連載⑤: 『じねん 傘寿の祭り』  一、チヂミ (1)

一、 チヂミ ①

 黒川一家の送別会を終えて駅に向かう道で、松下亜希が「もう少し呑みません?」と言った。亜希の方から誘われたことなどそれまでにはなかった。悪い気がするはずもない。その日は現場帰りと黒川家送別会に続き三軒目ということになる。裕一郎は、何か今日話したいことでもあるのだろうとも思ったが、男なら「俺と呑みたいのだ」と思いたい。そう思うと、亜希が黒川家までは大きな仕事バッグの手提げ部分にひっかけていた衣類を、今は着ていることに気付いた。濃紺のシャツの上に着た、現場着としても不自然ではないブラウン色のタイトなベストが高級品のように見えて来る。パンツ姿に、あれ、意外に背が高いなと足元を見ると、今日はヒール付の履物だった。こんな観察さえ男は出来ていない。                                                                                             

酒は進んだが、裕一郎は酔えなかった。黒川家近くの駅前にもある全国居酒屋チェーン店は、一〇時を過ぎても、多くの客が居て若いグループが騒いでいた。近くの大学の文化祭の日らしく、何かのサークルの打上げでしょ、と亜希が言った。店内には、その騒音の合間に、昔裕一郎が学生だったころ透き通った高音でファンを魅了した女性歌手の息子が、裏声を駆使して唄う歌が途切れ途切れて聞こえる。酔えなかったのは、若いグループの騒がしさだけが理由ではなかった。                                                                                専務との印象深い思い出?どんな青年だった?奥さんはどんな人?                                                                                                        何故松下亜希が、勤務する会社の専務でありその人となりも知っていよう高志のことを、あれこれ訊くのかと自問しながら、周りの雑音と息子歌手の裏声に馴染めず、母親の方が上手いな、などとぼんやり思っていた。やがて、ぼんやりを切り替え、すぐに、亜希は高志と男女の関係なのだと確信した。そう思ってしまった理由があるはずだが、その時は思い出せなかった。いや、思い出すことを避けたのだと思う。その心の揺れを隠すように、亜希が注文したチヂミに手を伸ばし、「これもらうよ」とつまんで、最初に亜希と呑んだ夜も彼女がチヂミを注文したことを思い出していた。                                                             視線を亜希の手許のジョッキに固定して、ごく短い心の軌跡を見破られまいとして、流れている歌も耳に入る状態:「ぼんやり」に戻していた。あの女性歌手の息子が大人になり歌手となって、今唄っている。俺の息子もそんな年代なのだ、こっちは年寄りのはずだ。些細なことがきっかけで家を出て久しい。離婚したわけでも、離婚を巡って争っているのでもない。帰れないのだ。ふと溜息をついてしまった。                                                                                                                                              「北嶋さん、専務と昔からの友人だから?」                                                                                                                            「えっ?何が」                                                                                                                                                    「聞きたくないみたいだから」                                                                                                                         「そんなことないよ、ちゃんと聞いてるよ」                                                                                                                          「専務が言ったんですよ、ぼくのことは北嶋が一番知ってるって。聞かせて、あの人の青年時代」                                                                                                                                                                                                                高志からは、何も聞いていなかった。高志が亜希と特別な関係にあるということ、亜希が高志の妻のことを訊きたい心境に在ること。高志が重い荷物の何分の一かを自分に持たせようとしていること。                                                                                            自分が、亜希のことを憎からず想っていることを高志に見透かされているようで困惑したが、何故か自分に与えられた役割を受け容れていた。

「へえ~っ、そういう仲なんだ。そりゃ親友・戦友ですよね」                                                                                                                       「どうかな、何やろうか・・・。お互いこいつにだけは信頼されていたいと思って来たような関係とでも言うのか、一番のライバルと言うのか、いつもよく似たテーマによく似た向かい方で関わって来たような感じかな。解り易く言えば同じ女を好きになるようなことかな」                                                                 「えーっ! あの人の奥さんを取り合ったんですか?」                                                                                                               「まさか! 違うよ、例えばや。解り易く言えば・・・と言うてるやないか」                                                                                                      裕一郎が、亜希に応えて話した「高志との印象深い思い出」「どんな青年だったか」は、高志との二つのエピソードだった。

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