Archive for 8月, 2010

歌「100語検索」 ⑦<砂>

                                                   

啄木と砂

「いたく錆びしピストル出でぬ砂山の 砂を指もて 掘りてありしに」                                                                                         「頬につたふなみだのごはず 一握の 砂を示しし人を忘れず」                                                        「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」                                                                                    「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと 握れば指のあひだより落つ」                                                                                 「砂山の裾によこたはる流木に あたり見まはし 物言ひてみる」                                                                      「ひと夜さに嵐来りて築きたる この砂山は 何の墓ぞも」                                                                               「しっとりとなみだを吸へる砂の玉 なみだは重きものにしあるかな」                                                                                               「大という字を百あまり砂に書き 死ぬことをやめて帰り来れり」                                                                               「砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日」            (「一握の砂」より)

啄木『初恋』 http://www.youtube.com/watch?v=nyvxo-qpIN0  鮫島有美子                                                                                                白秋『砂山』 http://www.youtube.com/watch?v=A0wEXBzbbwQ                                                                                         童謡『月の沙漠』 http://www.youtube.com/watch?v=yMAtRvM5CUQ&feature=related                                                                                        『錆びたナイフ』 http://www.youtube.com/watch?v=p2dSMqHn-iY 石原裕次郎                                                                        『東京砂漠』 http://www.youtube.com/watch?v=vb4IKzB4azg 前川清                                                                            二階堂CM 『砂丘の図書館篇』 http://www.youtube.com/watch?v=yftMi9cgGmA&feature=related                                                                                  『砂に消えた涙』 http://www.youtube.com/watch?v=kpSJkpMLQ9s&feature=related 弘田三枝子                                                                                                     『星の砂』 http://www.youtube.com/watch?v=tCPpyn4Cu2o 小柳ルミ子                                                                                 『地上の星』 http://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE 中島みゆき                                                                                              『八月の濡れた砂』 http://www.youtube.com/watch?v=nnHUY7Yma5Y&feature=related 石川セリ

NHK『プロジェクトX』は、成功譚・企業物語を多く扱ったが、「果たせなかった夢」「今一歩の挑戦」を扱えば、                                                                                                            もっと「見守られることもな」い「砂の中の銀河」だったろうし、「みゆき節」だったろうに・・・と思えて、残念でならない。                                                                                                                                               番組に登場した個々の方々の努力と挑戦を、いささかも軽んずる者ではありません。念の為。

                                                                                                                                        

「基地はいらない!日米安保もいらない!新宿ど真ん中デモ」

O様

27日。                                                                                                      偶然の巡り合わせで現場が近く(西新宿)だったので、帰りに 基地はいらない!日米安保もいらない!新宿ど真ん中デモ」に参加してみた。                                                                7時に着くとアルタ前の集会は終わりかけていて、デモ出発直前。若い人たちの呼びかけによるデモとのことで、確かにいつもより若い人が多い気がする。当方は共催の『9条改憲阻止の会』の発信情報で知ったのだが、若い人が居るとホっとする。                                                                                            

若い人からの質問攻めに、現在69歳の元**派議長S氏が表情を崩して、順次丁寧に答えている光景も、                                                      ネオン輝く夜の新宿練り歩きも、何故か不快ではなかった。 これはきっと、BGM沖縄音楽のせいだな。                                                                                               S氏について知人に聞いたところ、「彼は、今なお、もちろんスターですよ!」だそうです。                                                           【当夜のシュプレヒコール】                                                           ★沖縄に基地は要らない。 ★菅首相は共同声明を撤回しろ。 ★辺野古案を撤回しろ。                        ★日米安保はアジアへの威嚇だ。 ★基地の押付けは沖縄差別だ。 ★海兵隊は抑止力じゃない侵略部隊だ。                                                                                                                                                             ★県内たらい回しを許すな。 ★普天間基地を閉鎖しろ。  他

【付録】 朝日新聞:8月24日付朝刊より                                                                                                                                                                                        沖縄は早く自立した方がいいなどと議論されますが 日本の方こそ、沖縄への依存をやめて独立してほしい。沖縄が自立を進められないのは、日本が沖縄という植民地に従属しているからです。植民地とは本国が依存するものです。 (知念ウシさんインタヴュー))

読書: 『写楽 閉じた国の幻』 著者の謎解き方法論への共感

島田荘司著、新潮社、¥2500                                                                                                                                                                                     通説への異論は思想であり人生観である。                                                                 迷路「写楽探し」を解く方法論の原点Keyは、島田が描き出す板元:蔦屋重三郎の心意気にこそある。

「Fortuin in,Duivel buitenn」(オランダ語)
「フォーチュン・イン、デヴィルズ・アウト」(英語訳)
「福は内、鬼は外」(和訳)・・・                                                                      主人公佐藤が、あるきっかけ(上記の奇妙なサインのある江戸期の絵の発見)から、18世紀の大江戸で「福内鬼外(ふくうち・きがい)」と名乗ったと言われているあの著名人を追うことから始まる「写楽探し」は、とてつもない結論への序章だ(この線は結ばないのだが)。                                                                                        何という壮大な、「通説」への異論の体系! 何という「開かれた」思考回路!もちろん島田説に脱帽し納得もしてしまふ。「専門家の写楽学」への挑戦であり、もちろん小説を超えて通用する説であり、在野の「学」の意地である。                                                                                                                                                                                           けれども、島田説は、あれかこれかの謎解き選択に核があるではない。そこにあるのは、世の「通説」に、異を唱える者の・それに抗う者の、孤立無援の立ち位置だ。それは、謎解きを超えた生き様なのだ。選択ではなく、異次元への跳躍・「閉じた」発想からの跳躍なのだ。「通説」(この場合固有名詞の如何を問わず、「写楽」は絵師の誰かに違いないという通説)が生まれ、支持され、学ばれ、市民権を得て行く、その「閉じた」構造総体を相手に立たねばならないのだ。「通説」を生み出し、保障し、定着させる力・・・、「あれ」だ。                                                                                               島田は、この「写楽探し物語」と島田版:蔦屋重三郎像によって、読者に、不遇と悲哀を甘受する「在野的学び」と「異論」の原点、「閉じた国」の闇を解く思考回路をこそ提示している。                                                                                                                          写楽を探す際の前提は、「蔦屋によってヒットし」「有名」であるのに、何とも奇妙な下記①②③。そこを考えることがスタート地点だと島田は言う。                                                                                                                      ①何故、何処にも写楽の存在や生活の痕跡が一切無いのか? 表に出せないのか?                                                                        ②何故、誰も「俺が写楽だ」と名乗らないのか? 名乗れないのか?                                                       ③何故、誰も「実は彼が写楽だよ」と告げていないのか? 告げられないのか?                                                                                                              当時の江戸状況下で、①②③は、どういう場合に起こり得るか、そこを解いて行くべきだ・・・と、ここに島田の立論スタンスがある。                                                                                                                                                                       それは、ぼくが少しはかじる「古代史」でも同じで、例えば(ほんの一例だが)、学者によって五世紀天皇の誰かだとされる「倭の五王」に関するあれこれが、何故記紀に記載されていなのか? から考えてみる・・・とか。                                                            

ふと、『楽浪海中倭人あり』(漢書地理志)、『建武中元二年(57年)、倭奴国 奉貢朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす』(後漢書倭伝)、三世紀『魏志倭人伝』邪馬壱国、五世紀・宋への『倭王武の上表文』、607年隋への『日出処の天子』の国書、663年「白村江の戦」での「倭・百済連合軍」が「唐・新羅」に大敗北、そしてやがて「日本」が登場、旧唐書:《倭伝》のあとの《日本伝》『或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたり』・・・・・・、その「倭国」史の謎を思ふ。                                                                                      それらの謎が、列島内部の「通説」・「公認史」をいくらひねくっても明らかにならず、前2世紀~7世紀までの全「東アジア史」の中に晒されて初めて、おぼろに姿を現すのだという、ぼくの日ごろのこだわりが頭をもたげる。                                                                                                                                                                                                                                        己が、組織が団体が党が国家が会社が家族が、自らを把握するには、他者の中に晒されねばならない。そこから逆照射するアングルが必要だ(個人としては、全く出来ていないのだが)。そうでなければ、「親バカ」的礼賛か近親憎悪をしか生まない。海・海峡・他国・他文化・他民族、互いに照らしあうその相互関係の俯瞰。それが是非とも必要な条件だと思う。現在日本の課題一例に即して言えば、沖縄に照らされ日本が在る、日本の闇を受けて沖縄が喘いでいる。その関係把握に、構図を解き明かす回路が垣間見えている。                                                                                                知念ウシさんはインタビューで次のように語っているが、日本-沖縄の関係の核心を突いている。                                                                                                                 『沖縄は早く自立した方がいいなどと議論されますが』 『日本の方こそ、沖縄への依存をやめて独立してほしい。沖縄が自立を進められないのは、日本が沖縄という植民地に従属しているからです。植民地とは本国が依存するものです。』 (朝日新聞:8月24日付朝刊)

島田は、「通説」が生れる根拠に、副主人公片桐教授が言う「国粋主義」などが介在していることを明確に述べている。前例踏襲・ことなかれ・自己滅却と権威依存・・・それらの合体と永い時間、それが歴史的謎解きや「学問」世界をも「国粋主義」などに道を譲ってしまうのだと言っている。
「写楽謎解き」が、実ははぼくらの「通説」信仰の根拠を炙り出すのだ。
この国の歴史の謎解きに、神聖にして至高の権威が介在し、「アカデミズム」がなおその呪縛から解放されていないとすれば、この一書は大いに参考になるに違いない。
己を見つめ把握するに、教育・受信情報・友・師・親・・・我が身に棲む幾多の他者が必要なように、
列島古代史を論ずるに、「古代東アジア」の地政学的俯瞰が不可欠なように、
「写楽探し」には、当時の社会と世界、「閉じた国」からの跳躍が求められたのだ。
それにしても、島田の積年の慧眼と執念に思わず拍手してしまう。

主人公=佐藤が、片桐教授という「女神的存在」(しかも、彼女は生まれながらにして海を・血を・国を・閉じた属性を超えているのだ)に救われるという設定に、島田の「男の本質はマザー・シップである」(太宰)に似た、ことの本質に迫る者が抱える共通の想念を見た。                                                                 

主人公佐藤は、挫折と現在進行形の不遇・失意・病に在って、「通説」なるものの「勝組性」を思い知らされるのだが、そもそもそうした「勝組」が真の「学問」であったためしは稀だ。あるいは逆に、ある不遇にこそ「異論」であって「真実」である宝が生きているものかもしれない。
「写楽探し」は実は何探しなのか? への考えが、読む前と読後で違うと読者が感じるならば、島田の目論みの九割は成功しているのだ。そして、ぼくはそうした読者であった。もっとも、島田説が学術的評価(多数派になれと言いたいのではない。こころある識者からの評価も生れて欲しいと思っている)に耐え得ると直感してもいる。                                                                                    島田の「仮想」写楽が、中村座・市村座・河原崎座の寛政六年五月の興行(画はこの舞台だと特定されている)を、観ることが出来たのか否か? の結論に至るラストの大団円は中々にスリリングで楽しめもします。                                          

                                                   

おめでとう! 興南高校。沖縄びと。

歌「100語検索」 ⑥<時>-2

時とは一瞬であり、譲れない時間であり、自他で共有した時代であり、過去であり未来であり、失意であり希望である。                                                                                                                                         それは、永遠であり、刹那であり、…そして現在である。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   『時は流れて』 http://www.youtube.com/watch?v=HzQXsPlCH_c 中島みゆき                                                                                                            『時計』 http://www.youtube.com/watch?v=66WEInVQKh4 グラシェラ・スサーナ                                                                                                       『大きな古時計』 http://www.youtube.com/watch?v=0izFsxpTHKE 平井堅                                                                   『時には母のない子のように』 http://www.youtube.com/watch?v=fBwAoIsRUpk カルメン・マキ                                                                                                                                                                   二階堂CM 『刻(とき)の迷路篇』 http://www.youtube.com/watch?v=dZoxWP_mfZE&feature=related                                                                                                                              『時の過ぎゆくままに』 http://www.youtube.com/watch?v=M4O1di7fmW8 沢田研二                                                                              『時の過ぎゆくままに』 http://www.youtube.com/watch?v=vi8jk7G_b3k&feature=related リリイ                                                                                                             『時は過ぎてゆく』 http://www.youtube.com/watch?v=coiXF-PqgGQ 金子由香利                                                                                                                       『時には昔の話を』 http://www.youtube.com/watch?v=rIePRLjn8gs 加藤登紀子                                                                                 『時の流れに身をまかせ』 http://www.youtube.com/watch?v=dNnlEgVBCuc 徳永英明                                                                                        『時には娼婦のように』 http://www.youtube.com/watch?v=CZulsHllqno&feature=related 黒沢年男                                                                                                                                                                                                      『時をかける少女』 http://www.youtube.com/watch?v=yfa7apoC0sE 原田知世                                                                                                             『ひとり寝の子守唄』 http://www.youtube.com/watch?v=n3pdwn0JtWk 加藤登紀子                                                                                          『めまい』 http://www.youtube.com/watch?v=NLsL9eUKLRQ 小椋佳                                                                                                                                                 『どうぞこのまま』 http://www.youtube.com/watch?v=mU7REallq5A&feature=related 丸山佳子                                                                                                     『東京ララバイ』 http://www.youtube.com/watch?v=XEqL6NCAnpQ 中原理恵                                                                                             『ラブ・ストーリーは突然に』 http://www.youtube.com/watch?v=0DJpaHx6NEQ 小田和正                                                           『ダンシング・オールナイト』 http://www.youtube.com/watch?v=tKwwCOoCzLI もんた&ブラザーズ                                                                                                                                                                                                  『時間よ止まれ』 http://www.youtube.com/watch?v=UraeYoKaGoU 矢沢永吉                                                                                  『絹の靴下』 http://www.youtube.com/watch?v=Qy4YRt4OaX0 夏木マリ                                                              『また逢う日まで』 http://www.youtube.com/watch?v=EHwRiQk6Mdw 尾崎紀世彦                                                                   『別離-イビョル』 http://www.youtube.com/watch?v=I80RMbpDFLw ミン・ヘイギョン                                               『J(ジェイ)』 http://www.youtube.com/watch?v=BgyqOncl4Ic&feature=related 門倉有希

11月沖縄県知事選 伊波勝利を希ふ

伊波氏 20日に出馬受諾 県知事選  (沖縄タイムス転載)

来月にも正式表明

沖縄タイムス配信
2010年8月17日 09時25分 この記事をつぶやく このエントリーを含むはてなブックマーク Livedoorクリップに投稿 deliciousに投稿 Yahoo!ブックマークに登録
(10時間19分前に更新)

 11月28日投開票の知事選に向け、社民党県連、共産党県委、社大党の県政野党3党でつくる候補者選考委員会(委員長・新里米吉社民党県連委員長)の出馬要請を受けた、宜野湾市長の伊波洋一氏(58)は、20日に受諾することを決めた。同日午後に宜野湾市内で要請を受諾後、選考委と選挙母体の発足に向けた協議を始め、早ければ来月上旬にも12年ぶりの県政奪還を目指して正式に出馬表明する見込み。

 伊波氏は今月7日、選考委の要請に「普天間問題の解決のために前向きに検討したい」と述べ、出馬の意向を示していた。さらに、11日に宜野湾市内で開いた後援会の会合でも「16日から20日までの間に表明したい」との考えを示している。野党3党は、米軍普天間飛行場の県内移設反対を知事選の最大の争点に位置付けている。

 伊波氏は「基本的に私の立場と変わらない。必要であれば補強する」と評価。在沖米海兵隊の撤退や普天間飛行場の早期閉鎖・返還などを日米両政府に求めることを盛り込んだ選考委の基本姿勢を土台にする考えを示している。

 県知事選には現職の仲井真弘多氏(70)も出馬に意欲を示しており、来月上旬にも正式表明する見込み。一方、民主党県連(喜納昌吉代表)や浦添市長の儀間光男氏らもそれぞれ、独自候補の擁立に向けた動きを活発化させている。

品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ③/3

<『水城』『大野城』『嶋門』に囲まれた『倭都』の防衛網> 

②の冒頭に述べた中国「冊封制度」は、小国支配の技術的方策なので、当然一地域一王権が望ましい。唐は、朝鮮半島では、北の強国高句麗との攻防を繰り返す一方、新羅と百済が互いの覇を競い互いに唐のお墨付きを求める構図の中で、660年、百済を唐+新羅によって滅亡させる。唐が、半島南部を新羅によって冊封せんとする構図だ。                                                                                                       (5世紀475年の百済第一次滅亡は、南下拡張する高句麗によるもの)(478年、倭王武はこの高句麗の南下を「非道」と宋:順帝に申し出ており、実際百済と組んで半島へ出陣していたようだ)。                                                                              5世紀以来の、百済との同盟から、倭は質たる余豊を帰し(百済最後の王となる)、百済再興を企てる。百済救援でもあるが、ここをやり過ごせば唐が次は倭を攻めるだろう、地位をヤマトに奪われるという恐怖がそうさせたのだと思う。かつ、「ヤマト:継体の反乱531」(教科書では「磐井の乱」)の例に見るまでもなく、ヤマトが列島盟主の座をうかがっている・・・。そうした東アジア史全体構造の中で、663年、「百済・倭連合vs唐・新羅連合」の戦争「白村江の戦」が勃発した。                                                                                     だから、その敗戦の後さらなる攻撃に備えて、「水城」が造営されたとしても故なしとはしない。                                                                      だが、では東アジアの動乱の5世紀以降(つまり拡張と進撃の5世紀「倭の五王」の時代、百済と同盟して半島へ出撃・その隙にヤマト:継体に攻められた6世紀「磐井の時代」など)には、「倭都」は無防備都市だったと言うのか?

「水城」の天智期造営説に割り切れないものを感じていた研究者に、1995年ニュースが舞い込んだ。                                             発掘調査で、堤(土塁)の内部に石積みの「別の水城」が出て来た。近畿天皇家の事績として来たアカデミズム塔の先生方は何と「見つかった古い水城が天智期のもの。これまで天智期のものとして来たのは、奈良時代の増築・修復の跡」と言い出す始末。これなら、何でもありだ。記紀に合わせて、古代史脚本がある。出土物品も文書も伝承も、外国の史記も、その脚本に合うよう理解したり、脚色したりする。「ほら、記紀と一致するではないか!」と言うわけだ。これが学問か? 「魏志倭人伝」の行程・距離・方角、「倭の五王」は近畿天皇の誰かだとして強引かつ法則性も無い比定(*3)、「607年の対隋国書、日出処の天子は聖徳太子」なる無理無体……、それらと同様の常套手段だ。                                                                               ところが、朗報が届いた。九州大学理学部「放射性同位元素総合実験室」が「古い水城」の年代を特定した。                                                                                                                   西暦430年+-30年! 「倭の五王」の時代だ。天智こそ「増築・修復」役(倭からの任命での)なのだ。                                             では、本来の「水城」は、いつ、どのような目的で、どういう機能を備えた「城」だったのか?                                                                       ここで、「大野城」の特異性とワンセットで構想しつつ、「嶋門」から「倭都」現:大宰府周辺を俯瞰すると、そこに一大城塞都市ぶりが浮かび上がる。

左:現在の「水城」跡。手前(西:春日の丘陵)から、正面(東:「大野城」)に向かって一直線に堤(土塁)が延びる。壮観だ。                                    右:「倭都」俯瞰図。「倭都」が人造湖と化す「水城」の機能も、「大野城」の位置取りもよく解かる。左上(北):博多湾に「嶋門」。                                                                                                      写真・イラストとも「九州歴史資料館」1998年発行:『発掘30周年記念誌:大宰府復元』より クリックで拡大可)

「倭の五王」の攻撃性・拡張性は前頁ので見た通りだが、彼らと「倭都」は、攻撃性・拡張性がもたらす予想される「リ・アクション」にも備えていたようだ。山が丸ごと城である「大野城」には、何箇所にも食糧備蓄倉庫としか考えられない、高床式大倉庫(の敷石現存)がある。ある研究者が穀物などを備蓄したとして、数万人が数ヶ月籠城出来る規模だと試算し発表。しかし、数万人が籠城とは如何なる事態か。また、空っぽ同然になる倭都は? と疑問が残る。                                                                                                                                                                                                                                                       そこで、「水城」の機能だ。「水城」は堤(土塁)造営用土砂採取の為に掘って出来た溝に、御笠川の水を溜め「堀」にするゆえ「水城」なのだとされて来た。つまり、「水」は堤(土塁)の北:博多湾側にある訳だ。                                                                             これに対して、幾人かの論者と品川ジジイは「倭都」を空っぽにする戦術を空想した。「水」は、堤(土塁)を挟んで南:倭都側にあり、と。(堀はあって当然。堀・湖併用が答えか) すなわち、「水城」はダム、倭都は一時「人造湖」となる。御笠川の水は、ダムに堰き止められ、倭都に水が溜まり人造湖と化す。ゆえに全員退避。 最も有効な瞬間に、ダムの堰を開放、一気に大量の水を放出、水攻めを成し、「大野城」からは籠城組が山おろしの追い討ちをかける。この戦法は、対馬などからの狼煙通信などで、いち早く船団の規模を把握し、かつ博多湾岸での上陸阻止戦でもなお防げないと判断せざるを得ない危機の場合の、万が一の「捨て身の」戦法だ。「捨て身」ゆえ、一億火の玉、官・武・民挙げての総動員態勢なのだろう。(「水城」が実際の機能を果たしたことは、元寇の際も含めて、幸いにして一度も無いそうだ) いずれにせよ、「水城」は、近畿天皇家が都から遠い「辺境」の「一地方」を守る為に造ったのではなく、都督府所在地=「首都」を守る為の幾種もの防衛施設のひとつだったのだ。                                                                                                                                                                                         

663年夏8月「白村江」敗北から倭国は崩壊に向かった。それから約1280年後の1945年、同じ、倭国のDNAを引き継ぐ者の拡張性・玉砕主義・総動員態勢や半島への係わりが、同じ8月に倭とヤマトの末裔支配層の「懲りないDNA」に敗北と焼跡を進呈した。                                                                                                              20世紀の国体は奇妙な形で護持された(?)のだが、「倭国」が、671年、数千人の唐の戦後処理交渉団(?)とどのような交渉をしたのか、謎の内戦「壬申の乱(672)」を経て「倭国消滅」「政権移行」「親唐政権」を成し、国際舞台への「日本」登場へと繋いだのだとしたら、それこそ小国「東アジア合衆国」たる者の智恵かも知れない。

 ☆701年。唐、列島を代表する王権として大和を認知。呼称を「倭」から                                  「日本」に改める。(旧唐書:《倭伝》のあとに《日本伝》あり。)                                                                                                                                                            『或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたり』

黙して視ていた観世音寺の梵鐘は、これら全てを知っている。                                                                                    (観世音寺は、都督府に隣接しています)

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*3                                                                                                                  「倭の五王」はそれぞれ 讃・珍・済・興・武 と名乗り、宋書には上表文や在位期間・親子関係・兄弟関係などが詳しく記載されている。この時代の該当する近畿の天皇は、応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略と、いわゆる河内王朝とも呼ばれる古市古墳群・百舌古墳群に眠るとされている大型古墳時代の七名だ。                                                                                                  413年から478年の間に東晋と宋に9回朝貢・遣使しているので、「日本書紀」によってその時間帯に絞って比較すると、允恭・安康・雄略の三天皇となり、どうにも合わない。そこで、近畿天皇の誰かでなければならない人々は、宋書記載の年代や親子兄弟関係(が近畿天皇家のそれと合わないので)を無視したり、恣意的に和風諡号・漢風諡号から無原則に一音一字を採る(例えば「応神」の和風諡号は「ホムタワケ」だから、「ホム」の意味から「讃」。「仁徳」の和風諡号は「オホサザキ」だから「サ」音から「讃」。などなど)。 意味から辿ったり、音から決め付けたり各仮説入り乱れて言い合っておられます。 いくらひねっても無駄!「倭の五王」は近畿天皇家ではありません!                                                                                                                                               普段は記紀偏重の先生方が、宋の冊封を受け朝貢・遣使し堂々と語る「倭の五王」に限り、それを近畿天皇家の事跡として取り込みたい一心で、記紀に無記載には口を閉じ、偉大(?)な事跡に拘るのは無原則といえばあまりの無原則。天皇家とは無関係とした江戸時代の学者の方がマシかも。

-以上、06年稿を加筆修正-                                                              

 <予告>                                                                                                             上記の「倭都」「水城」の説明文に、「御笠山」「御笠川」「春日」などの語が登場します。それらの語は、                                           『天の原 ふり離けみれば春日なる みかさの山に いでし月かも』(『古今和歌集』巻第九)にも登場。                                           阿部仲麻呂が唐の明州(現:浙江省の東海岸)の宴席で故郷を偲んで詠んだことになっています。                                                             これへの古田氏の異論に刺激され、想像たくましくして現地(博多湾外~壱岐、アマ原圏)へ向かい、確信的直感(つまりは主観)をもって辿り着いた仮説を述べさせてもらいます。標題はズバリ『天の原はどこだ?』です。

品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ②/3

<『都督府』遥かなり> 

 都督は各小国に一人、都督府は一ヶ所。 (古田武彦説を基礎に)

中国「冊封制度」(コスト高の進駐しての直接完全統治ではなく、朝貢し恭順の意を示せば、その地の覇者を大中国の役職者に仕立て、属国として大中国の末席と見なす。小国の覇者の側も地域支配権を保障されるメリットを求めた。倭人伝登場の「邪馬壱国」女王卑弥呼の朝貢もこの制度下の事跡。)に基づき、倭国の王は外交を進めて来た。「倭の五王」の時代には、その役職名は「都督」であり、上表文はまず「使持節都督**倭王*」と名乗り、次いで本文に入って行く。「都督」は東アジアに広く知られる有名な語であった。常識か。                                                                                  宋:順帝へ出された有名な「倭王武」の上表文(478)は、高句麗非道を訴え高句麗侵攻のお墨付きを求めることが主眼なので、同盟国「百済」、敵対「新羅」を我が支配下と書き「渡りて海北を平らぐること九十五国」といささか背伸びしているが、半島南部の覇権空白を言いたかったのだろう(全くの絵空事というわけではない)。だが、やはり常套肩書「・・・都督・・・倭王」を自称して、次いで言う。                                                『自昔祖禰躬[*環]甲冑 跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國』                                                                                           「昔より祖先自ら甲冑をつらぬきて、山川を跋渉し寧處にいとまあらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十五国、渡りて海北を平らぐること九十五国」                                                                              これは、三つの側面から「倭の五王」が決してヤマトの王ではないことの証明でもある。                                                                                                           1.                                                                                                                                                  中国天子の歴史認識・倭の所在地理解と矛盾しないこと。歴代中国王朝の「倭」認識の延長上で把握されている事実。つまり「楽浪海中倭人あり」(漢書地理志)、 「建武中元二年(57年)、倭奴国 奉貢朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」(後漢書倭伝)【「倭」の極南界との表記。注目】、 「魏志倭人伝」等々の、あの、「倭人」「倭奴(イド)国」「邪馬壱国」の国であるとの双方の共通認識を前提として成立した上表文である。 「都督」は大中国の一地域統治者の一役職との大義名分であるから、任命者がその居所を知らぬでは、制度の根幹が揺らぐ。中国天子は、当然倭都=都督府の所在地を知っていた。                                                                                                                2.                                                                                                                                                           天智紀に、他所にもあるかのごとく「筑紫の都督府」とあり、「都督」は市民権を得た語と言うか、注釈なく通る語だった。かつ、大宰府以外を都督府として指すことは無い。現代で言えば「首相官邸」を「東京の首相官邸」と言うがごとき表現だ。「大阪の首相官邸」など無いのだから。言いたいのは、ヤマトも「九州に都督府あり」「都督府は一ヶ所」と知っていた、という蓋然性。                                                                                                             3.                                                                                                                                     何よりも、倭王武が示す自国の自称拡張史だ。この地理観、自身の場と列島・半島との位置取りは、ヤマトではあり得ない。北へ海を渡るって、海は遠いぞ、どうしろと言うのか? 

その「倭の五王」の直接の系統か別系統かは別にして、「倭王武の上表文」から約半世紀後の530年前後(531らしい)には倭王磐井(倭武など倭王の名から類推するに「倭・ワイ」ではないか)への近畿王権オヲド(継体天皇)の反乱(*1)があり、約130年後の607年には、倭王=「日出処の天子」=多利思北孤=タリシホコは、隋の煬帝に『日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや云々』で有名な国書を送る。                                                                     学校では何故か上記迄しか教えないのだが、その後段には『阿蘇山あり、その石故なくして火起こり』と自慢げに書かれている。阿蘇山を特筆する者の心情・自国把握・地理観や如何?(*2)                                                                             もはや、疑いようもない。九州、大宰府こそは、「倭国」の都、都督府、「遠之朝廷」だ。                                                              海峡人・倭人・伽耶人 が福岡県前原:日向峠近くのクシフル岳下の平野部(前原市:吉武高木遺跡、糸島郡:三雲遺跡、春日市:玖珠岡本遺跡。九州北部の出土物は、紀元前一世紀ころにガラリと一変する。金属器・金属祭器武器・鏡の多出土)に「降臨」し、やがて「邪馬壱国」を経て大宰府に倭国を建設した。その流れは、系統の連続性は別にして、5世紀「倭の五王」、6世紀「磐井」、7世紀「多利思北孤」へと継がれた。

その「倭国」の崩壊と近畿天皇家の列島覇権掌握に至るドラマは、「白村江の戦663」の大敗北が因である。                                                                                                                 当時の「倭国」がその攻撃性・拡張性ゆえに持っていたに違いない、重防衛の都市建設はどうだったのか?                                                                                                   御笠山(現:宝満山)を水源とする御笠川は、大宰府の平地を流れ、東:「大野城」の麓と、西:春日の丘陵に挟まれた狭い地峡を抜けて博多湾へ向かう。この地峡の、大宰府市と大野城市が交雑する市街地を、旧国鉄・国道3号線・西鉄・九州自動車道などが南北に走り抜けている。それらを横断して堤(土塁)が東西に伸びている。21世紀筑紫大宰府に姿を留める堤(土塁)の、巾80M・高さ10M・地峡の端から端までの延長1.2キロの偉容は、今日でもハッキリと確認できる。(次頁写真参照)  『水城(みずき)』だ。                                                                                                                                                                                「水城」は、664年、前年663年8月「白村江の戦」敗北から、唐・新羅の追撃に備え、中大兄皇子が指揮して百済からの亡命技術者の支援で造営したことになっている。近畿天皇家の皇位継承者(この時点は斉明崩御661の後の混乱?で即位せず)が、近江大津に遷都して即位(667)するまでの間に行なった事績ということになっている。                                                                                                                                          ヤマトの都は、近江への遷都前は「飛鳥」だが、次期天皇が己が都ではなく「都ではない一地方都市」防衛の土木事業に邁進…?。                                                                         列島の覇者なら地元九州に命じなさいよ。あるいは、己が都の防衛策を講じなさいや。逆に「倭都」の主に命じられたのなら分かる。                                                                                                               元々、倭の要請で出陣し 永く筑紫:朝倉に陣し、斉明崩御での「喪」を理由についに半島へは行かなかったのだから…。                                                                              一方「倭国」は、戦場で倭王=薩夜麻=サチヤマを奪われ(唐の捕虜となる)、多数の死者を出し、大混乱だっただろう。671年には、唐から数千人の使節団(?)が来倭。敗戦処理の交渉などでの苦い時間だったか。文字通り「国敗れて山河あり」の有り様ではなかったか・・・?                                                                               天智亡き(672)後、どういう勢力と勢力の攻防だったかは百説あるが、天智の皇子:大友皇子勢と、アマの音を持つ大海人皇子勢の「内乱」=「壬申の乱672」が勃発。大海人皇子側の勝利、天武天皇へ。この内乱が親唐又は唐に敵対しない政権の誕生だったとの傍証はある、との説もある。

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 *1                                                                                                                           奇妙な即位(仁徳五世の孫、越の豪族、507樟葉で即位、19年間ヤマト入りしないなど)(ヤマトの政治空白・混乱を示していると思うが如何?)をしたオヲド王(継体天皇)は、筑紫の君磐井との戦い(531)を前に、重臣トップの、物部アラカヒに向かって言う。(この戦に勝ったら)「長門より西汝制(と)れ、長門より東朕制らむ」(日本書紀・継体紀)ん? ん?                                                                                          長門(山口県)より西が磐井の支配地域なのは当然だろう。だが、よく読むと「長門より東」(安芸辺りまでだろうか・・・)にも磐井の勢力圏があると告白している。この時期「倭国」は百済と結んで新羅との戦闘状態だったが、その間隙を縫ってヤマトが攻めたようだ。                                                                                                        *2                                                                                              中国には活火山知識無いだろうと知っていた(?)か。どうであれ、ヤマトの王者が阿蘇を誇るのは不自然極まる!                                                                              聖徳太子は天子ではない。彼は女帝:推古の「摂政」である。国書において地位・肩書を偽称・僭称するか?あまりにも不自然だろう!                                                                                     また、「後宮」に女官数百人と自慢しているが、推古女帝に後宮?

-以上06年稿を加筆修正-

品川塾誇大史: 「日出処の天子」は観世音寺の鐘声を聴いたか? ①/3

<「日出処の天子」が打たせる鐘>

-以下06年稿に加筆し、一部修正したものです。-

10世紀初頭、901年大宰府の地に在った菅原道真は、都督府跡に立尽くし、観世音寺の鐘声を聴きつつ、ある諦念の中でこう詠んだ。                                                                                                      「都府楼はわずかに瓦の色を看、観世音寺はただ鐘声を聴く」(和漢朗詠集)                                                                                                                                    道真は、冤罪による左遷という自身の身の上を嘆き、その地の悲運に重ねていた。                                                                       

10世紀初年においてなお、往時の輝きを奪われた大宰府は荒涼たる気配の中に佇んでいたのだ。                                                                                              観世音寺の鐘は日本最古の紀年銘文ある梵鐘とされ、同じ鋳型で鋳造された兄弟鐘が妙心寺(京都市右京区)にある。材料の銅は成分分析や伝承から福岡県香春の産とされる。香原=カワラは「サワラ」の音からの命名に違いないが、香春岳は古代から銅の産地だ。大阪府茨木市沢良宜(サワラギ)などの例も同様に、サワラ=銅は古代史家が一致して認めるところだ。

妙心寺の梵鐘は、『徒然草』でも言及されていて、雅楽の「黄鐘調」(おうじきちょう)に合う美しい音色だという。梵鐘には鋳造年銘文が刻印されていて、戊戌(つちのえいぬ)から698年と比定されて来た。                                                                                                    698年? 「白村江の戦663」の大敗北、中大兄皇子の王権奪取~近江宮遷都(668~天智天皇。没:672)、壬申の乱(672)、大海人皇子の勝利・即位(天武天皇)(673~)、持統女帝(690~)藤原京治世~名高い内紛劇(大津皇子抹殺など)、697軽皇子への譲位(文武天皇)… その翌年ということになる。                                                                                                                   観世音寺の梵鐘鋳造を含め、近畿天皇家の事績とするのが何かと丸く治まるということか?                                                                                                                                               この戊戌の歳が60年前の638年だとすれば、何が不都合なのか。いわゆる「大化の改新645」(中大兄皇子が、母:女帝皇極の愛人=蘇我入鹿を斬った事件=乙巳の変)より以前であり、近畿王権は政権基盤建設途上であり、彼らの正史に照らせば、638年の九州に大伽藍・名梵鐘が在ってはならないのだろう。                                                                                                                                                                      逆に、九州「倭」の経過を辿れば、638年鋳造の方に歴史的整合性がある。                                                                                                                                                   607年、隋皇帝:煬帝に国書(阿蘇山あり、その石故なくして火起こり)を送った倭王=日出処の天子=多利思北孤=タリシホコは、仏教に深く帰依し、その信仰を次代・次々代へと引き継いでいた。                                                                                                                           観世音寺の兄弟梵鐘の一つ、妙心寺の梵鐘は運び去られたものだ、観世音寺の伽藍は解体・移築され法隆寺となったのだ、法隆寺釈迦三尊像は観世音寺に在ったのだ、その光背銘にはヤマトにない年号(九州「倭」年号)が書かれている、等々言われている。                                                                                             【移築?バカな! などと言うなかれ、元興寺は飛鳥寺の移築だとあんたら言っているではないか!】 【詳細は別機会に】

北部九州の「倭」や倭都の事物は、では何処に在るのか? 移築・移設・抹消されず残るものなどあるのか?                                                                                                                                                           あるのだ!                                                                                                                                              古からの外国(中国・朝鮮半島)の史料・資料、出土物品、伝承・風土記、当時の東アジアの常識、当時の地政学的地図、さらに「」、そして動かしえない土木遺構・建造物・城砦石垣・等々(多くが喪われたが…)                                                                                                                ぼくらが、大宰府政庁跡遺跡を訪ねて出会う、跡地公園にひっそりと立つ石碑の「都督府古跡(こし)」という表記、「都督」とは何か…。                                                                                                          次頁はそこからです。

歌「100語検索」 ⑤<遠>

本日のお題は「遠」。                                                                                                                           「遠」という語からすぐに思い付くのは、ぼくの場合斉藤史さんのこの短歌です。                                                                                                                『遠い春湖に沈みしみづからに 祭りの笛を吹いて逢ひにゆく』

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下記の歌曲・歌謡曲のそれぞれの「遠」は、人麻呂が「遠の朝廷」への入口「嶋門」を通過して抱いた想念にはほど「遠」いのだが、列挙してみる。                                                                                                                                                                   そこには、遠いものへのそれぞれの人の心立ちに棲む、愛憎と自戒と希望と決意が見えて来る。が、                                                                                                     時間・空間・別離・愛惜・民族受難・歴史・スケール、つまり時空…、古今東西、この人麻呂歌の「遠」に匹敵する「遠」には出遭っていない。                                                                              『大王之 遠之朝廷跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所思』                                                                                                                                                                 (おほきみの とおのみかどと ありがよう しまとをみれば かみよしおもほゆ)←  http://www.yasumaroh.com/?p=7444                                                                                           金時鐘さんの『隔たって遠い』という言い回しには、似たものを感じている。

『中央大学:学生歌』(『惜別の歌』) http://www.youtube.com/watch?v=90RhVIwux5k 小林旭                                                                                                            唱歌:『椰子の実』 http://www.youtube.com/watch?v=pr_5DlyWfL4 岩崎宏美                                                                                 歌曲:啄木『初恋』 http://www.youtube.com/watch?v=9uDjESlhcZ8 唐澤まゆこ                                                                                       『家路』(「新世界より」) http://www.youtube.com/watch?v=MCuOTM29dbc&feature=related 某市民合唱                                                                                                                                                     『別れの一本杉』 http://www.youtube.com/watch?v=sczOFEjcwck 船村徹                                                                                                                    『さらば青春』 http://www.youtube.com/watch?v=pccX0l86d7o 小椋桂                                                                                                                     二階堂CM 『遠い憧れ篇』  http://www.youtube.com/watch?v=QZa5NKq7l6g&feature=related                                                        『春よ、来い』 http://www.youtube.com/watch?v=8BP0ji08A4k&feature=related 松任谷由美                                                                                                              『俺たちの旅』 http://www.youtube.com/watch?v=FaiV-cFAIRA 小椋佳                                                                                                   『遠くで汽笛を聞きながら』 http://www.youtube.com/watch?v=Lg8NIweawDo アリス                                                                                                            『遠い世界に』 http://www.youtube.com/watch?v=E_9Q3ddEGvY&feature=related 五つの赤い風船                                                                                                                  『銀色の道』 http://www.youtube.com/watch?v=NTUWcIIembw&feature=related ダーク・ダックス                                                                                                                                        『万里の河』 http://www.youtube.com/watch?v=Gu0QlwDHaQE CHAGE&ASKA                                                                              『サライ』 http://www.youtube.com/watch?v=drBC-s9pOE0 加山雄三・谷村新司                                                             『あぶな坂』 http://www.youtube.com/watch?v=I55y-q4U7Eg 中島みゆき                                                                   『忘れられるものならば』 http://www.youtube.com/watch?v=8JgSjGqNEvw 中島みゆき

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