連載⑥: 『じねん 傘寿の祭り』 一、チヂミ (2)
一、チヂミ ②
一九七〇年が明けた頃、二人が共に在籍していた大学の前年春から続く学内闘争は、その秋に機動隊が導入されバリケードは解除され、多数の逮捕者を出して混迷していた。 学生たちが、大学をバリケード封鎖した理由、つまりいくつかの要求とそれへの大学当局の拒否・無回答は、何ら変化していない。だから、大学の諸機能・諸スケジュールを今ここで認める訳には行かない、バリケードの有無に関係なく同じ対応をすべし、交渉に応じず勝ち誇ったように再開される大学側の運営は「粉砕」の対象だ、というのが闘争組織の共通認識だった。それにはもちろん「卒業試験」も含まれていた。 四年生高志は闘争組織のリーダー格で、その闘いの中心に居た。彼ら活動家は、大学という存在への、そして大学という存在からの、様々な問いと、その問いをも圧してしまう政治状況に向かうこととの間で、思考の分裂状態に在ったのだろうと思う。インテリ左翼の悩み? ぼくは、年齢は高志と同じだけど、九州や北海道で住込み店員など、まわり道をして大学へ来たので二年生だった。ノンポリって死語? 今選挙報道なんかで言われる無党派層と言うのとかなり違うと思うが、そのノンポリと闘争組織シンパの間を遊泳する二年生だった。大学生がストすることも含めて実はよく解らず、事態と自身の混乱に整理も付かず、身動き取れん状態で、自分には活動家の高尚な悩みなどなかった。 高志とは、入学年度は違うんだが、学内闘争が始まる前一時期倉庫の荷処理のバイトが同じで年齢も同じ、何故か気が合い「タメ口」で接していたよ。よく、大学から大阪へ出る途中にある繁華街で痛飲したりもしていた。
寒い夕刻、大学前駅で、同級で唯一の女友達である篠原玲子にバッタリ出会い声を掛けると、ほとんど同時に高志が後ろから声を掛けてきた。どうやら二人は待ち合わせていたようだった。 腹が減っていたからか、店に行くには金が無かったからか、三人で玲子の下宿部屋へ行った。途中で買ったビールを飲んで、玲子が学生下宿の共同炊事場で作ったおにぎりと野菜炒めを喰った記憶がある。当時の学生は個人の冷蔵庫などもちろん持ってはいなかったので、材料もその時買った豚肉とキャベツに、玲子の部屋の在り合わせの玉葱やニンジンなどだけなのだが、その野菜炒めがすこぶる美味かったのを憶えている。 しばらく雑談した後、高志は何と、近く実施される卒業試験を受けると切り出したのだ。 「四年生は卒業すればええんや。百人が百の職場や各種団体へ行けば、闘う労働組合や闘う団体が百できる。」と言い、話を続けた。 大学という特権地帯で、外には通用しない喧嘩を巡って「卒業試験をさせない」「受けない」ということに普遍的意味があるか? なら、大学側が態度を変えない限り永遠に卒業しないさせないのか? そういう問題の立て方は、いわば敵殲滅か味方玉砕かという、どこかで聞いた発想や、と。 「みんなから批判されていることも知っている。けど、俺は卒業するよ。苦労して兄弟の中で俺だけを大学へ行かせてくれた年老いた信州のお袋に、卒業証書見せたいからとでもしといてくれ。裕一郎、お前なら解ってくれるやろ?」 「お前なら」と言われて困惑したが、頷いたと思う。自分は、入学以来ただの一単位も取得していないし、卒業にも何のこだわりもない。だが、卒業を前提に大学生活を送り、最後の段階で卒業試験をボイコットする苦渋の選択をした多くの四年生がいることも知っている。リーダー格の学内著名人吉田高志の選択は非難されるだろうと思うと笑顔では聞けなかった。高志が「四年生は卒業すべし」と内部でキチンと意見表明しただろうかと気になったが、ぼくはそこを質すことも出来ずに居た。 残り少ない野菜炒めを惜しんでいると、玲子が自分の皿のものを半分移し寄越して「お腹空いてるんでしょ。ほら、これ食べて。私は昼遅かったから」と言った。有り難かった。