連載 33: 『じねん 傘寿の祭り』  三、 タルト (11)

三、タルト ⑪

裕一郎は、昔友人の一人から聞かされた話を憶えている。                                                                                             個人的なことや家庭のこと、ましてや幼児期を語ることなど決してない男だった。いつも姿勢を崩さず、弱みを見せず、周りから与えられた役割や期待に応え続けた男だ。その男があるとき泥酔の果てに語った。                                                                                                                          小学校四年の時、父母が離婚した。離婚そのものに口を挟むつもりはないし、幼かった自分には正直両者の理由を明確には理解出来ていない。ただ、どうしても自分の中で未解決なことがあるのだ。調停というのは残酷なもので、四年生に問うのだ、「お母さんとお父さん、どちらについて行いて行きますか?」と。もちろん、母と離れたくはなかった。だが、父を拒否したのではない。                                                                                                     調停員に母親とやって行くと答えた時の「父を棄てた」という感覚が、ことある度に込み上げて来る。                                                                          控室を出て、家裁の前庭で煙草を銜えて空を見ていた父の姿が、調停室の窓から見えていた。こちらを見たいのを堪えているのが判った。                                                                                                                 控室に戻るとき、調停室に向かう父とすれ違っても目を合わすことが出来なかった。帰り際、父は母に手を引かれる自分に「お母さんを頼むぞ!」とことさらな大きな声を掛けて、家裁の玄関を背にスックと立っていた。振り返って「うん」と答え手を振ったのだ。次の言葉など出はしなかった。姉が二人いるが、男の子は一人。父を棄てた意識は消えたことがない。良き親であった父を棄てることなど四年生に出来るはずもない。それは、生きた時間が育んだ世界と持っている能力を超えている。大人になったら父と話そうと考えていたが、大学入学の年に父の死を知った。家裁玄関前に立つ父が、父の最後の記憶だ。古い友のそんな話を思い出していた。

温泉宿に泊まる余裕も無く、「坊ちゃんの湯」があれば充分だとチェックインした近くのビジネス・ホテル。ふらりと出て、もちろん商店街の外れ横丁のれん街で一杯やった。遅くに狭い部屋へ戻った。                                                                                                                    

                                                                                   

部屋で、一口大のタルトを袋から出して食べた。タルトは四度目だ。一度目は去年の初め、現場で亜希に貰って。二度目はその翌日高志の家で玲子に出されて、三度目はさっき美枝子に逢う直前。そして今四度目だ。                                                                                                                                                                 秋に黒川一家が沖縄へ発ち、次いで、亜希が高志の会社を去った。美枝子が沖縄を離れ、年が明けて黒川が沖縄へ来いよと誘い始めた。高志の口利きで得た仕事:ノザキを三月末に辞め、今四月、自分は沖縄に向かっている。裕一郎は、温泉街に向かう道沿いの並木のように群れてではなく、部屋の窓から見える疎水の石垣に群れから離れ独り立つ、散り始めた一本夜桜を見て思った。                                                                                                                      人は、去り、移り、離れ、別れるのだ。咲きもすれば散りもする。人の出会いと別れに口出しするつもりは無い。けれど、黒川夫妻を知る者の多くから、美枝子を非難する声を聞いてもいた。さっき美枝子から話を聞いても、それらの人々に対して美枝子を擁護する強い気持ちになることも、人々と同じ意見に立って美枝子を糾すことも、裕一郎には出来ないのだ。擁護でも非難でもない感情、どこかは同類であるだろう者への奇妙な感情だった。美枝子に向かうのでも他人へ向かうのでもない、内側へ自身へ向かうしかない、「ため息」に似た感情とでも言えば近いか・・・。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              私立探偵でもあるまいが、黒川の歴史は知っておきたい。明日朝、黒川の元妻子が営むという博多の店を覗こう。福岡からの午後の便を確保している。夕刻には那覇だ。黒川とユウくんとの再会だ。久し振りに比嘉にも会える。枕もとのラジオから、黒川送別会の帰りに亜希と行った居酒屋チェーン店に流れていた曲が聞こえてくる。同世代女性歌手の息子の歌だ。さくら舞い散る旅発ちを唄っている。あの時は聞き流したが、さっき窓の外にさくらを見たからか、誰彼の旅を思ってか「いい歌だ」と思えた。                                                                              亜希は沖縄に居るのだろうか?                                                       

                                                                                                                           (三章、タルト 終)  (次回より 「四章、じゆうポン酢」)                                                                                                                       

                                                                      

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