交遊通信録:  ぼくにとっての金時鐘-1 (KKさんへ)

KKさん。金時鐘『失くした季節』出版記念シンポジウムへのお招き、ありがとうございました。(貴女の「書」、いつ見てもええねぇ!)

9月4日、金時鐘さんの近著、詩集『失くした季節』の出版記念会への出席の為、帰阪した。                                                                                                  大学の後輩、詩人:KKさんからのお誘いだ。後輩と言っても、ぼくは二年しか在籍しておらず、その後知り合った詩や表現の世界の「道案内」人だ。彼女は、ぼくにとっては年齢や入学年次では後輩ではあるものの、そちら方面の先輩であり、ぼくを金時鐘に引き会わせてくれた恩人でもある。                                                                                                                                                                  02年。                                                                                                                    労働争議・職場バリケード占拠の果てに77年から20年続けた労組自主経営の会社を、98年に破産させてしまい、あれこれの失敗・自業自得の不遇などが重なり行き詰ったまま21世紀を迎え、ぼくは、何を何処からどうやって解きほぐせばいいのか進退窮まっていた。                                                                                                                                                                                                                          金時鐘に興味と共感を抱いていたぼくは、「吹田事件50周年記念シンポジウム」で氏の講演を眼前で聴き、いよいよハマってしまい、ここに己の再建の鍵ありと思え、やがて書き始めた駄小説『祭りの海峡』(http://www.atworx.co.jp/works/pub/19.html)に、金時鐘氏を「ある詩人」として間接登場させてしまう。古い映画 けんかえれじい』 (66年日活、監督:鈴木清順、出演:高橋英樹・川津祐介)のラストに緑川宏扮する北一輝が、主人公の気分を象徴して、黙して(しかし圧倒的に)登場するが、その手法を使ったつもりだった。振り返れば身勝手で安易な手法だった。                                                                                                                                              67年19歳のぼくは、札幌のパチンコ屋に住込みで働いていたのだが、そこで出会う釘師兼マネージャー新山という男の、言葉にまとめられない「在日する生」「精神世界」「民族」「組織の流儀への違和」などを、この釘師の「ある詩人」(これを金時鐘だと匂わせた)への心酔として表したのだった。作中、釘師:新山に「ある詩人」のことを「ワシの、詩の師匠や」と語らせる。                                                                                                                               政治も思想もそして世の現実も知らない若造が、それでも直感的に掴んだこの釘師:新山像とその背後に巨大なものとなって永く居座るもの、釘師がそれと格闘し「密かに」続けている詩作、その根拠…に出会って行く。                                                                                                                                                                                                               60年代後半の時代精神や気分と、そこで生き・生きようとした原初の精神を、21世紀の己の混迷を解く鍵になるかも…と書いたのだった。                                                                                                                                                                                 拙作の紹介ではないので、『祭りの海峡』の主人公・釘師・ある詩人の話は止めておくが、ぼくが「札幌パチンコ屋物語」を書くと決めたのは、間違いなく「吹田事件50周年記念シンポジウム」での金時鐘講演であった。自分のささやかで風化しそうな体験を基に書き、己の復権の手立てを考えていたのだと思う。                                                                                                                                                                                                 経過は省略するが、07年2月、拙作『祭りの海峡』の出版時の集いには、KKさんの骨折りで、金時鐘氏が一時間弱の講演に来て下さった。その日の 『負け続けることを止めた時、それが本当の敗北だ』 という言葉は、参加してくれた人々全員の心に刻まれている。(写真右)

話を、今回9月4日の出版記念会のシンポジウムに戻す。                                                                                                                                                            細見和之氏が会場からの発言を受けて(すみません、会場発言の詳細は失念)いいことを言った。                                                                                                                                      「ロシアと言えずついソ連と口走ったり、ベイスターズと言えず大洋ホエールズと言っても通じないように、反スターリニズムなどという言葉も、今の若い人にはそもそも社会主義国やスターリニズムへの同時代性や体感が無い中で歴史としてしか伝わらないのか? 反スターリニズムとは何なのかを伝えるのは大変だと思うけれど、スターリニズムという言葉を使わずに、その意味を伝える言葉をぼくらが掴まないと、と思う」(要旨)

 

思うに、そのことを生涯かけて実践して来たのが、金時鐘であり、金時鐘の詩だと思う。 

スターリニズム。その根源は何なのか? 民の抗いの組織的表現体とは、在るべき社会への、本来無垢で勤勉な人々の熱い希いや要請であり、その現実的運動の推進に是非とも必要ゆえ在るものだが、それゆえにこそ、その内部に抱える避け難い業があった。
もともと、社会の事態を変えるには、その為の組織が、正しかるべき中枢指令塔が、必要なのだ。だが、正しい理論・それに基づく唯一の党・ゆえの一党独裁・・・から指導部の絶対性(その果ての一個人の絶対性)へ至る回路、 そして自由選挙の否定・複数政党の否定・自立した労働運動や市民運動の否定…から異論の物理的排除・強制収容・粛清に至る回路、それらが待っていた。                                                               
ぼくらの時代で言えば、抗いの現実渦中に在る者は、外に居て思索する者の言をいかがわしいとして耳を貸さず、外からことの核心を突いていると自称する思索者は、渦中の者の共犯性をあげつらった。現場性と思索性の往還の隘路に在る者は、スターリニズムを打倒するに、違うスターリニズムで対峙する以外有効ではないのだ と言わんばかりの倒錯絵が永く(今も)繰り返される事実に、疲れ果て語ることを断念した。そのいずれもの位置を一通り潜って来た人々(諸先輩・諸同輩)が、時に当事者としての「共犯性」に苛まれ、時に思索者としての「安全地帯性」を恥じ、時に往還者としての「両義性」を呪い、他者に伝わる言葉を紡げなかった。それらのぬかるんだ泥土から、それでも歩を進めようとする人々を幾人も知っている。                                                                                                    だから、『簡単に「反スターリニズム」などと言うな!』とは思う。思うが、

それではスターリニズム(左翼用語を超えたスターリニズムを含め)は拡大・再生産されるばかりだ。細見氏が言う通り「伝わる言葉」を求めたい。それは、一義的には、あれこれの思想書でも歴史書でもなく、おそらく臓腑に届く「詩」に在るだろうと直感している。当事者・思索者・往還者の体験・構想・諦念を射抜いて届く言葉のことだ。そこで、届いて来る人間の声を聴き、ぼくらや若者が次に思想書や歴史書に向かうかも知れない。
金時鐘の行いと詩作こそは、その生きた実践という一面を持っていると思う。

                                                                                                                           

 

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