追悼: 1960年6月15日樺美智子さんの死 から50年
6月15日、梅雨入り前の薄曇。 日ごろの行ないが良い(?)のか、巡り合せなのか赤坂の工事現場にいた。 国会議事堂まで徒歩20分圏だ。近いので、昼休みに向かった。12:00から樺美智子さんの追悼集会がある。 50年前の今日、1960年6月15日、日米安保条約の改定に反対する全学連主流派(安保BUND)ら学生が 南通用門から国会内に突入。混乱の中、東大生樺美智子さんが死亡した。警察は転倒による圧死と発表し、 全学連は官憲の暴行による虐殺だと告発した。 60年安保フォトギャラリー: http://www.arekara50.org/gallery/ 安保BUND書記長:島成郎 : http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1101872026/subno/1
12:20に南通用門に着いて、献花・焼香した。 当時樺さんと共に活動していて東大生だったという古賀康正氏、他に蔵田計成氏・三上治氏、塩見孝也氏などから発言があった。いずれも、ひと世代上の人々だが、こんな発言が耳に残った。 『人は二度死ぬ。一度目は生命の終わり。二度目は人々の記憶から消えること。 樺さんを二度死なせてはならない。樺さんが目指したものを記憶から消してはならない』 『50年経って、今ほど日米安保が、戦後そのものが、問われている時はない。あれほどの国民運動だったが、安保体制は沖縄への基地集中という遺産を遺したまま生きている』 『私を含め安保全学連、安保BUNDを構成する者の辞書には「沖縄」はなかったと思う。そのことを真摯に認めたい。50年経ってぼくらが出した回答が「民主党政権」による先般の「日米共同声明」では・・・・。樺さんが生きていたら、きっと「それは違うんじゃないかしら」と言われるだろう』 みなさん、さすがに弁舌達者。 最後に全員で黙祷していると、右翼の街宣車が大音量でやって来て、吠えた。 『祀り上げるよりも、女子学生一人助けられなかった無計画・無謀・無力を恥じよ!』 『女子学生が官憲に殺されたと言うが、テメエら身内同士で一体何人殺したのだ?』 彼らに言われる筋合いはないが、それも遺産だ。悔しく耐え難いことだが、50年の中には間違いなくそのことも含まれている。
昼休憩が終るぅぅ・・・・・・一時半に資材が来るぅ~・・・。あわてて現場に戻った。 右の二葉は献花・焼香して佇む元某派議長S氏。