歌遊泳: カラオケ画像に罪はないが・・・
【あるカラオケ画像】
不定期で帰阪すると、しばしばカラオケへ行く。友人とだったり女房とだったりするのだが、これが中々心身に良い(と思っている)。 先月、カラオケの背景画像に苛立ってしまった。まあ、聞いてくれ。 元々、カラオケの画像ごとき(?)に怒っても始まらないし、よく観ていると「さっき出た画像やなぁ」といういわゆる「使い回し」もあるがこれはご愛嬌、しかも実は誰もよくは観ていない。 歌い手本人が登場するパターンがあったり、まぁまぁ歌にマッチしていると思える画もあり、普段は気にも留めず見過ごして来た。
先月、同行者がある演歌を入力した。作詞者が敬愛する阿久悠ということもあるし、八代亜紀の最高作と思ってもいるので、その歌を聴きながら珍しく画像をシッカリ観た。 都会の若いカップルだ。たぶんホワイト・カラーだろう男とOLの恋物語風の画だ。今風のファッションの男女だ。雨の舗道で何かの諍いからか、プイと去ってゆく女。後日、別れを悔やんでか男を思い出している風。男の職業と雨との関係も、女の不運やうらぶれた飲食街も、つまりはこの歌の核心がアッケラカンと捨象されている。 ドンピシャの画像を配置しろと言いたいのではない。むしろ、画は「そのまま」でない方がいい。 けれど、歌の世界を、今日的に今風に、ホワイト・カラー価値観と21世紀企業社会風土を色濃く投影した映像で包囲しては、唄う青年男女の想像力・構想力・未来思考力を奪ってしまふぞ。 観ているうちに「苛立ち」に似た想いが込み上げてきた。 雨が降ればこの男の仕事は中止で、この女の「いい人」はやって来ることも出来るのだ。 男と女の永い月日には「雨」が差配する男女の機微が積もってもいる。 女が唄うのは、インチキ画像を受容れる青年男女が生きる21世紀が棄ててしまった物ども・事ども総体への「粘情」であり、棄てて悔いない世情へのこの男と自分の身に染み付き・覚えている重さを根拠とした「異論」なのだ。
七〇年代末前後に、阿久悠が「消えゆく」ものたちへの限りない哀切を込めて唄い上げた一連の「演歌」の真骨頂を、件の画像が嘲笑っているのなら、ワシはド演歌を唄い続けることで21世紀世情と非和解でいよう。 ちなみに、雨が降れば仕事は中止 の職業をいくつか挙げてみよう。 *外部左官 *瓦職人 *生コン打設 *外部大工 *外部塗装 *外部ガラス *外部コーキング *造園業 *植木職人 *テント屋 *看板屋 *蜂蜜採取 *河岸の荷揚(強雨) *第三世界の青空教室の教師・・・・・
画像の社会観を易々と受容れる風土が、青年男女を「ひとつ」の価値観・就労観・職業観に「統合」して向かわせようとする「意志」と無縁ではないと思うのは、いささか過剰反応ではあろう。 けれども、TPPというアメリカン・スタンダード強迫への抵抗線には、こんなことに敏感である感性もそれを支える力のひとつになると思えてならない。
【雨の慕情】 作詞:阿久悠
心が忘れたあのひとも 膝が重さを覚えてる 長い月日の膝まくら 煙草プカリとふかしてた 憎い恋しい 憎い恋しい めぐりめぐって 今は恋しい
雨々ふれふれもっとふれ 私のいい人つれて来い 雨々ふれふれもっとふれ 私のいい人つれて来い
一人で覚えた手料理を なぜか味見がさせたくて すきまだらけのテーブルを 皿でうずめている私 きらい逢いたい きらい逢いたい くもり空なら いつも逢いたい
雨々ふれふれもっとふれ 私のいい人つれて来い 雨々ふれふれもっとふれ 私のいい人つれて来い