Archive for 12月, 2010
連載 26: 『じねん 傘寿の祭り』 三、タルト (4)
三、タルト ④
誰かが言った自虐格言にこうある。「社会を変えようとした。何も変わらなかった。時が過ぎ、変わったのは自分だった」、と。 誰にとっても身に覚えある言葉だとしても、あの時代の若い女の多くが職場という男社会に放り出され、美枝子のような悪戦に耐え踏ん張り、女は少なくとも男よりは何かを変えたのかもしれない。それが、労働市場の要請か、日本的経営の一部を表面的であれ変更する方が得策だとの経営者団体の労務政策上のことか、そこは学者に聞いてみよう。 けれど、裕一郎は、それが女自身の係わりもなく、ただ時代から無償で与えられたのだとはとうてい思えないのだ。 男と伍すこととなる職場で、女は、女性性を棄てるというか「男」になろうとしてもがく道を選ぶのか、それとも男が求める女性性を表面上受け容れてことを進めようとし、結果そのことに縛られて旧来の「おんな」へと沈む道を選ぶのか・・・、そういう二者択一を迫られて来たと思う。 だが、その課題に真摯に向き合おうとする女であればあるほど、その「もがく」と「沈む」のいずれの先にも「壊れ」を予感して立ち尽くしたのだ。いずれでもない、女が女のまま男と伍すとでもいうような道・・・、それは至難のことだと想う。女性学者の本にあった通り、それは、女「だけ」があるいは男だけが変わって済むことではなく「関係性」の構造を問うことであり、だから、男との共同作業によってしか果たされないものではないか・・・?。 だが、自分も、いや周りの女も、自分の仕事や会社や生活で、実はそこのところは今も保留事項なのだ。 裕一郎には、部外者ゆえに評論家のように想って来たことがある。 ひょっとしたら七〇年代の初め、世間を震撼させ若者たちを闘いから遠ざける結果を招いたと言われる事件の核心は、女性性の主張と受容を自他に開いて行く回路を持てなかった若い男女たち自身の、「もがき」と「沈み」から「壊れ」に至った過程ではなかったか?と。 それらを超えてなお、ある学者があの時代を「68年革命」とプラス評価する最も明らかな現象は、その後の女たちの生き様の中にあるのではないか、と。 美枝子は当時、卒業以来の百貨店勤務経験への体感や直感によって、その手前まで来ていたのではないか、七七年「恋に落ち」て黒川に同行してしまうまでは・・・と思った。黒川が、美枝子の抱える「手前」観を共有できたとはとうてい思えないが、我が身を振り返れば人のことは言えない。どのみち、明日には再会出来る・・・。 裕一郎は、亜希が立っている処と、美枝子たちが来た道を思った。 変わらないものと、変わったものがあるはずだ。 それは自然現象ではないはずだ。
裕一郎は、時代というものの重さと世代間障壁という業を背負った出逢いだなあと思いながら、黒川と美枝子の年齢差二十よりさらに十多い、三十歳違いの亜希に会いたいと願う己はどう見えるのだろうと思って苦笑った。それを見て美枝子が軽笑いながら言う。 「フフフ、可笑しいでしょ?私たちの出逢い。笑ってやってよ」 「いえ、ええ出逢いやないですか・・・。そんな中年、カッコええと思いますよ」 「北嶋さん、あなただから言うけど・・・」 「あなただから、って?」 「北嶋さん、あなた浪速大学でしょ。私、言わなかったけど、何度も浪大へ行ったのよ」 「へぇ~、そうなんですか?いつ?」 「私、浪速大学に彼氏が居たのよね。初めての男よ。いい男だった。で、六八年と六九年に何回も浪大に行ってたの」 「彼って誰?」 「ナイショ。ヒミツ。あなた方のリーダーだったんじゃない? マイク握って演説してたわ」 リーダーといえば、AかBか高志だろう。Aは失意の内に姿を消し、Bは今関西で地方議員をしていて、昔からよく知っている。いずれも有り得ない。美枝子の思い違いではないか。 「で、その彼とは?」 「私、七〇年に卒業してさっき言ったここの百貨店に勤めたの。彼は大学に残ったというか党派活動を続けたというか・・・」 七〇年卒業なら六六年入学か・・・。自分や高志と同じ四七年生まれだ。 「時々やってきてはカンパせびっていたけど、二年も経たないうちに来なくなったのよ」 やはりAでもBでも高志でもなかった。 「いい男過ぎて、モテモテだった。人から聞いた話では、逆玉に乗って、いま音信不通だけど」 浪速大学のリーダーにその種の「いい男」はいない。断言する。 「考えてみるとまぁその男がずうっと私の中に棲んでいたせいかもね、叔父の誘いにも乗らず、勤めでもここだとは思えずに男も目に入らなかったのは・・・。とにかくその彼の時以来の電気が走ったのよね、晶子の気分だった」 「ん、あきこ?」
連載 25: 『じねん 傘寿の祭り』 三、 タルト (3)
三、タルト ③
「七〇年に卒業してすぐ、ほら<いよてつ>の<まつやまし駅>にくっ付いてる百貨店あるでしょ、あそこに勤めたのよ。翌年改築オープンということでもう工事始まってた。その年は総合職を多く取ったのね、もちろん女性もよ。実際、すごい勢いだったのよ。数年後、四国一だと豪語するんだけど事実です。21世紀になって関連会社への貸付総額が年間売上を超えるという異常財務体質から潰れて、全国の店と同様あそこも他の大手百貨店に引き取られたけど・・・」 百貨店では周りの男性社員は社内派閥に絡め取られ、査定に怯え出世を求めて汲々としている。京都の四年制女子大で、「全共闘」の影響も受けたと何度も口にする美枝子の「もっと、違う何かがあるはずだ」と思い続けた感性に、彼らの言動が響くことはなかった。「勤めびとの勤勉や処世を、どこかで私、せせら笑っていたのね、分かりもせず…。自分だって同じ働き方なのにねぇ」
女性社員はお相手を探すことしか考えていない。地元名士の子女が沢山居たけど、彼女たちはさっさと相手を見つけて辞めて行くか、親絡みで元々決まっていた相手と結婚するまでの腰掛から降りては次々と消えて行った。「寿退社という私に言わせりゃ不名誉なネイミングを、本人たちが喜んで使っていた時代よ。今もそうだけど・・・」 ここがその場所ではないとしても、探せばきっと仕事の中に自分を表現できる世界があるはずだと思いながら、職場から一歩も出られなかった。性格なのか、与えられた仕事をキチンと果たさないと気がすまなかった。「やっぱり女だな」なんていう陰口を絶対言わせたくなかった。「その分忙しくて、ほんとよく働いたと思うわ」。七七年夏、三十になっていた。勤続八年目の「お局様ね」。私、店の中枢って言うかまあ総合職でしょ、男の「できるもんか」という本音と、女の「いい気になって」という妬みに囲まれて、出口は見えず入口には戻れず焦っていた。男と居たい結婚したいというのではなく、ここで上り詰めてやろうというのでもない。 「このままでは引き下がれない。そんな感じよ。解かります?」 「ちょっとは、解かるつもりです」 「97年に、東電エリートOL殺人事件というのがあったでしょ、憶えてる? あの女性の心の闇にはいろんな要素があると思うけど、何か解かる気がするんです。変ですか? 昼間の職場の鬱屈を、夜街角に立って客を取り女王様になって晴らすような壊れた心理。そんなのも働いていたような・・・。大企業の、職場の男支配、今はどうなんです?」 叔父からの勧めに乗ろうかとも考えた。独創的な温泉を作る・・・、そんな空想もした。けれどずるずる返事を延ばしていた。 そして夏の終わり、黒川に逢ってしまった。展示会の準備と開催・後仕舞いをいっしょにしたのよ。黒川には博多に妻子があると最初から知っていた。作品を観て作家名をピタリと当てる。焼物を見て黒川が言う価格はドンピシャリ。部で発行するパンフレットの間違いを正確に指摘する。焼物の贋作を言い当てて、部長が業者に突っ返し会社の被害を食い止めたこともある。だが、飄々としていて自慢しない。若い社員からも好かれ、毎晩誰彼を引き連れて飲み歩いていた。所帯じみていない、年齢から言えば当然なのだが何でもよく知っている、夢を語り「業界の異端児」と呼ばれるだけあって、いわゆる「男気」もある。経済力もたぶんありそうだ。もう眩しかったのよ。普通の男なら誰もが失っているものを持ち続けている、当時の私にはそう見えたのね。「だってそういう男、中々いないわよ」。 それが、生きるということ、働くということの「自己責任」を放棄した者だけが味わうことのできる、麻薬のように止められない至福のひと時なのだと、今では承知している。その「ひと時」には「厖大な請求書」がやがて廻って来ることも・・・。 けれど、その秋、「恋に落ちたのよ」。 いっしょに汗かいて仕切った展示即売会の成功を、上から褒められ達成感に浸っていたと思う。博多へ帰る黒川を見送るはずの駅で、「祭り」の終わりを受け容れられない子供みたいに、私の方から、黒川の袖口を摘まんで「もう一日いらっしゃれば」と声を掛けてしまった。
連載 24: 『じねん 傘寿の祭り』 三、 タルト (2)
三、タルト ②
「いや、ぼくはギャラリー開設のお手伝いと、少々の集金だと聞いてますが」 「アハハハッ、ハ・・・集金業務? 集金って、売上げも無いのに何が集金なのよ。叩き売りはいつも現金売りですよ、それも小物ばかり。ああ、そうか解った。それって、七つある不良債権だわ。沖縄に五つ、関西に二つ。自業自得よ。売ったのか預けたのか曖昧な大物商品が、タチの悪い連中に拉致されてるわね。その人たち、もう売っ払らかってお金に換えてるかもね。品物を返すのかお金を用意するのかと迫ればいいのに、放ったらかして来たのよ」 「へぇ~、そりゃ大変や。けど何で沖縄が多いんです?」 「あなた、こう見えても大阪では私が居たのよ」 「失礼! そうでしたか。そうかそうか、そうやったですね」 「関西二つは大阪に居たときのもので、私も知ってます。一つは芦屋の豪邸の自称資産家のオバサンよ。早くしないと逝っちゃうわよ。あとの一つはほら、私たちの送別会にも来ていた若い教師夫婦よ」 「へぇ~そうなんですか、あちゃちゃ・・・。あの夜送別会の後、深夜に駅の屋台ラーメンで見かけた人かなあ」 「そうそう、ラーメン食べに行くって言ってたわ。その夫婦よ」 「いい感じの人じゃないですか」 「知ってる? 陶芸家の知念太陽。彼の立派な箱付き十五万の品を二点、三十万なんだけど、その後どんどん値が上がってね。今、たぶん倍以上でしょうよ。あの夫婦はまだ手許に持ってるでしょう。もっと上がると踏んでるのは『ご自由に!』なんですけど、購入代金は売ってからというのは若い教師らしくもない。まぁ、どっちもどっちなんだけど」 「難儀ですね。で沖縄の分は?」 「大阪に居た頃、と言っても三年くらい前からなんだけど、沖縄へは時々行ってたのよね、黒川。大きい展示会してまぁ最初は意外によく売れたのよ。調子に乗って二つが未回収。私が居なくなってからも増えてるらしい。この中には、私が絶対売ってはダメと言っていた大皿二点も含まれてる。あれ、二点で百五十万よ。さらに増えて五件だそうよ。」 美枝子はその情報を黒川と取引を続けている焼物作家の妻から得ていた。その作家自身も預けた作品を第三者に渡され、取り戻すのに苦労したらしい。物の遣り取りがズサン極まりないとのことだった。未回収は関西が計百万、沖縄の分はひょっとしたら計三百万近くあるのではないかという。回収できるのだろうか。なるほど、任務の実態が見えて来る。
美枝子が黒川に出会ったのは、入社七年目の美枝子二十九歳、黒川四十九歳の七六年秋だ。黒川は、年に二度美枝子が勤める松山の百貨店での展示会を主宰していた。 博多で店を張る黒川は、博多以外に熊本・鹿児島・広島・大阪そしてこの松山に手を延ばし、作家を抱き込む才に長けていたのか、難攻不落と言われていた陶芸家や画家を引きずり出し業界の異端児的存在だった。老舗百貨店だけを相手にする作戦で、たぶん相当な裏金をばら撒いていたのではないか? 黒川はもちろんその年の秋にもやって来た。黒川の噂を聞かされてはいたが、異動で外商部から催事・展示会担当になって半年、新しい部署での仕事を覚えることに必死だった時期の美枝子には、絵画・焼物界の裏技師、業界の変り種といった印象しか残らなかった。が、今でこそ「大言壮語」「夢想小僧」と思えるその言動が、「博学多識」「万年青年」と映り、やんちゃな大学教授のように思えたことは否定できない。 翌七七年春、中学校長をしていた父親が病気退職した。母親から叔父の温泉旅館を手伝わないか?と勧められた。先方には小学生の息子が居るが、将来拡張の予定もあり、それは姉妹館にして美枝子に渡す、だから従兄弟を補佐してくれ。叔父は、百貨店の外商部でバリバリ働いているように見える美枝子に目をつけたのだ。それまで何度もお見合いなど断って来ていたので、「母は母で、そうすることで結婚もついてくるような気がしてたんでしょ」 叔父は、身内から人材を探していた。親から継いだ旅館の共同経営を、よく働き頼もしい姉の娘に、と考えてくれたのだと思う。 老舗にありがちな話だ。
歌遊泳: 洋モノが嫌いなのではありません
日本の歌謡曲ばかり並べていたら「洋モノが嫌いなの?」と質問が来ました。決してそうではありません! 歌謡の歌詞を探っていたので、必然的に(日本語しか解からないので)、そうなったまで・・・。 洋モノで、ちょい好きな歌・記憶に残る歌・何度も聴きたい歌・・・、戦後洋モノ曲を挙げてみます。 残念ながら YouTube に欲しいものが少ないのですが・・・。アメリカ過多で困ります。
『Blue Canary』 http://www.youtube.com/watch?v=REPqry3tBUE Dinah Shore 『Tennessee Waltz』 http://www.youtube.com/watch?v=INRljTpsKTM&feature=fvst Patti Page 『Sinnò me moro』 http://www.youtube.com/watch?v=qYG9kJB5HmY&feature=related Alida Chelli 『Love Me Tender』 http://www.youtube.com/watch?v=HZBUb0ElnNY Elvis Presley 『Moon River』 http://www.youtube.com/watch?v=flm4xcOyiCo&feature=related Andy Williams 『Hey Jude』 http://www.youtube.com/watch?v=GEKgYKpEJ3o&feature=fvst The Beatles 『Imagine』 http://www.youtube.com/watch?v=2xB4dbdNSXY John Lennon 『Raindrops Keep Fallin’on My Head』 http://www.youtube.com/watch?v=hUVpYENQJMg B.J.Thomas 『Take Me Home、Country Roads』 http://www.youtube.com/watch?v=C7C9nuLED3o Olivia Newton-John 『Sailing』 http://www.youtube.com/watch?v=Bpbuqh12oj4 Rod Stewart 『Casablanca』 http://www.youtube.com/watch?v=Zm-QR-3AdIY Bertie Higgins
『Hey Jude』 68年。ワルシャワ条約機構軍 チェコ侵攻。 映画『存在の耐えられない軽さ』(88年、米、監督:フィリップ・カウフマン)。 http://www.youtube.com/watch?v=KYcrJ7rtWAA 侵攻した機構軍(実質ソ連軍)戦車を包囲する非武装のプラハ市民。
この歌を唄い、侵攻前の「プラハの春」を象徴する歌に押し上げた立役者、 プラハの歌姫:マルタ・クビショバのドキュメントを、20世紀末(?)に観た。 そのお宝ビデオは、しっかり保管している。 映画にもこの歌が繰り返し流れていた。
ぼくには、侵攻軍戦車の重低音と 『Hey Jude』 はセットで記憶されている。
連載 23: 『じねん 傘寿の祭り』 三、 タルト (1)
三、タルト ①
高志が八二年に「散って多くの組合を作ろう」と去った後、残された者たちで続けた会社が順調だった90年代初めバブル期、裕一郎はこの街で全国ファミレス・チェーン店の内装工事を手がけたことがある。施工最終日に大工や設備屋といっしょに坊ちゃんの湯とも呼ばれている「道後温泉本館」へ来たのだ。 いい湯だった。十五年以上になるのか…。 明日那覇へ行く。その前に黒川美枝子に会っておきたかった。美枝子と約束した二時半まで一時間ある。美枝子が指定した喫茶店を探すより先に、その「道後温泉本館」前に立って建物を眺めていた。威厳と庶民性を兼ね備えた堂々として親しみの持てる建物だ。あとで湯浴みしよう・・・。 裕一郎は温泉近くの銘菓店で、黒川とユウくんへの土産にと、名物のタルトを買った。いつか思ったことと同じことを思っていた。餡を挟んで巻いたロール・ケーキを何故タルトと呼ぶのだろう、と。 同時に、あの親子が浮かんだ。二人は那覇で一体どんな生活をしているのか。ユウくんは甘い物のひとつでも自由に喰っているだろうか・・・。黒川送別会のあと駅前の居酒屋で亜希と呑んだ日に気付いた通り、亜希は高志と道後松山に来たのだ・・・。気になることへのいくつかの感情が混濁して形を全く変えて、女性店員に名前の由来を問い質そうという奇妙な衝動として育っていた。自分でも整理できない、その交じり合った感情の正体がもちろん今は解る。ショウ・ケースまで戻って訊いた。ぎこちなく攻撃的だった。 「これ、なんでタルトと言うんです? タルト言うたら、お椀状の硬い焼き菓子にクリームやらフルーツやらが乗ってるあれでしょ? これが、なんでタルト? 教えてくれませんか?」 わざわざ戻って来て責めるように訊くという初老オヤジの変則詰問に、店員は一瞬キョトンとしていたが、すぐに返して来た。同じ質問には慣れているのだろう。声が大きかったのか、客の何人かが振り返るのが分かった。 「タルトはフランスのお菓子で確かに仰る通りのものです。一方これは、カステラと同じでポルトガル由来だと言われています。ポルトガルで簡単なスポンジ・ケーキをタルトと呼ぶという説もありますが、餡を入れてロールするこれは全く当地の独創です。まぁスパゲティのナポリタンみたいなことですかね。ジャパニーズ・オリジナル・メニュウ?ですか。ウフフ」 解ったような解らないような話だった。「説[も]あります」程度で、僭称するのか!何が「ウフフ」だ! 裕一郎は苛立っていた。 菓子の名の由来を知ったところで、消えた亜希を巡る謎が解ける訳ではない。 通りを歩きながら、箱とは別に用意させた一口大に切ったタルトを久し振りに口に運んでみた。袋の中の二箱の内一箱は美枝子に渡そう。これなら、地元だから飽きているわとは言わないだろう。
今日は二時から四時まで休憩のシフト、二時半から三時半過ぎまでならと言っていた美枝子は、約束の十分前に喫茶店にやって来た。仕事着だろう和服姿が板に付いている。半年前に比べやつれたように見える。差し出したタルトを喜んで受取ってくれた。 「これ大好きなんですよ、私。そうだこの箱二本入りだから、一本あっちへも持って行ってやって下さいな」 「いえ、ユウくんの分はここに」と袋を指した。 裕一郎は思う。我が那覇行きを了解しているのだ、この人は・・・と。 「ひろしは甘い物好きですから、食べ過ぎないようにしないと・・・。黒川は言われるままに何でも与えてるんだろうなぁ」 「もしそうでしたら、ぼくが行ったら是正するよう進言しましょう」 「出来る? ひろしのことには口出しさせないわよ黒川。母親の私でもいつも邪魔されたんだから・・・。聞き容れることが愛情だと思い込んでるのよ」 美枝子は黒川の父親振りを「エゴなのよ」と切り捨てて、続けた。 「北嶋さん、物好きねぇ。大変よ、黒川の性格、経済状態、家事。プラス黒川が言うビジネスという名の在庫叩き売り、お終いはもう時間の問題なのよ。在庫はもう底だと思う。そこへ、ひろしの生活のこと。結局、あれもこれも背負い込むことになるわよ」
連載 22: 『じねん 傘寿の祭り』 二、ふれんち・とーすと (9)
二、ふれんち・とーすと ⑨
オバサンのおかずは美味かった。焦げ目が付いた揚げが入った特製チャンプルウとでも言うようなものと、ニンジンの細切りを炒めて玉子でとじたものだった。ニラとツナ缶が入っていたように思う。シリシリーというらしい。裕一郎が、冷蔵庫にあった大根を使って味噌汁を加えた。充分だ。 食後、黒川から売掛金の実態を聞いた。美枝子から聞いていた内容とほとんど同じだった。 細川への大皿を含めて、半分近く受領書というものがない。ノートに一覧はあるのだが、特に督促はしていないという。売掛金は、何と総額四百二十五万円に上った。それはあくまでも黒川の側の理解だ。半数は、価格について合意したという客観的証拠が無い。聞けば、永い付き合いでお互い価格で揉めたことはない。同業者同士の信頼だよと言う。受領書があるものが一般客なのか。察するに、業者間で価格に巾を持たせて一時委託する、売れれば売り手が利益を確保した上で残りを支払う。そういう一種の委託販売ではないか? いや委託じゃない売ったのだ、と言い張るので論争は控えた。仕方が無い。まず売掛金を順次、確定して行くしかない。大口の細川の分を回収することに当面集中するか・・・。細川用の未納金支払誓約書を、金額欄を空けて作った。
翌朝、再び「パン食」なのだが、昨夜黒川が買って来たパンで「パン食」を作った。 前夜、風呂上りのユウくんに食べたいメニュウを聞き出していたのだ。冷蔵庫に購入日シールが貼ってある玉子・牛乳、野菜室にキャベツ・ニンジン・未開封のハムなどがあった。何なりとパン・メニュウは出来るだろう。訊くと、ユウくんは意外なものを希望したのだった。 ケーキみたいなパン。熱い甘いやつ。 玉子・牛乳・砂糖、塩少々。前夜から充分に浸したものを焼いた。ユウくんが「熱ちち」と言いながら美味そうに食べている。 「これの名前分かる?」 「う~ん、何だったかなあ」 「ヒント! ふ が付く名前」 「ふれんち・とーすと!」 「ピンポン!」 現物を目の前にして思い出したのだろうか答に辿り着く時間が素早かった。モグモグ食べていたユウくんがしみじみとした表情で言う。 「懐かしいねぇ~」 突然の言葉に何も返せなかった。 懐かしい・・・何という響きだろう、何という人間の本源的な感情だろう。骨身と臓腑に居座っているものが、込み上げて来る時の感情だ。 その光景 その香り その場の音 その雰囲気 その時の気分、時と場を共有した人びと・・・、それらが明確にイメージされ、かつその対象との蜜月を生きた日々の己が肯定的に自覚されている。その全体を、今ただ今、想起できるその心の在り様の中にこそ、誰も奪うことの出来ないものとして「懐かしい」は棲んでいる。そのどれが欠けても「懐かしい」は成立しない。 ユウくんは、かつて食べたフレンチ・トーストが単に美味かったと懐かしいのだと言っているのではない。 それを食べた時間を、その黄金の記憶を「懐かしい」と表現しているのだ。 裕一郎は思うのだ、自分にはどんな「懐かしい」が残っているのだろうか・・・と。 「美味いか?」そう問うのが精一杯だった。黒川が横から口を挟んで来て言う。 「朝から甘いものは、どうなのかねぇ」。全て解っているに違いない。 時にフレンチ・トーストを作ったのだろう人も、今、朝食を摂っているだろうか…。
(二章、ふれんち・とーすと 終)
連載 21: 『じねん 傘寿の祭り』 二、 ふれんち・とーすと (8)
二、ふれんち・とーすと ⑧
大宜味村の海岸沿いから山に数キロ入ったところに比嘉のアトリエは在る。数年前に行った時、彫塑も続けているので一定の広さも必要なのだと聞いた。確かに広いのだ。近隣に、陶芸家や染物の工房が点在していた。 比嘉のアトリエに向かった。二時を過ぎていて、時間も無いが高速を使えばユウくんが帰宅する六時前後には帰れそうだ。許田インターを出て海岸沿いに走った。 比嘉に会うと、黒川の大風呂敷は影を潜めていた。大阪を閉めたことを詫び、沖縄に来てから訪問も電話も出来ていないことを謝罪している。比嘉の方も「たくさん売ってもろうた恩人や」「奥さんは元気ですかの?」「子供さんは?」「次に来る時には息子を連れて来なさいや。ワシ、あの子のことはよう憶えとる」とやっている。 去年夏の、米軍ヘリ墜落の際の意外な逸話を聞くことが出来た。「第一報は黒川さんじゃった。ワシ、琉大の図書館で調べもんしとったんじゃ。携帯電話が何度も何度もブルブルとしつこう震えとる。とうとう出たらこの人やった。何人もが連絡くれてたんやが、出たときは黒川さんやった。たぶんテレビ速報の直後じゃ。すぐ、親しい院生に現場近くまで送らせた。非常線張られててなあ・・・。黒川さん礼を言います。」 これで打ち解けたのか、黒川は自分の不手際を隠しながら国際通りの物件のことまで話し、「どこかいいところご存じないですか」とやっている。何の事はない、事態を正確に把握しているではないか。 「ああ、あそこのビルなあ。あれは確か大城のビルじゃのお。店子の出入りが激しいと噂しきりじゃ。客が寄らんみたいやのぉ。店子はみな苦戦しとるんやないか。あの辺りはヤマトの観光客から銭を搾り取る場所や、あんたの商売向きやないな。まあ、ゆっくり探しなさいよ、なっ黒川さん。」 ビルの賃貸条件を詳しく伝えた。契約し手付金を払ってしまった、戻らないと思うのでそれは捨ててもこの案は白紙、今後何かと相談に乗ってやって下さい。数秒沈黙があって、比嘉が天井に響く大声で言った。 「黒川さん、急病になれや!」 黒川が目を丸くしている。裕一郎が引き継いだ。 「いや、さっきビルの事務所でもうその予告編はして来たんです。」 説明すると、比嘉は「アハハ。昔のお前さんと高志のコンビを思い出すよ。裕一郎、ワシ昔、労働組合より大阪商売人が向いとると言うたやろ。何で商売失敗したんじゃろかのぉ」と笑った。 「いや、色々ありまして。けど大阪商人が怒りますよ、そんな誤解。東京で、テレビの大阪お笑いものが大阪だと言うのと同じような先入観でしょ。まじめな商人に悪いですよ。今回の芝居が不動産契約に通用しないように、比嘉さんが評価してくれた高志・裕一郎のハッタリ商いも、大阪のまともな商人に見破られた・・・。そういうことです」 「まぁまぁ、そう卑下せんでもええ。お前さんらの会社がハッタリやったとは思うとらんぞ。高志が社長、お前さんが専務してた初期の悪戦苦闘をワシは見とるがな・・・。とにかく急病の線でやってみろや。手付金はたぶん戻ってくるやろ。どないもならんかったら連絡くれ、ビルのオーナー大城の息子、専務じゃが、奴はワシの高校の同級生じゃ。」
明日、ビル事務所へ行くしかない。タロウの大皿を二点買ったまま代金を支払わないという細川にも、近々会うしかない。重い気分で運転している横で、黒川が鼾をかいて眠っていた。 こらっ!ジジイ! 眠っている場合か! 黒川宅には軽自動車が停められるスペースがある。駐車スペースの錆びて重いスライド・ドアを必死に開けていると、ユウくんが帰って来た。長時間バス通園からの帰還だが、疲れた様子もなく元気に「ただいまあ」と言う。六時少し前だった。 食事のことは忘れていた。あわてて黒川に訊くと 「う~ん、売掛金のことなど君にも少し知っておいて欲しいので、今夜はミーティングをと考えている。食堂に行きたいが連夜というのはいただけない。今夜は作るの中止して、ぼくが食堂のオバサンに頼んでおかずを買ってくるので、君はメシを炊いてくれるかね」 「いいですよ。そうだ黒川さん、明日朝のパン、ついでに近くで買って来て下さいね。」 米を研ぎながら思った。来いよ、来いよ、と誘っていた時、黒川は「メシ? もちろん、ぼくがこさえているさ」と言った。半ば疑いながら感心したのだが、今朝の「パン食」の意味が、パンのみとジャム又は漬物だったように、あれは「米はぼくが炊いている」だったに違いない。笑ってしまった。 確かに、「メシをこさえている」のだ。
連載⑳: 『じねん 傘寿の祭り』 二、 ふれんち・とーすと (7)
二、ふれんち・とーすと ⑦
後に分かったことだが、玲子、高志の妻玲子が、比嘉の彫塑や版画以上に彼の詩のファンで、「比嘉さんに場所を提供してあげてよ」「ええなあ、子供連れて比嘉さんの泥こね手伝いに行こうかな」と羨むように望んでいたという。それを知った当時、玲子ならそう言うだろうと納得した。 受け容れを決定した三日後、比嘉は泥こねのトロ箱を持ち込み、頭にバンダナを巻いて早速下地板の製作から始めた。 垂木を軸組みしてコンパネ=厚いベニヤを、ビス縫いして行く。レリーフと言ってもこういう下仕事があるのだ、銭なし弟子なしの身であればそれを作家自らするのか・・・、と感心して見ていた。下地が組み上がった頃には、組合のメンバーと比嘉との間に「いっしょにやってみるか」という連帯感のようなものが芽生え、とうとう作業を手伝うことになった。製作ノートのスケッチには、レリーフが一部大きく立体に、つまり凸状になる構想で、その部分は塑材を支える金属の骨が要る。立体で飛び出すのは米軍の「銃剣とブルドーザー」による基地建設用地強制収用の戦車の前で竦む沖縄の子や、GHQ支給のミルクのガロン缶を抱える東京の子とその缶などだった。沖縄ー東京での、子供たちの目に映る敗戦直後の光景の落差を示していた。作品タイトルは『子供たちの戦後』だったと記憶している。何でも、教員組合からの依頼で、新しく完成する会館のロビー壁面に設置されるという。幸いこっちは金属加工業だ。比嘉が求める骨も容易く作れる。助手の希望者が多く困ったが、話し合いの結果若い久保君に決まった。久保君は数日後の比嘉が来る日に、奥さんを連れてきて比嘉に紹介し、買ってきた比嘉の版画詩集にサインをもらっていた。
やがて、比嘉とは呑み仲間となって行く。裕一郎!と呼び捨てる語りは信頼と親交の証だと裕一郎は思うことにしているが、下の名を敬称抜きで呼ぶのは比嘉にとっては普通なのだった。製作の五ヶ月間はもちろん、その後も今日に至るまで比嘉は争議中の占拠中社屋の、その工房の日々を大切に思ってくれていた。週に一度か二度だったが、五ヶ月もの間、勤務の関係で主として昼間に通ってきた比嘉は、組合の実情もよく見ていた。 「裕一郎、お前さんと高志は絶妙のコンビじゃ。ワシの受け容れを決めた時も工夫したんじゃろ?」 「工夫?」 「いや、手伝ってくれてる久保君に聞いたよ。いつものように片方が異論を吐く。今回は北嶋さんが消極的意見担当で、と言うとったぞ」 「いつもそうなってしまうんですけど、それは偶然です。」 「じゃから絶妙や言うとるんじゃ。けど、周りはそう見てるし、納得もしとるんじゃ」 「そんな政治屋やないですって」 「三階の壁の落書き、覚えとるで」 「何です?」 「党ならざる者たちによる大規模叛乱と自治・・・。全部拭き取ってるのに、あれだけが遺されているように見えた。最後にある自治というのがええ。」 「ああ、あれはたぶん社長高志が書いたと思いますよ。ぼくには高志のように、党というものと絡む歴史も葛藤もありません」 「ワイ・トラップという社名の由来が、どうもワシには読み解けん。トラップというのは動物を生け捕りにする罠のことじゃが…。Y、や行の始まり音、優しい罠、やっかいな罠、ゆかいな罠、いろいろ考えたがどうも変じゃ。アルファベットで、Y-TRAP。教えてくれんか。あの落書きと通じておると直感しとるんじゃ」 「どうでしょうか・・・知りません。あれも命名者は高志です。Xトラップという、設立時に発注してくれた客先からもらったと聞きましたが・・・」 「そうかのぉ? 文字の謎々じゃろ」
冬、作品製作が終わりかけた頃、作品の前で腰掛けて、差し入れたコーヒーを飲みながら話を聞いた。比嘉は沖縄の戦後ではない「占領下」を生きた時間を語ってくれた。 比嘉は、高卒後嘉手納基地でのバイトなど転々とし、五九年米軍政下のオキナワから、琉球政府の特殊法人である琉球育英会が管轄する「国費・自費沖縄学生制度」で、パスポートを携えて関西の大学に渡航留学した。二十歳を過ぎていた。大阪北部にある沖縄県人会寮に住み九年かけて卒業した。貧乏学生が、汽車と船を乗り継いで長時間と大金をかけての往復は一苦労で、めったに帰れなかったと言い、随分努力して慣れた関西弁だが、言葉の壁などからアルバイトと言っても肉体労働や内職的な軽作業しかなく、学生生活は厳しいものだったという。 「どうじゃ、立派な大阪弁やろ」 五〇年に「琉球諸島米国民政府」(USCAR)が琉球政府という「半自治政府」を作る。USCARは立法院の同意無く法令を公布し、立法院が施行した法令の修正権を有していた。琉球政府行政主席・琉球政府裁判所長官は、六八年屋良朝苗氏が初の公選主席なるまで、USCARによる任命や間接選挙だった。 元々、米軍基地基建設は強制的な土地接収で行なわれ、地主の事前合意・適正補償などの法的基礎なく行なわれた。土地を無くした住民を、軍に関わる仕事、軍人と家族への商品・農産品・サービスの労働力として雇用することを、就業機会を提供していると言っているに過ぎない。知らなかったことが一杯だった。 比嘉は、復帰後何が変わったのか?と言い、返還後の実情も話してくれたが、「自分で考えろ」とでも言うように、口調が訴え調から穏やか調へと変わるのだった。 「まぁ、占領後ずっと去年七八年まで、車がアメリカ式に右側通行だったことに象徴されるように米軍政下やったと言うことじゃ。返還から七年、今はどうか・・・。日本人は実は知っとるんや、何故そうなっっているのかを、その何世紀にも亘る永い琉球と日本の関係史を・・・」と結んだ。もう二十五年になる。 一番印象深い言葉は今も憶えている。その後、比嘉はこう言ったのだ。 「裕一郎、お前さんらは職場を奪われ、こうやってこの職場を占拠して食うや食わずで、ここの小さな空間に居る。沖縄はまるごと奪われているんじゃ。ワシは思うんじゃが、どこかで、お前さんたちとおんなじじゃ」 比嘉はそう言ってくれたが、裕一郎は「あなたがたと、これこれで繋がっている」と言える中身も無く、ただじっと聞いていた。
連載⑲: 『じねん 傘寿の祭り』 二、 ふれんち・とーすと (6)
二、ふれんち・とーすと ⑥
「断腸の想いで売った代金なら、なおのこと早く回収しましょう」 「そうだね、それが入れば保証金払ってもお釣が来る」 「いや、それがなければ保証金払えない、でしょ。現在の持ち金はいくらあるんです?」 「君にぼくの懐具合を洗いざらい全部見せなきゃならないという法でもあるのかね?」 「いえ、細川から回収できない場合、保証金は払えるのか払えないのか、と」 「払えないよ、払えるもんか!六十九万も…。裕一郎君、値切れないかね」 「値切ったところで払えませんよね !」 「君は、人の話の腰を折る。ロマンというものを解さない野暮な男なんだねえ」 ロマンでも何でもいい、何とでも言ってくれ。契約前なら手付金はたぶん戻って来るだろう、しかし契約後では・・・。仕方がない、手付金を棄ててでも、白紙に戻すしかない。 保証金など頭になったのだろうか。家賃タダというのはどういうシステムなのか考えなかったのだろうか。在庫がどれくらい在って、店を埋める品の仕入れは・・・、常駐店員を雇うならどれだけの人件費で・・・、次々と質したい疑問が溢れた。いくつか質問したが要領を得ない。在庫なんか要らない、今自宅に在る品と、都度委託で入手する全国の陶芸家の作品ですぐに埋めて見せる。委託だから、仕入れは発生しない。ゆえに金はいらぬ。売れてから、その分を払えばいいのだ。永く、無名の駆け出しの頃から可愛がり育ててきたんだ。みんな協力するさ、この黒川自然が国際通りに店舗を構えるんだよ。放っときゃせんよ。 有り得ないことだが、文字通りの「売上の一〇%」のみで最低家賃云々がなければ、確かに在庫と委託で維持出来なくはないかもしれない。それでも人手は要るのだが・・・。 話にならない。国際通り案を断念させねばならない。
そうだ比嘉真に説得してもらおうと思いつき、黒川に訊いた。 「黒川さん、沖縄に来て比嘉さんに会いました? 大阪のギャラリーを閉めることになって作品返したきりでしょう、ちょっと挨拶に行きますか? 美枝子さんの話では、去年夏米軍ヘリ墜落の時に電話されたそうですけど・・・」 「あそこは遠いだろう。沖縄は電車がないし、移動はバスだ。彼んとこは確か」 「ぼくが知ってます。以前お邪魔してますし」 「車は便利だねえ。だから、ぼくは車を借りようと言ったんだよ」 電話すると、比嘉はアトリエに居た。 「おう裕一郎、沖縄に居るんやろう?」 「えっ、どうして知ってはるんです?」 「相棒から電話あったよ。裕一郎が二・三ヶ月行くのでよろしくってな」 高志が比嘉に電話していたとは・・・。 高志と裕一郎は、比嘉にとってワンセットだ。今は反戦版画家として有名な比嘉だが、沖縄に帰りドッカと座る前、大阪で夜間高校の教師をしていて、彫刻、正確には彫塑だが、彫塑中心に制作していた。七〇年代が終わろうとする頃、大型のレリーフ作品を依頼されたとのことで、工房を探していた。製作する作品は5M×2Mの大作で、広い場所が必要だ。金が無かった比嘉は困っていた。 職場占拠して二年目の夏だった。倉庫の片隅を工房空間として貸してもらえないか・・・。労働組合に話を持ってきたのは、比嘉と親しい滋賀の市会議員で、高志・裕一郎とは大学期の知人だった。占拠開始以来、旧会社が使用していた状態のままで荒れ放題の倉庫を、整理すれば空間は作れる。比嘉の作品を多少は知っている裕一郎は話を受けようと考えていた。 高志と裕一郎は、互いに、発議者がもう一方なら、反対ではないにしても発議された提案のリスクを言い不備や足らずを語る。二案が組合の論議の遡上に上り、結果として落ち着くところへ落ち着く。一度たりとも事前に相談や調整などしたことはなかったが、他の者からは、まるで出来レースのように見えたことだろう。 比嘉の要請を受けるには、やや消極的な態度で臨めば実現するかもしれないと考えた。そう踏んで、裕一郎は何とも本心から反れて秩序的な言い分を吐いた。職場占拠中の警備は、いつ占拠解除を目指して物理力が行使さえれるかもしれないとされていて、事実夜間の見張りを交代で配置している。昼間であってもオープンな出入りはいかがなものかと、その警備の面から、もうひとつは作品製作という「創造的」な事態に目を奪われ仕事への集中が疎かにならないか、そこをまずクリアする対策が必要だと、仕事の面から。 高志は、比嘉の創造する心や姿が争議に与えるプラスの影響は計り知れないと力説し、多くが賛同して、比嘉からの要請の受け入れがあっさり決まった。 してやったり・・・、だった。
連載⑱: 『じねん 傘寿の祭り』 二、 ふれんち・とーすと (5)
二、ふれんち・とーすと ⑤
出来高による家賃は売上の一〇%だ。ポス・レジになっていて集中管理、もちろんそれはレンタルで、電気代は坪数に比例して各テナンントが応分に負担する。普段が坪千円前後、冷房使用季には倍。共用部分、通路やトイレの電気代も同じだ。かつ、売上の多少に拘らず、設定されている最低家賃は坪六千円だった。契約面積は、通路の半分も含まれていて二十三坪。要するに、売上が多ければパーセントで、少なくても最低坪計算額はいただきますよ、ということなのだ。 売上百万という、聞いていた売上水準からは無理だが、ひょっとしたら可能かもしれない数字を頭に描き巡らす。賃料は売上の一〇%十万が最低家賃に届かないので、坪六千円で再計算。すると、十三万八千円、光熱費は平均で三万四千五百円、商品原価は黒川が言うには概ね七割。これだけで、計八十七万二千五百円。店に立つ常駐者の人件費・交通費・通信費・送料・包装費・思いつかないが色々あろう諸雑費、あっそれからポス・レジのレンタル料、それらを加えると完全に赤字、無理だ。 さらに食費用の保証金が坪三万、つまり六十九万ということも分かった。無理だ。
ビル側の設定は無理難題ではない。どのテナントも同じ契約で入っているのだ。頭が真っ白になって、裕一郎は事態を白紙に戻す術を必死に考えていた。 黒川が重ねて失言しないようにと、ここは一旦引上げることにした。 「オーナー! 大丈夫ですか?お顔が冴えませんよ。病院の先生が、まだ早いと仰ったのに・・・。今日は戻りましょう・・・」 「何を言ってるのだ。ぼくは大丈夫だ、君こそ顔が火照っているのかい?真っ赤だぞ!」 ビル事務所の担当者が心配そうに見ている。黒川を抱えるようにして、その場を去った。
それからが、大変だった。喫茶店に陣取り、まず保証金のことを訊いた。 「そもそも保証金あるんですか?」 「保証金というのは戻ってくる金だ」 「いや、それは出る時の話であって、店を続ける限り手を付けられないんですよ。積んでおく金です。続けるんでしょ! だから預けっ放しです。あるんですか?保証金」 「細川という同業者に、タロウの七十五万円の大皿を二点売ったんだが、それの代金を回収するよ」 「いつ売ったんです?」 「沖縄へ来てすぐだよ。」 「もう半年じゃないですか。催促してるんですか?これまで・・・」 「会えばいつも言ってるよ、早く払ってくれと。もう払うだろう。いつも今月末には払うって言うんだよ。困った奴だ」 「で、タロウって誰です」 「えっ、知らないのかい? 人間国宝の玉城太郎だよ。これだから素人は困るんだよ。タロウの大皿は、前期・中期・後期とあって、西欧から、次いで大正・昭和初期のヤマトから受けた影響を超えて、後期のものはタロウが琉球独自タロウ独自の釉薬技法に辿り着いた、云わばアイデンティティの復権に至った逸品だ。沖縄へ来て、まだビジネスが軌道に乗る前に、生活の為に断腸の想いで細川に売ってしまった大皿は、そのタロウが独自技法に辿り着く直前の、ごく短期間の作品にしか視られない迷い・葛藤・模索が滲み出ていて、復権が仄見える、全国のタロウ愛好家から羨望の眼差しで視られている作品なんだ」 黒川の話は終わりそうにない。なお先を語り始めていた。タロウを語る目は輝いていて、ほとんど涙ぐんでさえいる。だが、この話に異論を唱えてはいけない。軌道に乗る前って、じゃあ今は軌道に乗っているのですか、などと突っ込んではいけない。