読書: 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子著、朝日出版社。\1700)

                                                                                      実は、熊沢誠HP=「語る」 の書評欄に触発されて読んだのです。                                                                                                                【http://www.kumazawamakoto.com/reading/2010_october.html】                                                          『「それでも日本人は戦争を選んだ」というタイトルは本書にふさわしいだろうか。このタイトルに私が期待した内容は、日本の庶民・大衆がなぜいくつかの戦争を、おそらくは『強制された自発性』をもってついに選ぶことになったのか、すなわち民衆の受けとめかたの考察であった』                                                               『それゆえにこの有益な良書は、私には民衆の痛恨の体験としての戦争の歴史ではなかった。』                                                                             同感。

「知ってるつもり」で過ごして来た現代史を辿り「ああ、そういうことだったのか」も多く、                                                                                                       現役高校生や現代史をすっ飛ばした世代の大人には、一級の歴史書なのだとは思います。                                                                             実際、ぼくの20世紀観を語ると、周りの大人(主に自称左翼)にさえ                                                                             「えっ?ウソォ~?社会主義国がそんな理由で動くか?」とか、                                                                                                                                     「欧米批判が過剰だから自衛戦争史観に、足元掬われるんじゃ!」とかよく言われる。                                                              その点、日清・日露・第一次大戦・満州事変と日中戦争・太平洋戦争へと辿る本書の、                                                                                         明治以降の日本が、発展(列強の仲間入り)するには、遅れてきた帝国=ドイツやイタリアがそうであるように、「軍事」や経済的・領土的拡張抜きには有り得なかったとする「正論」は、事実ではある。レーニン「帝国主義論」の別冊的側面もある。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     問題は、ここで言う「日本人」とは、「日本の為政者」「日本の言論」のことであり、「面白いでしょう」と連発される逸話の数々が、まるでTVゲームの「国盗り物語」のように「国を仕切る者」や「政権内部」「軍」の中枢論客の目線からの、しかもバーチャルな「戦争理解」への誘導という危うさに充ちていることだ。『それでも、日本は「戦争」へと向かった』と改題し、『それでも、日本人は「戦争」を回避できる』論をこそ                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                歴史を知らない・知ろうとしない大人と学生の芯に届く歴史書として書いて欲しい。加藤氏の「総論」には、その可能性が含まれている。                                                                                                               けれど、加藤講座(この書は高校生への講義の記録です)を受けた高校生の、「博学優秀」な応答が「いま風」のバーチャル戦争論を                                                                                                       越えるには、ある「痛み」を伝えなけば届かないだろうとぼくは思った。

最近の魚釣島=尖閣諸島事件、ロ大統領の北方四島訪問を巡る過熱報道や、                                                                                          日本における報道論調と反中デモ・中国に於ける報道論調と反日デモを見るにつけ、                                                                                                                   日清・日露から太平洋戦争にいたる時期の、「それぞれ」の前夜を思わせる「それでも世界と日本は繰り返す」の観を呈している。                                                                                                   制度と体制、歴史と遺産を超えて、「民族」に依拠し「国家」を全面に据えて立つ、そういう「呪縛」の只中に居る。                                                                       ナポレオン、ヒトラー・ドイツとは違う三度目の「ヨーロッパ統合」案たるEUは、戦争・民族・領土etcという近現代の歴史へのひとつの回答だと思う。                                                                                                                   アメリカの大市場中国へ目線と中日相食むを望む(?)魂胆、ナショナリズムに依拠してことを運ぼうとする中国、                                                                                                                                               日露戦争を忘れてませんよ(?)以来の大ロシア意識・・・、変わらぬ「国家」という枠組みの構造的欠陥を見る思いです。                                                                                                 もちろん、同じことが同じカタチで再現されるとは思わないが、処理方法は違っても「国家」の言い分のその根っこは違わないと思うのだ。                                                                             加藤氏が下記に言うように、政治が受け止めない事柄への不満の受け皿として、、                                                                                「強い主張」「リーダー・シップ」を求めてしまう「合意」を、マスコミは競い合って築き上げてさえいる。                                                                               ここで、出されるべきはそうのような「総潮流」への異論ではないだろうか?                                                         大報道機関の論調が続けば、そして情報が独り歩きすれば、本講義を受けた優秀な高校生や、                                                                     「よき社会を作りたい」とか、よき意味で「国を動かしたい」との「志」を持って官僚へと進む                                     (例えば、東大卒通産官僚:元岩国市長井原勝介氏とか)かもしれない東大一年生が、                                                                                                                                                                                             本書(260P)にある『満州事変二ヶ月前の東大生へのアンケート結果』=『満蒙に武力行使は正当なりや』への回答-『はい88%』                                                                                                                                                                と同じことになどなりはしないと誰が言えるのか。教育や報道は大切だ。

*                                                                                                 『日本人と中国人にとって、戦争や戦いは、give and take の一つの形態にすぎないのだった。日本と中国にとって、二国間の均衡を                                                                           どちらがリードするか、それをめぐる長い競争は、文化的にも社会的にも、また「知の領域」においても争われたのだった』(ウォーレン・F・キンボール)                                                                                                                                                      (83P)                                                                                                                                                         *                                                                                                                              『(1931年)今日の外交は国際的な交渉はやっているが、「国民の生活すなわち経済問題を基調とし、我が国民の生きんとする                                                                                             ゆえんの大方針を立て、これを遂行することが第一」であるのに、それをやっていないではないか、との批判派は、                                                                                 生活苦に陥った国民には、よく受け容れられたと思います。そのような瞬間を軍が見逃すはずはないですね。』(287P)                                                                                                                                                                                  (「国民の生活が第一」との某小沢のスローガンを揶揄しているのではありません。念の為)                                                                                                                                                     *                                                                                                     『29年から始まった世界恐慌をきっかけとした恐慌は日本にも波及し、その最も苛酷な影響は農村に出たのです。そうしたとき、                                                                    政友会も民政党も、農村の負債、借金に冷淡なのです。(中略)農民に低利で金を貸す銀行や金融機関を作れという要求は、                                                                   政友会や民政党からは出てこない。このようなときに、「農山漁村の疲弊の救済は最も重要な政策」と断言してくれる集団が軍部だったわけです。』(315P)  

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