ぼやき: 芸能ニュースに興味は無いが・・・(紳助事件雑感)

行列のできる法律相談所 先生方の無恥

島田紳助の突然の引退も、その理由の真偽も、裏事情も「芸能オタク」ではないぼくの知るところではない。                                                                                                  島田の「思い上がったような」日頃の言動と、数年前の女性マネージャー助手を殴打した事件の処理と謹慎と早期の復帰に至る経過への、「不愉快な」思いだけが強く刻まれている。まぁ、それはどうでもいいのだが、今回の事件には想うところあって、芸能ネタに言及させてもらう。                                                                                  10年近く続いていた『行列のできる法律相談所』にご出演の先生方、初期に出演した丸山和也先生、橋下徹先生、北村晴男先生などの、事件へのコメントのことだ。                                                                                                                                                                                                               同情や擁護に彩られたコメントは、友人知人としての感情としては理解できるし、人間:島田を知らぬぼくが異論を吐く立場にも無い。                                                                                                          気になるのは、行列ができると自負(?)する先生方が、島田が事件の解決策を求めてその行列に並ぶのではなく、別の方法を選択したことにほとんど言及せず、異を唱えることも恥じることもない、その姿勢だ。弁護士に依頼せよと言いたいのでも、先生方が「私に任せなさい」と言わなかったことを責めたいのでもない。元々、法の支配の外側(?)の出来事だとして、法律家の取り扱いには馴染まないと、島田と先生方の間に暗黙の了解があったのだろうか。だが、先生方は、まずもって自らの非力・無力・不信頼を恥じてしかるべきだと思うのだ。TVニュースで見る限り、丸山和也先生だけが、弁護士に「相談してくれなかった」事実に言及して、言葉は忘れたが多少はその「不明」を恥じて述べていた。                                                                                                                                                                                                翻って思うに、ぼくが労働運動界などの友人・知人から聞いた話では、労働争議などで現場の彼我の力関係、組合メンバーの意識、組合財政力や世代や家族構成などを無視して、やたら「原則的」「教科書的」「戦闘的」な説を唱える先生、反対にやたら「妥協的」「なあなあ的」「早期決着」を主張する先生が、居るという。 自身の事務所の「存亡」を賭けて案件に臨むことなど無かったとしても、争議を担う個々人の存亡を「賭け」る意思・気概への想像力は持って欲しい、と聞かされた。大きな金が動いた夫婦間案件で、親しい弁護士に儀式的最終局面にほんの数日動いてもらったら、「得た利益のン%は規定通り」とビックリする額を請求され、弁護士報酬規定はそうなのだろうが、それまでの関係性に照らして納得しづらかった、と憤慨している女友達も居た。当事者性と当事者性への想像力の問題だろう。                                                                                         ぼくらが、例えば友人・知人の労苦や成果や悲惨に出遭う時、その想像力を維持できるだろうか? 実のところ、それは難しいことだ。                                                                                                                                他者への評価・批評は、実は己を振り返ることに違いない。ささやかな絵なら絵、写真なら写真、文章なら文章、歌なら歌などの作品、あるいは不祥事や祝事 への賛意も反論も糾弾も、自身を切開することを伴って己の思想を晒す姿勢が含まれていなければ、作者に届くことは無い。というのが、ぼくの感想だ。                                                                                                                                                               ***と尾崎豊の、文字面だけを拾えば似ているかもしれないと思える、ある二つの歌が、実は全く違っているなぁ~、と強く思い直したことがある。                                                                                                                               想像力希薄の極みだった、と思っている。

                                                                

                                                                                                                                                                                                 

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