連載⑦: 『じねん 傘寿の祭り』 一、チヂミ (3)
一、チヂミ ③
ビールで酔ったわけでもないだろうが、突然、高志が歌を唄い出した。高志が唄うのを初めて聴いた。 『野に咲く花の、名前は知らな~い♪』 『戦さで死んだ、哀しい父さん♪』。時代の気分を漂わせていてちょっと投げやりで孤独な、だがひたむきな、そんな雰囲気が当時の若者に受けたのか、この歌の前のヒット曲で有名になっていたカルメン・マキという名の歌手の歌だ。聞いたこともある。だが、ぼくは、四番まであるその歌詞を諳んじているわけではない。ところが、高志はそれをたぶん正確に最後まで唄ったと思う。 「ええ歌やろう。清い女の子の軽い反戦歌やと思うか? これは深いでぇ」と言って、作詞者の短歌を無解説で紹介した。『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』(寺山修司) 彼もぼくも当時二十二歳。ぼくらは、いやぼくだけかも判らないが、短歌はもちろん表現世界のことには奥手だった。解らず語り、解らず聞いていた。 ただ、じっと聴いていた玲子の表情は、今も鮮明に覚えている。 「裕一郎、俺は大学を去るよ。お前とはもう逢えんやろな。まぁ、頑張ってくれ」最後にそう言った。大阪に所用があるという高志と、部屋をあとにしたのだが、そこで記憶は途切れている。 その後高志には逢っていなかった。言ってた通り卒業したと人から聞いた。玲子も消えた。ぼくは、学費を払わず大学を除籍になった。玲子の下宿部屋での一幕と野菜炒め、それが高志との学生期の最後の場面だ。もちろん玲子とも・・・。 数年後、高志と篠原玲子が結婚したとの噂を聞いた。その頃には、吉田高志を非難した人々の多くはもちろん卒業していた。
「へぇ~、非難轟々の中でのリーダー格人物の選択ね、ふ~ん。あの人よりも、それを支えた玲子さん? 彼の奥さんに興味あるな」 「そうか?」 「そうですよ。想像だけど、熱くなってる学生には受け容れにくいんでしょ、そういう言い分って。で、北嶋さんは二人と再会するんですよね。やがて、三年前、ノザキへ紹介されるほどの仲になって行く、と」 「それはずっと後のことや。その前に同じ会社に居た。」 「えっ、それって初耳ですね」 「もう逢えんやろうな、と言った高志に偶然再会した。しかも再び彼の選択に遭遇したよ。」 一九七六年、失業中で職安、今のハロー・ワークに、背中に子を背負って通った挙句、適当な仕事がなくたまたま新聞の求人広告で入った会社、金属什器の製作会社に吉田高志が居た。お互い三十直前だった。 「背中に子供って?」 「女房が働いてくれてたんや」。亜希はククッと笑った。 「あの人、会社幹部になってたの?」 「いや、大学を卒業した彼が、そこでは高卒だった。製作現場に居て、労働組合の役員だった」 「高卒?」 「そう。選挙で外国の有名大学出身だと学歴詐称する奴もいるけど、この場合は別の意味ではあるけど、ひとつの学歴詐称や」 「北嶋さん、高卒だと学歴詐称してまで工場現場に居たあの人に、コムプレックス抱いたの?」 「それはないよ。その種の感情はないよ。本人も、奉仕や自己犠牲的というか清教徒みたいな見られ方は嫌やろう。」
当時の大学生に、天下国家や世の為人の為、かく生きるべき道などといった、明治以来知識人が社会に出る際に遭遇した葛藤があったとは思わない。大学進学率は六〇年代後半から急激に伸び、当時二十五%に達していた。所得倍増はほぼ成し遂げられ、戦後社会はピークの手前にあった。大学はすでに家電普及と同じ意味で大衆的普及現象のひとつだった。そこに学生叛乱期の深層が在るとぼくは思うんやが、それはともかく、いくらかの学生が知識人の責務などと悩んで進路選択したとしても、それを揶揄するつもりはない。吉田高志がその一人かどうか知らないが、そんな求道的と言うよりは欺瞞的な理由で工場現場へ行ったんやないと思う。現実的なというか技術的な理由やろう。そこに対してコムプレックスではぼくのポリシーに障るんや。 「技術的?」 「現業に行くには高卒が有効と言う技術的な話なんや」 「有効?」 「そうや、大卒が現業志望で来れば経営者は何か魂胆があるかもと疑うやろう」 「労働運動する為に工場へ行く・・・?」