連載 22: 『じねん 傘寿の祭り』 二、ふれんち・とーすと (9)
二、ふれんち・とーすと ⑨
オバサンのおかずは美味かった。焦げ目が付いた揚げが入った特製チャンプルウとでも言うようなものと、ニンジンの細切りを炒めて玉子でとじたものだった。ニラとツナ缶が入っていたように思う。シリシリーというらしい。裕一郎が、冷蔵庫にあった大根を使って味噌汁を加えた。充分だ。 食後、黒川から売掛金の実態を聞いた。美枝子から聞いていた内容とほとんど同じだった。 細川への大皿を含めて、半分近く受領書というものがない。ノートに一覧はあるのだが、特に督促はしていないという。売掛金は、何と総額四百二十五万円に上った。それはあくまでも黒川の側の理解だ。半数は、価格について合意したという客観的証拠が無い。聞けば、永い付き合いでお互い価格で揉めたことはない。同業者同士の信頼だよと言う。受領書があるものが一般客なのか。察するに、業者間で価格に巾を持たせて一時委託する、売れれば売り手が利益を確保した上で残りを支払う。そういう一種の委託販売ではないか? いや委託じゃない売ったのだ、と言い張るので論争は控えた。仕方が無い。まず売掛金を順次、確定して行くしかない。大口の細川の分を回収することに当面集中するか・・・。細川用の未納金支払誓約書を、金額欄を空けて作った。
翌朝、再び「パン食」なのだが、昨夜黒川が買って来たパンで「パン食」を作った。 前夜、風呂上りのユウくんに食べたいメニュウを聞き出していたのだ。冷蔵庫に購入日シールが貼ってある玉子・牛乳、野菜室にキャベツ・ニンジン・未開封のハムなどがあった。何なりとパン・メニュウは出来るだろう。訊くと、ユウくんは意外なものを希望したのだった。 ケーキみたいなパン。熱い甘いやつ。 玉子・牛乳・砂糖、塩少々。前夜から充分に浸したものを焼いた。ユウくんが「熱ちち」と言いながら美味そうに食べている。 「これの名前分かる?」 「う~ん、何だったかなあ」 「ヒント! ふ が付く名前」 「ふれんち・とーすと!」 「ピンポン!」 現物を目の前にして思い出したのだろうか答に辿り着く時間が素早かった。モグモグ食べていたユウくんがしみじみとした表情で言う。 「懐かしいねぇ~」 突然の言葉に何も返せなかった。 懐かしい・・・何という響きだろう、何という人間の本源的な感情だろう。骨身と臓腑に居座っているものが、込み上げて来る時の感情だ。 その光景 その香り その場の音 その雰囲気 その時の気分、時と場を共有した人びと・・・、それらが明確にイメージされ、かつその対象との蜜月を生きた日々の己が肯定的に自覚されている。その全体を、今ただ今、想起できるその心の在り様の中にこそ、誰も奪うことの出来ないものとして「懐かしい」は棲んでいる。そのどれが欠けても「懐かしい」は成立しない。 ユウくんは、かつて食べたフレンチ・トーストが単に美味かったと懐かしいのだと言っているのではない。 それを食べた時間を、その黄金の記憶を「懐かしい」と表現しているのだ。 裕一郎は思うのだ、自分にはどんな「懐かしい」が残っているのだろうか・・・と。 「美味いか?」そう問うのが精一杯だった。黒川が横から口を挟んで来て言う。 「朝から甘いものは、どうなのかねぇ」。全て解っているに違いない。 時にフレンチ・トーストを作ったのだろう人も、今、朝食を摂っているだろうか…。
(二章、ふれんち・とーすと 終)