品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ③/3

<『水城』『大野城』『嶋門』に囲まれた『倭都』の防衛網> 

②の冒頭に述べた中国「冊封制度」は、小国支配の技術的方策なので、当然一地域一王権が望ましい。唐は、朝鮮半島では、北の強国高句麗との攻防を繰り返す一方、新羅と百済が互いの覇を競い互いに唐のお墨付きを求める構図の中で、660年、百済を唐+新羅によって滅亡させる。唐が、半島南部を新羅によって冊封せんとする構図だ。                                                                                                       (5世紀475年の百済第一次滅亡は、南下拡張する高句麗によるもの)(478年、倭王武はこの高句麗の南下を「非道」と宋:順帝に申し出ており、実際百済と組んで半島へ出陣していたようだ)。                                                                              5世紀以来の、百済との同盟から、倭は質たる余豊を帰し(百済最後の王となる)、百済再興を企てる。百済救援でもあるが、ここをやり過ごせば唐が次は倭を攻めるだろう、地位をヤマトに奪われるという恐怖がそうさせたのだと思う。かつ、「ヤマト:継体の反乱531」(教科書では「磐井の乱」)の例に見るまでもなく、ヤマトが列島盟主の座をうかがっている・・・。そうした東アジア史全体構造の中で、663年、「百済・倭連合vs唐・新羅連合」の戦争「白村江の戦」が勃発した。                                                                                     だから、その敗戦の後さらなる攻撃に備えて、「水城」が造営されたとしても故なしとはしない。                                                                      だが、では東アジアの動乱の5世紀以降(つまり拡張と進撃の5世紀「倭の五王」の時代、百済と同盟して半島へ出撃・その隙にヤマト:継体に攻められた6世紀「磐井の時代」など)には、「倭都」は無防備都市だったと言うのか?

「水城」の天智期造営説に割り切れないものを感じていた研究者に、1995年ニュースが舞い込んだ。                                             発掘調査で、堤(土塁)の内部に石積みの「別の水城」が出て来た。近畿天皇家の事績として来たアカデミズム塔の先生方は何と「見つかった古い水城が天智期のもの。これまで天智期のものとして来たのは、奈良時代の増築・修復の跡」と言い出す始末。これなら、何でもありだ。記紀に合わせて、古代史脚本がある。出土物品も文書も伝承も、外国の史記も、その脚本に合うよう理解したり、脚色したりする。「ほら、記紀と一致するではないか!」と言うわけだ。これが学問か? 「魏志倭人伝」の行程・距離・方角、「倭の五王」は近畿天皇の誰かだとして強引かつ法則性も無い比定(*3)、「607年の対隋国書、日出処の天子は聖徳太子」なる無理無体……、それらと同様の常套手段だ。                                                                               ところが、朗報が届いた。九州大学理学部「放射性同位元素総合実験室」が「古い水城」の年代を特定した。                                                                                                                   西暦430年+-30年! 「倭の五王」の時代だ。天智こそ「増築・修復」役(倭からの任命での)なのだ。                                             では、本来の「水城」は、いつ、どのような目的で、どういう機能を備えた「城」だったのか?                                                                       ここで、「大野城」の特異性とワンセットで構想しつつ、「嶋門」から「倭都」現:大宰府周辺を俯瞰すると、そこに一大城塞都市ぶりが浮かび上がる。

左:現在の「水城」跡。手前(西:春日の丘陵)から、正面(東:「大野城」)に向かって一直線に堤(土塁)が延びる。壮観だ。                                    右:「倭都」俯瞰図。「倭都」が人造湖と化す「水城」の機能も、「大野城」の位置取りもよく解かる。左上(北):博多湾に「嶋門」。                                                                                                      写真・イラストとも「九州歴史資料館」1998年発行:『発掘30周年記念誌:大宰府復元』より クリックで拡大可)

「倭の五王」の攻撃性・拡張性は前頁ので見た通りだが、彼らと「倭都」は、攻撃性・拡張性がもたらす予想される「リ・アクション」にも備えていたようだ。山が丸ごと城である「大野城」には、何箇所にも食糧備蓄倉庫としか考えられない、高床式大倉庫(の敷石現存)がある。ある研究者が穀物などを備蓄したとして、数万人が数ヶ月籠城出来る規模だと試算し発表。しかし、数万人が籠城とは如何なる事態か。また、空っぽ同然になる倭都は? と疑問が残る。                                                                                                                                                                                                                                                       そこで、「水城」の機能だ。「水城」は堤(土塁)造営用土砂採取の為に掘って出来た溝に、御笠川の水を溜め「堀」にするゆえ「水城」なのだとされて来た。つまり、「水」は堤(土塁)の北:博多湾側にある訳だ。                                                                             これに対して、幾人かの論者と品川ジジイは「倭都」を空っぽにする戦術を空想した。「水」は、堤(土塁)を挟んで南:倭都側にあり、と。(堀はあって当然。堀・湖併用が答えか) すなわち、「水城」はダム、倭都は一時「人造湖」となる。御笠川の水は、ダムに堰き止められ、倭都に水が溜まり人造湖と化す。ゆえに全員退避。 最も有効な瞬間に、ダムの堰を開放、一気に大量の水を放出、水攻めを成し、「大野城」からは籠城組が山おろしの追い討ちをかける。この戦法は、対馬などからの狼煙通信などで、いち早く船団の規模を把握し、かつ博多湾岸での上陸阻止戦でもなお防げないと判断せざるを得ない危機の場合の、万が一の「捨て身の」戦法だ。「捨て身」ゆえ、一億火の玉、官・武・民挙げての総動員態勢なのだろう。(「水城」が実際の機能を果たしたことは、元寇の際も含めて、幸いにして一度も無いそうだ) いずれにせよ、「水城」は、近畿天皇家が都から遠い「辺境」の「一地方」を守る為に造ったのではなく、都督府所在地=「首都」を守る為の幾種もの防衛施設のひとつだったのだ。                                                                                                                                                                                         

663年夏8月「白村江」敗北から倭国は崩壊に向かった。それから約1280年後の1945年、同じ、倭国のDNAを引き継ぐ者の拡張性・玉砕主義・総動員態勢や半島への係わりが、同じ8月に倭とヤマトの末裔支配層の「懲りないDNA」に敗北と焼跡を進呈した。                                                                                                              20世紀の国体は奇妙な形で護持された(?)のだが、「倭国」が、671年、数千人の唐の戦後処理交渉団(?)とどのような交渉をしたのか、謎の内戦「壬申の乱(672)」を経て「倭国消滅」「政権移行」「親唐政権」を成し、国際舞台への「日本」登場へと繋いだのだとしたら、それこそ小国「東アジア合衆国」たる者の智恵かも知れない。

 ☆701年。唐、列島を代表する王権として大和を認知。呼称を「倭」から                                  「日本」に改める。(旧唐書:《倭伝》のあとに《日本伝》あり。)                                                                                                                                                            『或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたり』

黙して視ていた観世音寺の梵鐘は、これら全てを知っている。                                                                                    (観世音寺は、都督府に隣接しています)

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*3                                                                                                                  「倭の五王」はそれぞれ 讃・珍・済・興・武 と名乗り、宋書には上表文や在位期間・親子関係・兄弟関係などが詳しく記載されている。この時代の該当する近畿の天皇は、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略と、いわゆる河内王朝とも呼ばれる古市古墳群・百舌古墳群に眠るとされている大型古墳時代の七名だ。                                                                                                  413年から478年の間に東晋と宋に9回朝貢・遣使しているので、「日本書紀」によってその時間帯に絞って比較すると、允恭・安康・雄略の三天皇となり、どうにも合わない。そこで、近畿天皇の誰かでなければならない人々は、宋書記載の年代や親子兄弟関係(が近畿天皇家のそれと合わないので)を無視したり、恣意的に和風諡号・漢風諡号から無原則に一音一字を採る(例えば「応神」の和風諡号は「ホムタワケ」だから、「ホム」の意味から「讃」。「仁徳」の和風諡号は「オホサザキ」だから「サ」音から「讃」。などなど)。 意味から辿ったり、音から決め付けたり各仮説入り乱れて言い合っておられます。 いくらひねっても無駄!「倭の五王」は近畿天皇家ではありません!                                                                                                                                               普段は記紀偏重の先生方が、宋の冊封を受け朝貢・遣使し堂々と語る「倭の五王」に限り、それを近畿天皇家の事跡として取り込みたい一心で、記紀に無記載には口を閉じ、偉大(?)な事跡に拘るのは無原則といえばあまりの無原則。天皇家とは無関係とした江戸時代の学者の方がマシかも。

-以上、06年稿を加筆修正-                                                              

 <予告>                                                                                                             上記の「倭都」「水城」の説明文に、「御笠山」「御笠川」「春日」などの語が登場します。それらの語は、                                           『天の原 ふり離けみれば春日なる みかさの山に いでし月かも』(『古今和歌集』巻第九)にも登場。                                           阿部仲麻呂が唐の明州(現:浙江省の東海岸)の宴席で故郷を偲んで詠んだことになっています。                                                             これへの古田氏の異論に刺激され、想像たくましくして現地(博多湾外~壱岐、アマ原圏)へ向かい、確信的直感(つまりは主観)をもって辿り着いた仮説を述べさせてもらいます。標題はズバリ『天の原はどこだ?』です。

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