です、ヒロちゃんと交替。ボランティアは明日で終りですよ、黒川さん」と明るく言う。                                                                                                                                                                                     「いや、明日はもういいよ。普通の店売り商売と違って、客と話し込んでいつか買ってもらう・・・そんな仕事なんだよ。来客は今日でもぼく一人で対応できる人数だった。日本のいい焼物を沖縄に広めること、ぼくの陶芸界の人脈がゆっくり沖縄に広がること、。そして沖縄のいいものを日本に発信できればいいんだ」                                                                                                                                           黒川は何故か淡々と話す。亜希が抱えていた「しらゆり」の一升瓶に目を遣って言った。                                                                       「亜希くん、その酒が好きなのかい? 今呑むのかい?」                                                                                                                                                                                         「いえ、黒川さんにお持ちしました。私からのお祝いです」                                                                                                                                                                                                             「ハマってるそうですよ。母上が好きだった泡盛だそうです」裕一郎が言葉を添えると、黒川が言った。                                                                                                                                                                        「母上ねえ・・・。偶然と言うか、ぼくもこの酒は好きなんだ。亜希くん、しらゆりの花言葉は知ってるよね」                                                                                                                        ん? 裕一郎と目を合わせた亜希は一呼吸置いて、黒川と向き合った。                                                                               イチニのサンとばかりに、亜希と黒川が同時に言う。                                                                                                     「母!」 。                                                                                                                                                                                       「そう。聖母、マリア様、母だ。裕一郎くん知ってるかね、糸満の先、本島南端、ひめゆり学徒隊の最大被害の地に近く、追い詰められた多数の民間人が海に身を投げたという喜屋武岬の断崖にも咲くんだよ。母の故郷はそこから近い。裕一郎君、糸満美人って分かるか。ほれ、ヤクザの娘で教師という役の女優がいるだろう。あれがぼくが想い描いている糸満美人だ。ぼくの記憶では、母親はあの女優にそっくりなんだ」                                                                                                                         

黒川は少年のようにはにかんだ。そして、いつもの黒川節よりはトーン低く、しらゆりを語り始めた。

連載 74: 『じねん 傘寿の祭り』  八、 しらゆりⅡ (1) 

八、 しらゆり①

翌朝、黒川は昨夜何もなかったようにケロリと「おはよう。さあ、オープンだ。常連が押し寄せるぞ」と能天気。裕一郎も合わせた。                                                                                                                           「じゃあ、ユウくんの園もあるし三人で車で出かけましょうか。先に店へ行回ってそれからユウくんを送りましょう」                                                                                                                                                 「そうだね。今日だけは早く行かないとね。明日からはひろしを送り出してからゆっくり行くよ。もう君に頼ることは出来ないのだからな」                                                                                                        裕一郎は、俺の退却を正式に承認したのだなと思って、昨夜の暴言も赦せるのだった。                                                                                                          ギャラリーには昼前から、もちろん押し寄せるのではないが、DMを観た常連や新聞・テレビを観た人々がやって来た。ご祝儀の購入もあり黒川は上機嫌。ヘルプに来ていたヒロちゃんも包装したりお茶を出したりしてキビキビ動いている。オープンらしい賑わいは心地よかった。

午後から比嘉が来てくれた。主宰する大人向け版画教室の生徒さんにと、そこそこ値の張る湯呑みを十三個、無理して購入してくれた。黒川は、新聞とテレビの礼を彼なりに精一杯表現している。                                                                                                                                                                                                          「息子さん、ユウくん元気ですか? ほれ例のシーサーの仕上げが残っております。裕一郎が居る間に来させないや。いいものに仕上がると思うんじゃ」                                                                                                                   「いやー本人もあれは気に入っていて仕上げたいと思っているはずなんだよ。行かせよう」                                                                                                                                                                                            比嘉はこれから那覇に在るその教室へ向かうと言う。彼を送りますと黒川に告げて出た。                                                                                                 「話があるんじゃろ?」                                                                                                                    比嘉は鋭い。教室は夕方からだ。近くの喫茶店に入った。                                                                                                                    「オープンしたことですし大阪へ帰ります」                                                                                                                                「そうか。いいじゃないか、まぁお前さんとしては出来ることはしたんだ。帰りなさい」                                                                                                                              比嘉の友人であり後輩でもある村会議員がいる。彼が障害者の授産施設の運営もしている。ユウくんの日常に、自宅と園以外の活動・体験を確保したい。その方法を相談したいと切り出した。                                                                                                                      その場で村会議員に電話を入れてくれ、早速明日訪ねることになった。話の中で、黒川との二ヶ月を客観的には愚痴ってしまった。                                                                                                                                                        黒川をよく知っている比嘉は「あのジイさんらしいのう」と笑って聞いている。                                                                                     黒川の生母探しを聞き及んでいる範囲で全て話した。比嘉は初耳だと言った。

比嘉は生母探しを引き受けた女性の名:謝花晴海を言うと知っていた。探偵社のようなものを運営しながら、沖縄の山野やガマ(壕)に埋もれて眠る沖縄戦の遺骨の収集に汗を流し身元を調査し、判明した遺骨を遺族の許へ帰す、そのボランティア活動を地道に続けている女性で、面識もあると言う。彼女自身の父母が、ガマの惨劇の生き残りなのだだという。おそらく出生事情を知る長崎の関係者から聞かされていた黒川が、展示会で沖縄に来た時その女性に依頼していたのだろう。                                                                                                                                                            そうか、美枝子が言っていた、沖縄国際大学へのヘリ墜落事件の翌日「沖縄の女性から」電話・・・、その電話の主が晴海に違いない。直後黒川は沖縄移住を決断したのだ。                                                                                                                                                      比嘉が言った。                                                                                                                                                                                                            「ジイさんの生母探しは、彼女の遺骨収集の取り組みと決して無縁ではないぞ。ウチナァとヤマトゥの関係の一断面だな。彼女はそこを想って黒川の依頼を格安で請けて走り回ったんやろう。けどな裕一郎、ジイさんの気持ちは分かるが、その生母は長崎での日々と実子とを、つまり日本を封印して再出発して生きたのだ。明らかにすると言うても難しいのぉ。」                                                                                           比嘉はゆっくりした口調で続ける。                                                                                                                                                   もし、条件が整ったとして、条件というのは遺族・親族の同意などだが、確定するにはDNA鑑定だろうかな? 沖縄の墓制は、よく知られているようにカメヌクーという亀甲墓と呼ばれるものだが、女性の子宮を模したものだそうだ。母の胎内から生まれ死してまた帰って行くっちゅう訳だな。なら、女性も母親の墓に入るべきだが、妻は夫の大家族の墓に入る。死してなお、家・家族に縛られる。日本と同じや。                                                                                                                                                             葬儀も、「二回葬」と言うてな、その大きな墓に埋葬して、遺骨が朽ちるのを待って数年後取り出し洗い清める。洗骨やな。独特や。ヤマトゥでも火葬が一般的になるのは戦後らしいが、ジイさんが生母だと言う女性が亡くなったのが五六年だとして、どうだろう移行期だったがまだ火葬ではないように思う。DNA鑑定には有利だな。いや待てよ、五六年といえば五十年前やのう、家々で違うと思うがもう墓の奥に先祖と一緒くたになっとるかもな。しかし、墓を暴くというか、墓から取り出してというのは、文化・民俗に馴染まないね。しかも、                                                                                                                                                                                   問題は、その墓は夫の大家族の墓だということだ。離婚しても元夫との間に子がある場合、元夫家の墓に入るというほど家制度が生きている土地柄だ。親類縁者が承知せんじゃろ。ましてや、その生母はヤマトゥで出産したことを秘して生きたのじゃ。ジイさんの執念は波紋が大き過ぎる。つらいのぉ~。

連載 73: 『じねん 傘寿の祭り』  七、 しらゆり (9)

七、 しらゆり⑨

黒川は自説を全く修正しなかった。よく知りもせず夫婦のことに口出しするな、親子のことへの干渉は第三者特有の無責任な建前論だと一歩も譲らない。                                                                                                                                                                                  そればかりか激しい会話の挙句、思いもよらない難癖を付けて来た。                                                                                          「思っていた通り君もやはり美枝子と同じ世代・同じ傾向の自己愛人間だ。同じ穴の狢なんだよ。持続できないことをその場の自分の気持ち最優先でやっちゃう。相手・ことの実像、関係の総体を幾重にも検討して、時には引く・・・・それを知らない、知ろうとしない」                                                                                              「はあ? それ、黒川さんあんた自身の自己分析ですか? あんたにだけは言われたくない。その言葉そっくりあんたに返させてもらいます」                                                                                                                                                               「そうじゃないか! 君は何度かひろしを海へ連れて行ったが、ひろしに喜んでもらっていい気分を味わいたいという君のエゴなんだよアレは」                                                                                                                                         「何~ぃ! 連れて行ってやってくれ、と言ったのはあんたじゃないか」                                                                                                                           「ぼくが遅くなった日に、久茂地の居酒屋へ二度も連れて行ったのも知っているぞ。君は大阪へ帰る人間だ、無責任なんだよ! 後のことはどうにでもなれ、ぼくは知らない好きにしろ、あとは野となれ山となれって訳か。車の運転など出来ない上に炎天下は身体に障る病を抱えた老人に、バスを乗り継いで連れて行くことなど出来ないことを知ってるくせに。ひろしに、ぼくが出来ないことを次々するんじゃないよ」                                                                                                                                                                                   「何を言うとんのや。あんたが監督可能なこと、あんたが同行可能な範囲のことしかユウくんに体験させないと言うのか? その中にユウくんの人生を閉じ込めておけと言うのか? あんたこそ自己中心主義だと思わないのか」                                                                                                                                                                                   「食事にしたってそうだ。ぼくでも簡単に作れる範囲のメニュウとか、買ってきて電子レンジでチーンするとか、出来るだけそういうものしようと心がけない。手をかける。君が居なくなった後ぼくに出来ないことばかりしやがって」                                                                                                                        「あれが食いたいこれを作れと言うたのはあんたやないか。食って美味い美味いと褒めて煽てて・・・。」                                                                                                                                   「褒めるのは礼儀だからだ」                                                                                                                                                                                                              「話にならん! ぼくがしたことは全部迷惑やったと言うわけやな。ちょうどええ、店もオープンに漕ぎ着けたっことだし、いよいよ帰らせてもらう。もうあんたと言い合うのは止める。時間と精神の浪費や。結論!さいなら」                                                                                                                                                                                                    「残された者に出来ないことを見せつけ見せびらかし、上から目線を保ったまま帰りゃいいさ。勝手にしなさい。沖縄に移住した父子の処へ、軽い気持ちで気分転換とばかりにやって来た己の軽薄を噛み締めるがいい。いいか、ぼくは沖縄にずっと居るんだ、君と違って」                                                                                                                          言い返す気にもなれず、部屋を出た。階段を降り始めた裕一郎の背中に、黒川が「明日のオープンも視に来なくていいからね」と投げつける声が聞こえた。続けて「去る者が一体何を視ると言うんだ」とつぶやくのも聞こえた。                                                                                                              いつか黒川は「ぼくもついこのあいだ六十だった。二十年はアッという間だよ。君もすぐぼくと同じ歳になるんだ。自覚しているかね」と言っていた。黒川にこそ、その自覚を求めたい。だが、その通りなのだ、俺もきっとすぐ八十だ。さっき展開された言い合いは、しばしばニュースが伝える老老介護の果ての殺人のようだ。じゃれ合い喧嘩のように見える発情牡象の威嚇のように、時に大怪我もする。些細に見えて、人と人の諍いの縮図なのだ。事実、黒川は最後の一撃を仕掛けて来た。

積んであった商品や書庫・衝立が持ち出されてガランとなった洋間の椅子に座って想った。                                                                 黒川は結局は「帰るな」と言いたいのだ、「帰ってくれるな」と。「君が居なくなればぼくはどうすればいいのだ」と。                                                                                                                     だが黒川は、最初からの「オープンまで」との約束を百も承知し、裕一郎の今後の計画もあろうとも思ってはいる。しかも報酬を払えていない以上、帰るのは当然だと充分解かっているのだ。                                                                                                                     その二つ、心理と道理の分裂を自覚して、裕一郎を責め立てることに感情を向け、その整理を付けているのだ。                                                                                                                                                        祐一郎は、どんなに理不尽であったとしても、ことの真実をたぶん言い当てている黒川の言葉を振り返っていた。                                                                                 「軽い気持ち」「気分転換」「沖縄の父子」・・・・。その通りだと思う。                                                                            黒川の最後の一撃にはただ黙って聞くしかなかった。黒川はこう言ったのだ。                                                                                                                            上から見下して、ぼくとひろしをガードする輝ける騎士・ナイト気取りでいるんだろう? 言っちゃ悪いが、君の携帯に仕事や君の言う社会運動やそして女性から電話なんて掛かっては来ないじゃないか。することが無く、することを喪い、することに去られ、することから逃げた果てに、か弱い老人と障害ある子との危うい家庭へ、沖縄へと、潜り込んだんだ。ああ、もちろんぼくとて同類だとも。しかし君の振舞いや言動に在る、半端インテリ浪人のお助け根性などお見通しだよ。自分と老人黒川とは同じなんだという謙虚がない。                                                                                                                                                       裕一郎は、たまにユウくんが海へだって行けるような方法、その端緒だけは組み立ててから帰ろうと考えた。                                                                                                                                               そして、黒川の生母探しの言動に、軽くあしらうように接してしまったことを悔いていた。                                                                                           松山で美枝子は、長崎・原爆・ウメさんのおにぎり・運動会の弁当・美しい女性が登場する黒川から聞いたという話と、広島原爆ドーム前での知念太陽との再会などを語った。もらい泣きしそうになって黒川の孤絶を想ったと語った。元夫婦に在ったはずの絆の大もとを視た気がしたのだ。そうした絆を持ち得るのも、それを解体して憎しみ合えるのも、夫婦ならではの宿業なのか?                                                                                                                            憎しみ合っている訳ではないが離れている己が夫婦の姿を思えば、黒川にはそっけなく「ハイハイ」と返してしまうしかない己だったのだ。

(七章 終  次回より 八章、しらゆりⅡ )

たそがれ映画談義: 品川宿から『幕末太陽傳』再公開のお知らせ

『幕末太陽傳』-時代は地続きだァ-

50年以上前:1957年、日活再建10周年作品として当時のオールスター・キャストを動員して世に出された『幕末太陽傳』が、近く日活創設100周年記念として、デジタル修復して再公開される。映画の舞台品川に居残り「品川宿:品川自由塾」塾頭を名乗り、ブログ・タイトルを『たそがれの品川宿』としてしまっているぼくとしては感慨深いところだ。                                                                                                     出演:フランキー堺、南田洋子、左幸子、石原裕次郎、岡田真澄、芦川いづみ、小沢昭一、小林旭、山岡久乃、市村俊幸、殿山泰司、金子信雄、他

古典落語「居残り佐平次」「品川心中」「三枚起精」「お初徳兵衛」他から取材し、幕末品川という混沌の時代を背景に描くこの映画の世界は、「評論家」で居たのでは『乱世』の現実を生きられない者たち「民」の、時代を相対化し同時に時代の当事者でもあるという、その立ち位置と智恵を主人公:佐平次を通して描いていた。それに成功した正に快作と呼ぶに相応しい映画だ。 

                                                                                                               時代のトップランナー(インテリ・前衛・党幹部?):高杉晋作(石原裕次郎)に佐平次が言い返す舟上場面の台詞は川島の「思想」の核心だろう(ぼくの初観はアレコレ見失いそうな時期だった71年)と想った。                                                                            45歳の若さで早逝した川島雄三のこの作品は、2009年キネマ旬報『オールタイム・ベスト映画遺産200日本映画篇』で、第4位に選ばれたそうだ。                                                                                     ちなみに、ベスト3は、『東京物語』(小津安二郎)、『七人の侍』(黒澤明)、『浮雲』(成瀬巳喜男)だそうだ。                                                                                (資料: http://www.kinejun.jp/special/90alltimebest/index.html )

その後、映画界は衰退し日活は大映と「ダイニチ」という配給会社を作り、製作から退いた。今、「日活」は企画会社としてにみ存続しているか知らない。日本映画の黄金期に衰退を見据えて「時代は本来地続き」「盛衰は、社会事情の反映で変転当然」、むしろ「(わら、えてはなら、えられ)ないもの」を語り・描き・観客と共有することこそ映画の務めだとの川島の言い分を、いま遺影を観て改めて想うのだ。                                              観てない方、この機会に是非ご覧あれ!                                                                    

あんたらは百姓・町人から絞り上げたお上の銭で、                                                  やれ勤皇だ攘夷だと騒いでいるが、                                                           こちとらそうは行かねえんでぃ、                                                               首が飛んでも動いてみせまさぁ!

連載 72: 『じねん 傘寿の祭り』  七、 しらゆり (8)

七、 しらゆり⑧

祝いの席だ。黒川は、さすがに美枝子からのプレゼントに関しては口を閉ざした。それがかえって「君には後でゆっくり言うことがあるんだ」というサインに思えた。                                                                                       ユウくんの「ネクタイとシャツだ」との小声に、黒川が「ひろし、後にしなさい」と言う。ユウくんは半ば明けてしまった荷を申し訳なさそうに隣室へ移動させた。                                                                                                                                               黒川も裕一郎も怪しいがまあ大人だ、楽しそうに振舞った。祝いの席が終ると、ユウくんが二階で長ズボンに履き替え降りて来て、プレゼントのカラシ色のカッターシャツを着ている。ネクタイは焦げ茶色の地に同系二色で柄が施されている。上品で毅然とした雰囲気のものだった。ユウくんが穿いた焦げちゃ色のズボンにもピッタリ。美枝子がこのズボンを百も承知で選んだのだと判った。                                                                                                            「北嶋さ~ん。ネクタイ付けて」                                                                                                                「はいよ。ネクタイはね、締めると言うんやで」                                                                                                       「ネクタイ、しめて!」                                                                                                      一度では覚えられないネクタイ締めに、ユウくんは「難しいね。面倒くさいね」と言う。暑苦しく首周りが窮屈なこれは「犬の首輪だ」とは言わなかった。役に立つ時もあるのだ。例えば、先日、細川の画廊に債権回収に出向いた時のように・・・、と思って苦笑した。                                                                                                  「似合わない?おかしい?」                                                                                                                                                       「いや、もちろん似合ってるよ。初めてネクタイ締めたとき北嶋さんも苦労したのを思い出して笑うたんや、ゴメンゴメン」                                                                                                               「ふ~ん。北嶋さんでも難しいんだ」                                                                                              「そうだよ。けど、覚えといて損はない」                                                                                                                                               「覚えるよ」                                                                                                                 ようやくカタチが決まると、ユウくんは玄関の大きな鏡の前へ小走り。                                                                                                                           「北嶋さん、写真撮って。ねえチチもおいで、写真をハハに送るよ」                                                                                          携帯電話で構えると、黒川が苦い顔でユウくんの隣に立った。

 ユウくんが寝た頃、黒川が部屋へやって来た。黒川はまずは冷静に語り始めた。                                                                                                                                                                                 「北嶋君。時々電話する、目立つタイミング、印象的な場面で物を送って来る、それは卑怯だと思わないかね?」                                                                                                      「卑怯と言っても、美枝子さんには他に方法が無いじゃないですか」                                                                                                                  「出て行ったのはあいつだ」                                                                                                                                                 「それは親の都合でしょう。ユウくんにはハハとの交信の自由、ハハから愛される権利があります。貴方はそれを奪うのですか?」                                                                                                                                              「いいかい。ひろしと生活しているのはぼくなんだ。時々いい顔をするのは誰にでも出来るんだ。もう会えない、母親をできない・・・、それを覚悟して出て行ったんだろうが、それはあいつが自ら選んだ途なんだ。」                                                                                                                                                             裕一郎は、ここで言ってはならない切り札を出してしまった。                                                                                                                                                                                                                     「黒川さん、怒らないで下さいよ。じゃあ、あんたの調査とやらは何なんですか?。生母を探しているじゃないですか。ユウくんに母親に会えないままの同じ想いを強制するんですか?」予想通り黒川の声が変わった。                                                                                                                                                         「それとこれとは違う。ぼくの生母は自ら選んで長崎を去ったのではないはずだ。引き裂かれたのだ。産み役を終えお払い箱にされたに違いない。日本を、実子を封印して戦後を生きたのだ」                                                                                                            「悪いけど、想像でしょう?」                                                                                                                                                                                                                                                                 「違う! ほぼ特定出来たんだ。調査の結果、プロフィールが合致する女性の中に、戦後、沖縄で結婚して五六年に五十一歳で亡くなったある女性が、ぼくの幼少期の時代長崎にいたことが判明した。しかも、」                                                                                        黒川は熱を込めて語る。その女性は一九二七年二十二歳で子を産み、ぼくが生まれた年だ、一九三七年三十二歳の秋沖縄に帰っている。ぼくが尋常小学校四年の運動会の年だ。ほぼ間違いない、母だ。沖縄で結婚し再出発したんだな。母には当然、夫・家・生活・親戚、沖縄の戦後の時間というものがあった。彼女の歳の離れた妹さんがひと度は姉が長崎で子を産んだことを認めていたんだが、後日否定に転じて亡くなったそうだ。調査員は、その妹さんの息子から聞き出した。が、否定したのが遺志でもある。そこを配慮してまだ最後の詳細を言わない。それに、子つまりぼくの妹だねえ、妹も居る。事実を明らかにするには関係者たちが、歴史や事情を越えて協力というか同意してくれないと難しい。容易なことではないんだ。親類縁者・地域社会からの無言にして根深い強迫を押し返して明らかにするには、ぼくの側には在る必然性みたいなものが要るんだが、向こうには無いよね。むしろ秘しておきたい、というのが当然だろう。                                                                                                                 「君には解からんだろうが、ぼくは米・日・沖と闘っているんだ。ぼくの戦後総決算だ。闘いは必ず決着してみせる」                                                                                                                                                                                                                                                       「ハイハイ、そうですか。どうぞご自由に」                                                                                                                                                     「聞くんだ。ぼくの生家、ぼくの生家は長崎で有名な料理旅館だったんだが、そこにウメさんという女中さんが居た。原爆被害で大混乱の敗戦直後の長崎、ぼくは生家の前でそのウメさんに再会した。彼女からぼくの出生の事情を聞かされていたんだ。仕事で沖縄へ来るようになって、どうしてもハッキリさせたくなってウメさんのその後を辿った。亡くなっていたよ。生母に関しては、姓名のうち姓はだけは珍しい苗字で思い出せたが、その他聞かされたことを思い出せないで来た」                                                                                                     「美枝子さんから、ウメさんが語った小学校四年の運動会で会った女性の話、聞きましたよ。それはそれとして今はユウくんと美枝子さんの交流の自由の話です。その総決算とやらには、あんたがユウくんと美枝子さんの自由交流を納得することが、むしろ必修条件だとぼくは思いますけどね」」                                                                 ここから黒川はさらに語気を荒げた。                                                                             「分かったような口を利くんじゃない。本気で総決算などしたことのない崩れ全共闘めが。」                                                                                   「ちょっと待ちなさい! 本気かどうか怪しいけど、その作業をぼくらなりにして来たんです」                                                                                  「そのぼくらの{ら}が気に入らないね。君の世代はいつも、何を言うにも{ら}だ。一度くらいぼくと限定しなさい。{ら}なんて無いと知ってるから、お前さんはいつも{ら}なんだよ。しかも本気かどうか怪しいとまで言う。怪しいんじゃなく、してないんだ。ぼくは本気だ。ハッキリと本気だ。米日沖と正面から向き合うぞ。ぼくが母に会うことを妨げる要素は、ぼくにとって全て敵なんだ」                                                                                                   思い込みとは恐ろしい。この自信は何だ。少しは自らの越し方を顧みろよ。                                                                                                           老いの一徹と言えば聞こえは良いが、自身棚上げ方式なのだ。その主張に怯みもする。が、美枝子からの誕生日プレゼントは認めさせたい。                                                                                                                                 裕一郎は、罵り合いを続けた。                                                                                     

連載 71: 『じねん 傘寿の祭り』  七、 しらゆり (7)

七、 しらゆり⑦

すぐ三人で移動して玲子の下宿でメシをよばれたから、是非無い待ち合わせではなかったと裕一郎は思っている。                                                                                                                     「ぼくじゃない。ぼくでも彼でもない誰か友達やろ。今度、玲子本人に訊いてみるよ」                                                                       「な~んだ。男って些細なことを気にしてるんですね。奥さん本人か北嶋さんに訊けば分かるのに、ね・・・。」                                                                                                 「気にしてるのか、あいつ」                                                                                                                                 「そうは言わなかったけど、奪ったという言葉に負い目みたいなもの感じましたよ。それと、北嶋さんの奥さんが専務の永遠のマドンナだとも言ってました。怒らないで下さいよ、お二人って、何か学生時代や争議や仕事を通じて兄弟のような双子のような、いえ違うな、う~んお互い相手の存在がなければ人生が成り立たないような、相互依存のような・・・。悪いけど、団塊世代?あの人たちみなさんそういう傾向ありません? それって卒業すべきことだと思います」                                                                                                                                                                             裕一郎は図星だと思った。だから苛立ちもした。生意気なとも思った。若い女性のこうした言い分に母性のようなものが潜んでいることも知っていた。珍しく不躾な亜希の魂胆が分からない。                                                                                                                                                       「マドンナ? うちの女房が? へえ~意外やな。それはともかく、相互依存? 失礼やろ! なんでそういう話を語るんや?」                                                                                                                                 「卒業の材料。それと奥さんの処へ帰る後押し」                                                                                                                             「余計なお世話やね。放っといてくれよ。何が卒業の材料や、中学生に対する母親みたいなこと言うてくれるな」                                                                                                  「すみません・・・でした」                                                                                                                                                               恥かしさもあって亜希には言えなかったが裕一郎は思うのだ。相互依存だけではないよ、相互刺激や相互研鑽に似た緊張関係の側面だって在るのだ。矜持とも自負とも言えないが、いささかのこだわりはある。その意味をこれまで、体系的に社会的に自他に示せたことなど無い以上、相互依存との指摘に甘んじておこう。                                                                                                           ベンチから起って改札へ向かう亜希が無礼を埋め合わせる為だけではなさそうに言った。                                                                 「いい誕生日でした、有り難うございました。永遠の入口と思わせて下さい。いいですよネ」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       三十歳も若い亜希に少年をあやすように言われたなとも、彼女が本気で言ってくれたとも思え、この人をこの先も見ていようと思った。こういう年下の女友達は他にいない。貴重なのだ。                                                                                   「明日のオープンには那覇に留まっているヒロちゃんがお手伝いします。黒川さんに伝えておきました。じゃ、また」亜希は桟橋に去った。

 黒川とギャラリーじねんが出るニュース番組を見るべく、黒川宅へ車を走らせた。黒川には悪いが、比嘉の陰の貢献への感謝の想いが無ければテレビ・ニュースはどうでもよかった。コメントは予想が付くし、店の映像は知り尽くしている。                                                                                                                         危なっかしい運転は、妻と俺は「そういう関係」なんだろうか?という書生のような問いに支配されていた。勘違いを質せずに来た高志の半生に居座る青臭さ、妻が「専務の永遠のマドンナ」だという亜希の話に驚いている自身の感受性の弛緩。それらは亜希が言う通り相互依存の変異種だ。                                                                                     最も身近に暮した存在への観察眼や理解力に欠ける若輩者が、天下国家を論じた若い時期を送り、社会運動に関与しそれも中心を担ってしまい、人の生活を左右してしまう経営を背負うとは・・・。                                                                                                                                                                                                                                                                                                          けれども、知者や治者や覇者にその無謀を嘲笑わせたくはない。                                                                                                                                                                                          高志に「奪った感」や負い目があったとして、それはある面「可愛いわね」と片付け得る要素や、書生っぽい誠実や、甘ちゃんの罪のない無理解だと言えなくはない。けれど、抜けているのは玲子の側の選択、その自律自立への無理解だ。そうした在り様は、実のところ厄介な団塊どもの限界だったし、俺たちの危うさのや欠陥の根本と繋がっていると裕一郎は思う。団塊、厄介、限界ってか?                                                         人のことはこのように思えもするのに・・・。                                                                                                                                        専務を卒業、・・・か。上手いこと言うな亜希。それが必要なのか、そもそも高志との間に亜希が言うほどの卒業すべき課題があるのか、そこは自覚できない。しかし、裕一郎が「バカだなぁ」や「幼いなぁ」などの感情を、いままで高志に抱いたことがなかったのは事実だ。亜希、君は聡明で美しい。

 黒川宅に戻ると、食堂でユウくんがはしゃいでいる。                                                                  「北嶋さん、お寿司が来るよ」                                                                         「ギャラリーの完成祝いかな」                                                                                    「違うよ。」                                                                                                                   「何かな?」                                                                                       「いいことだよ」                                                                                                                                                      チャイムがなって黒川が大きな寿司桶を抱えてやって来た。                                                                    「ギャラリーの完成も目出度いが、もっと目出度いことなんだ」                                                                                                  「何です?」                                                                                                                                                「ぼくが大人になったんだよ」とユウくんが誇らしく言う。                                                                               「ひろしの誕生日なんだよ」                                                                                                        「おうおう、そうかユウくん。おめでとう。いくつになった?」                                                                                                                                                                 「ひろしは二十歳になったんだ」                                                                                                                        黒川さん。黒川裕、ユウくんこそは、貴方がひと度は「そういう関係」だった人との間に生まれた命なんですよね。                                                                                                   三人でわしたニュースを観た。想像通りの内容だったが、黒川は「比嘉君にお礼を言わなきゃな」と上機嫌。ユウくんも「わあ、チチのギャラリだ」と見入っていた。                                                                                                                                                             亜希に諭されたと言うべき今朝からの今日一日が、とりわけ亜希が泊港の待合で語ったことが、ユウくんの母親美枝子を含む身近な女たちを強く想わせ、黒川の生母探し調査費のことを認めるよう心を押している気がしていた。                                                                                                                            食卓に並んだ寿司を前に、おめでとうを言って乾杯して・・・、と思って腰掛けた時、またチャイムが鳴った。                                                                                                                                               出た黒川と宅配業者が言い合っている。玄関に行くと、黒川が受取拒否を通告していた。                                                                                                          すぐに分かった。美枝子からユウくんへの二十歳の誕生日祝いの品だ。                                                                                                 「止めなさい! 黒川さん、貴方に受取拒否する権利はありません」                                                                                            「話は逆だ。居候の身の君に、ぼくへの荷の受取拒否を阻止する権利は無いんだ!」                                                                                         「あなたへの荷? ほら、この荷物の宛名は黒川裕です。黒川自然ではありません。横暴だ」                                                                                               「ぼくは親権者だ」                                                                                                                                                      「黒川さん、ダメです。今日ユウくんは二十歳になったんでしょ。止めなさい。受け取らせて下さい。                                                                       美枝子さんからのプレゼントじゃないですか!」                                                                                  強引にサインして、配達員から受け取った包をユウくんに手渡した。                                                                               こらっジジイ! 誰が居候やねん? そう言いそうになった。

連載 70: 『じねん 傘寿の祭り』  七、 しらゆり (6)

七、 しらゆり⑥

予定通りワックス掛けを終え、夕方の便に乗る亜希を送って泊港へ車を走らせた。                                                                                                                                                  「聞きそびれたが、あの時みんなで笑ってたの何? 黒川さん又何か言うたかな」                                                                                                        「ナイショ」                                                                                                                                       「教えてよ」                                                                                                                                                                                    「ちょっと笑えないんだけど、黒川さんが面白おかしく言うから・・・」                                                                                                                    「何て?」                                                                                                                                                                        「亜希君と北嶋君が実際のところどうかなのかは、当人たちだけが知っている。ヒロちゃん、そういうことなんだよ男女ってのは、だって。それから、ぼくはもうセックスは出来ないから、永遠の入口だと思うかい?実はぜんぜん違うんだよ、だって」                                                                                                                                                              「松下さん、ぼくら、朝方、あそこで引き返して良かったよな。」                                                                                                             「すみません」                                                                                                           「謝るなよ」                                                                                                                                                                                                                         携帯電話が鳴った「裕一郎、今どこに居る?」。比嘉からだ。泊港へ向かう途中だと答えると、「すぐ帰れ! 6時までに帰れ」と言う。ん、何だ?                                                                                                                                                                                 「6時からテレビ視ろ。6時からの、わしたニュースやぞ」                                                                                            比嘉が何かの取材を受けて出ているのだろうか。                                                                                                                                        「何です?」                                                                                                                                         「観りゃ分かる。ジイさんにも見せてやれや」                                                                                                                                                 なるほど、そうか。ギャラリーじねんがローカル・ニュースに出るのだ。比嘉がそこまで手を回していようとは驚きだ。分かりましたと答え駐車場に入った。                                                                                                                                 亜希に電話の中身を説明すると「どうしてそこまで・・・」と言って、「黒川さん、北嶋さん、比嘉さんの熱い友情と言うか、腐れ縁と言うか、永遠の入口みたいなことかな」と言って笑った。                                                                                                                                           さっき黒川が言った永遠の入口は男女の「そういう関係」の話だったが、似たようなところがあるのかもしれないと、裕一郎は先輩二人との時間を想うのだった。

高速艇の発時刻まで30分ある。6時前に黒川宅着なら艇が出るまで居ても大丈夫。待合のベンチに座り、争議のとき占拠中の社屋内の倉庫を比嘉に製作工房として貸したこと、それは高志もいっしょに進めたこと、ずっと後年黒川は裕一郎が持ち込んだ比嘉の作品を扱って来たこと、先日ユウくんを比嘉のアトリエに連れて行ったこと、比嘉から聞いた「他者を迫害することなく生きてゆく権利」の話、比嘉が新聞社にギャラリーじねんの記事をねじ込んでくれたいきさつ、などなどをダイジェストで話した。                                                                                                                                                                                                                              亜希は、「ああ、沖縄だぁ」そう言って「北嶋さん、黒川さんっていいこと言いますね『永遠の入口』!」と繋いだ。                                                                                                                                     沖縄と黒川発言がどう結びつくのかよく解からない。だが、亜希の中で、いまそれが結び付いたのだ。そう思うと、黒川の例の「調査」も含め全てがひとつになって迫って来る。裕一郎はそう感じていた。                                                                                                                                                                 

艇の時間が近付いている。亜希が、「何回か送ったり送られたり・・・。駅や港でのこれ、中島みゆきの歌の気分にちょっと似ていて、これって嫌いじゃありません。もちろん、みゆきさんの突っ張った恋やしんどい別れではないのですが・・・」と笑った。大阪での最終電車の駅、渡嘉敷港、今日の泊港。たぶん三度だけなのだが、亜希との「別れの気分」は裕一郎とて嫌いではないのだ。                                                                                                                  亜希が、どこかぎこちなく言いそびれたことを付け加えるように言う。                                                                                                                                                               「北嶋さん、私もそうですけど、北嶋さんも専務を卒業しないと・・・ですね。失礼」                                                                                           「えっ、高志? 何で?」                                                                                                                                              「私もたぶん北嶋さんも、あの時、専務のことが頭を過ぎったのだと思います」                                                                                                                                    「そうか・・・。で、君は卒業できたのか?」                                                                                            「たぶん。今朝、明け方、霧雨の中で卒業しました」                                                                                                                                                  亜希が泣いているように思いたかった。男を拒否できたことが高志を卒業だとは、分かる気がしないでもない。亜希の人生に貢献できたのかと苦笑して納得した。そして、親子以上の年齢差ある者を誠実に人として扱う彼女の「親切」は、ある種の高齢者介護でもあるに違いないと気付いた。                                                       泣きそうなのはこっちだった。拒否ではなく制止だ、制止してくれたのだ。                                                                               近く工房を去ると言う我が子より若い女性に、自らも間もなく大阪に帰ろうとする初老男が、どんな関係を提示できたと言うのだ。                                                                                               「ひとつ、訊いていいですか? 専務は奥さんを北嶋さんから奪ったんですって?」                                                                                                                                                              「いいやぜんぜん違う」                                                                                                                             「北嶋さんと奥さんが待ち合わせているところへ出交わし、そのまま奪ったと・・・」                                                                                                                      「え~っ?誤解や。ぼくは、てっきり高志と玲子が待ち合わせてたと思ってた。違うのか?」                                                                                                                                         「黒川さんの送別会の夜、居酒屋で専務との歴史を聞かせてもらった時、そう聞きましたよね。あれ~?と思ったんですけど、別にどうでもいいことなので言わなかったんですけど」                                                                                                                                    裕一郎は、高志の幼い思い違いに苦笑しながら、その幼さを嘲笑うのではなく、身を引き締めて受け止めようと思った。高志、お前も俺同様ガキだな。浮んだ大学前駅の鮮やかな記憶画像を、高志目線のアングルで再現して見せてやりたいと思った。                                                                                                                               当時玲子は髪が長くて紺のジーンズ姿。駅舎の庇を支える鉄柱にもたれて文庫本を読んでいた。裕一郎が声を発するのとほとんど同時に、後ろから来た高志が声をかけたのだ。ほら、俺が「誰かと待ち合わせか?」と声をかけているだろう? 高志、俺は玲子と待ち合わせてたんじゃないよ、バカだなぁ~。裕一郎は、高志に対してたぶん初めて「バカだなあ」と思ったのだった。

歌「100語検索」 31、 <流>

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 (漱石『草枕』冒頭)

 「流」(れるの)は時や時代や季節や泪や心、人々、であっても、「流」(されるの)は、「流」(す)当事者はもちろんだが、                                                                                                                                                                                                                                                                                                       遺棄され曖昧にされちまう、「流」(されて)しまふ事態・事柄の核心たちに違いない。                                                                                        秋元というAKB画策者:流れに乗るを本分とする輩が、いくら「川の流れのように」と唄ってくれても「じゃかましい!」と返したい。漱石先生は「智」と「情」と「意」が現実の「世」を生きることの困難を言ったのだが、その「世」との和解の勧めを説いたのではない。                                                                                                                 (蛇足:「情に棹させば」のくだりは「流れに逆らう」と誤読されるが、「情」に沿って「舟を進める」の意)                                                                                                                                                                                                                                                                                  ところで、日本の歌謡には「流」が多すぎるぞ!(多すぎて、アップ不可能。歌詞たちは際限なく「流」し続けている)(紙面の都合上10曲に絞ります)。 日本人は大切なことを「流」してしまうのか? ここは「意地」を通したい。「流」(れ、され)るリスクを負ってでも、まっとうな「情」に与したい。                                                                                                                                                                                                                              「流」(す、れる、される)しかない事態や事柄を覚悟して歌った曲・歌詞や唄い手に出会えることもあるから、歌は「流」してしまえはしない。                                                                                                                                                                                

『川の流れのように』 http://www.youtube.com/watch?v=3wmIrAFKLs0 美空ひばり                                                                                              『川は流れる』 http://www.youtube.com/watch?v=BKB2qGM41X0 仲宗根美樹                                                                                           『東京流れ者』 http://www.youtube.com/watch?v=cZe5WSLeYDM 渡哲也                                                                                        『星の流れに』 http://www.youtube.com/watch?v=2ChBdN6CwSM ちあきなおみ                                                                         『酔いどれ女の流れ歌』 http://www.youtube.com/watch?v=sgmGH5fuGXw みなみらんぼう                                                                                                            『木綿のハンカチーフ』 http://www.youtube.com/watch?v=2FK0Tj1sXEQ 大田裕美                                                                                 『卒業写真』 http://www.youtube.com/watch?v=hyGmy4m_BTA&feature=related 松任谷由美                                                                                                                  『春なのに』 http://www.youtube.com/watch?v=kBv62_KCacs 柏原芳恵                                                                     『みちのく一人旅』 http://www.youtube.com/watch?v=WrQg1u5v5O8&feature=related 山本譲二                                                                                                                 『二人でお酒を』 http://www.youtube.com/watch?v=K7aIVWLIxa8 梓みちよ                                                                           『粋な別れ』 http://www.youtube.com/watch?v=tm4kQWq_Umg&feature=related 石原裕次郎                                                                                                               『愛燦燦』 http://www.youtube.com/watch?v=20IutvIryNo 小椋佳                                                                                           『熱き心に』 http://www.youtube.com/watch?v=xv6HojYeo9E 小林旭                                                                                                          『学生街の喫茶店』 http://www.youtube.com/watch?v=Cuu9YK8d4L4 ガロ                                                                                                    『フレンズ』 http://www.youtube.com/watch?v=v8dOLnEs92s NOKKO                                                                                                                                                           『花』 http://www.youtube.com/watch?v=LzHaYPhu0nA おおたか静流                                                                                                                                                                                                                                     『時は過ぎてゆく』 http://www.youtube.com/watch?v=coiXF-PqgGQ 金子ゆかり

他に、『時は流れて』 『精霊流し』 『お座敷小唄』 『湯の町エレジー』 『赤坂の夜は更けて』 『いつでも夢を』                                                                                                 『湖畔の宿』 『涙を抱いた渡り鳥』 『湯島の白梅』  『悲しい色やね』 『そっとおやすみ』 『ルビーの指輪』                                                           『島人ぬ宝』 『青春の城下町』 『無縁坂』 『桜坂』 『悲しくてやりきれない』 『夢追い酒』 『昔の名前で出ています』                                                                          『アカシアの雨がやむとき』 『水色の雨』 『港町ブルース』 『雨がやんだら』 『さすらい』 『船頭小唄』   

 

 

 

連載 69: 『じねん 傘寿の祭り』  七、 しらゆり (5)

七、 しらゆり⑤

ギャラリーじねんに着くとヒロちゃんが居て驚いた。昨日休みだったヒロちゃんは、昨日中にフェリーで本島に来ていたのだった。弟が訪ねて来たらしい。大空は仕事上の急用で来れないという。黒川がそう言った。                                                                                                         ヒロちゃんは黒川の指示で梱包を解いていた。物によっては大きくて木組み梱包されている。開梱作業は楽ではない。黒川が汗掻いてバールを使ってこじ開けているが、どうにも危なっかしい。ヒロちゃんが、中のエアーパッキンに包まれた品物を丁寧に出している。裕一郎の出番だ。                                                                                                                              「おはよう、早くから始めたんですね」と言ったが、ヒロちゃんは睨み返して無言だ。                                                                                                                                                  黒川が「朝帰りかい? ぼくの予感は的中だな。」と笑ったが、ヒロちゃんの表情はさらに強張っている。その場の空気に気圧されて何か言い返すこともできずに亜希に目をやると、亜希は平然としていた。                                                                                                                                  「昨夜、沖縄に来ている大阪時代の部下たちに会ってたんです。北嶋さんと共通の知人なんでご一緒に・・・朝まで・・・。ちょっと呑み過ぎました」                                                                                                                             「そうかい、まっ手伝ってくれたまえ」                                                                                                                                                        ヒロちゃんは変わらず憮然としている。                                                                                                                                                        亜希が黒川に尋ねながら陳列にかかり、裕一郎は開梱作業を始めた。亜希の方へ行って大皿の配置を指示している黒川を見やって、ヒロちゃんが小さな声で口を開いた。                                                                                                                                           「北嶋さん、わたしも国際通りで呑んでたんよ。そしたら雨が降り出した頃、北嶋さんと亜希さん見かけたよ」                                                                                                                                  「そう。偶然やな。見かけたのなら声かけてくれたら良かったのに」                                                                                                                                                                「よう言うよ。北嶋さんデレーっとしてて邪魔せんといてくれ臭振り撒いてたもん。雨の中、店のテントの下でカップルやったでぇ」                                                                                                                                                「いやー、大阪の連中朝が早いからと引上げたんで、松下さんと二人で呑み直したんや」                                                                                                                                    「ほら、みんなで呑んだんとちゃうやん」                                                                                                                                                            気が付くと隣に黒川が立っていてまずいと思った。黒川とヒロちゃんのバトルになるのか・・・。と、やはり黒川が言い出した。                                                                                                                                                                            「ヒロくん、つまり君は二人がそういう関係だと言いたいんだね」                                                                                                                                                               「そんなこと言うてませ~ん。わたしは北嶋さんが嬉しそうやったと言うてるだけや。大体、そういう関係って何やねん?」                                                                                                                                    「あのね。男がいる、ある女が気になっている。人柄や内面もそうだが、言動や外面も好きだ。女がいる、その男と同じような気持ちで居る。それがそういう関係の入口だ」                                                                                                          「はあ? なんやねん、ジイさんの恋愛論かいな。入口を入ったらどこ?」                                                                                                                                               「そりゃセックスを含む男女の関係だろうね。その先へはこの人以外ではダメなんだという、人に説明できない感情?執着?こだわり?、それが必要だがね」                                                                                                   「元奥さんはそれなん? だったらなんで別れたんよ」                                                                                                   「出て行ったのはあいつだ、ぼくじゃない。本人に訊いてくれ!」                                                                                                                                                                   大皿を設置している亜希は聞かぬ振りをしていたが、聞いていたに違いない。黒川が会話に使った「そういう関係」というのは、昨夜、いや明け方聞いた単語だ。

 朝方バーを出ると、上がりかけた雨が霧のようになって細くかすかに降っていた。店の前から少し離れた角に在る、ゆっくり点滅する看板の下で亜希を引き寄せ、背に腕を回した。顔を寄せる裕一郎に、亜希が小さく「あッ」と声を発し、そして「北嶋さん、私たち・・・」と言いかけたと思う。続きを言おうとするそのくちびるを唇で塞いでいた。夢のシーンを再現しているような浮遊感に泳いだまま、亜希を支え抱えるようにして歩いた。二人は無言だった。                                                                                                                                                         目的の建物の前まで来たところで亜希が言った。                                                                                                                                         「北嶋さん、私たちはそういう関係ではないですよね」                                                                                                                                即答する気は無かったのに、「・・・。そうやな、違うと思う」と答えた。                                                                                                                                                                                                                                               一呼吸置いて、亜希が返そうとする。その間合いが永く思えた。裕一郎もその僅かの時間に多くのことを考えたのだ。「いや、そういう関係にしよう」と言えばどうなのか。あるいは無言で強引に入って行こうとすればどうなんだ、と。言葉を呑んで発するに至らない亜希の向こうに高志を見たのだ。いや高志ではなく、増幅して言えば男との関係を掴みあぐねて立ち尽くす魂を見たのだ。亜希が返した。                                                                                                       「私もそう思います」                                                                                                                                                                                         肩に回していた腕を放し、ホテルの前からUターンしたのだ。放した腕がネオンに照らされて赤くなったり青くなったりしていて滑稽だった。                                                                                                      並んで歩いた。霧状の夜がゆっくりと明けて行く。                                                                                                                    「私、大胆に恥かしさを棄てて言いますよ」                                                                                                                                                                    「ええよ、言うてみて」                                                                                                                                              「北嶋さんが、永く独りで暮していて女の人を欲しいと思う時があるように、私だって好意を抱く男に強く抱きしめられたいと思ったり、男の肌の温もりを恋しく思ったりする生々しい人間です。私もう三十ですよ。・・・ああ、こんなこと言えなかったのに北嶋さんには言えるんです。」                                                                                                                         「聞かせてもらいますよ」                                                                                                      「今ここで北嶋さんにもたれては、知る人の無い沖縄へ独り来た意味が崩れると言うか・・・」

 我に返ると、黒川とヒロちゃんが笑っていた。亜希も一緒に会話に入ったのか笑っている。                                                                                                          どういう会話が交わされたのか、聞きそびれた。聞いてみたい。                                                                                                                     店頭と店内にはオープン祝いの花が、奮発したのだろう比嘉からの豪華なものをはじめいくつもある。亜希がその花たちを配置した。いくつかは、黒川の指示で巧みに商品を活用してある。花と商品を同時に活かすわけか。その中で、花の一時的な勢いに負けるはずのない大皿がひと際力強い。                                                                                                                   黒川宅にあったのを持ち込んだ衝立の裏に配置した事務机に、新聞が読みかけ状態で置いてあった。 手に取ると文化面にギャラリーじねんが出ていた。黒川が寄って来て「まあまあの記事ではあるな」と黒川流の比嘉への感謝を表現する。こき下ろさないのが最大の評価であり感謝なのだ。記事は、店内を背景に黒川が写っているカラー写真付きのもので、取材の時に聞かされたコピーのままだった。「陶芸を通じた、沖縄とヤマトの交流、相互発信の砦」と見出しがあり、紹介記事は「大いに期待される」と結んであった。新聞で見る黒川は一段と学者っぽく絵になるから不思議だ。 

                                                                                                                                                                                                        

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