読書: 「鎮魂歌」ゆえに「応援歌」 熊沢誠著 『働きすぎに斃れて』

熊沢誠著:『働きすぎに斃れて』(岩波書店、¥3200、380頁) -勤労者の価値観の総体変更への勧めだと読みたい-                                                       本書を手に取ると、ズシリと重く(岩波書店、¥3200、380頁)、読むとそれは、書かれている事態の重さと著者の想い(怒り、鎮魂、共感、無念、遺された者への応援歌)が積もった重さであった。  が、一気に読んだ。

感想を書こうと思いつつ、今日までその「重さ」に圧倒され、又苦手な社会科学書の中身を伝えたいという柄にもない欲に邪魔されて書けなかった。ぼくとて、映画を見て胸詰まったことはある、例えば一昨年の『ぐるりのこと』(橋口亮輔監督)。小説を読んで落涙したこともある、例えば昨年の『八日目の蝉』(角田光代著)。  だが、これまで社会科学の書物を読んでそれはなかった。ところが、本書を読み進めていてそれに遭遇した。

本書は、読者の多くが「これは私のことだ」と思える、日本の労働現場を覆う「強制された自発性」の果てに「斃れるまで働く」者の葬列に寄り添う者・立ち会う者からの、鎮魂と告発の書なのだ。背表紙にはこうある。

『死にいたるまで働く人々、それはまるであなた自身の姿ではないか――。ふつうの労働者が「しがらみ」に絡め取られながら限界まで働くことによって支えられてきた日本社会。そのいびつな構造が生み出した厖大な数の過労死・過労自殺の事例を凝視し、日本の労働史を描き出す。現状を変えていくための、鎮魂の物語。』

労使関係論の学者、科学者熊沢誠が、込み上げる感情に筆を奪われまい、「科学的」でありたいと、抑制・苦闘した跡が、行間のそこここに溢れているのだが、その感受性に裏打ちされた筆致は、さながら作家が書いた「物語」の様相を呈してもいる。もし、これを情緒的だと言う者がいるなら、そうではないと断言しておきたい。

優れたドキュメント映画がそうであるように、優れたルポは人の心を揺さぶるのだ。 情緒的なのではなく本質に迫っているのであり、「物語」なのではなく調査・資料に基づく詳細なルポである。情緒の物語が、涙を流したところで終わるのなら、これはそこから始まるのだ、直接性の世界が・・・。

読者には、否応無く、本書が言う通りの「強制された自発性」に追われた昨日・今日の職場があり、「名ばかりの管理職」の激務に苛まれる明日の仕事がある。人生の大きな部分を占有している労働の「場」、出口のないその「場」を変えてゆく方策を掴まなければ、「燃え尽きるまで働き」「斃れる」のは「ひと事」ではなく明日の自身かもしれないという、追い詰められた者の臨場感が在る。

証券マン・教師・トラック運転手・介護士・ファミレス店長・電気工事者・自動車工場・設計技師・精密機器産業・銀行員・システムエンジニア・・・、そこには「名ばかり店長」「派遣や請負の非正規社員から管理職社員まで」の葬列があり、「いじめ」とパワハラがあり、ブルー・ハーツの歌のごとき「弱い者が夕暮れ さらに弱い者を叩く」という風景があり、それを奨励して「統治」する日本の労働現場の「構造的ひずみ」、つまりは成果主義・ノルマ・強制された「自発性」・提案や反省文の強要・連帯責任・度外れたサービス残業・全面屈服を前提に成る人事考課・派遣請負化・・・積年の労使共謀による合作たる「共助風土の解体」が在る。

裁判や労災認定申請の過程の記録を駆使した、50を超える詳細な実例記述は、斃れてしまった当事者の無念を超えて、「死に立ち会う者」の心労と共感を超えて、企業への怒りを超えて、制度・人的環境(仕事仲間、労働組合)への告発を超えて、実は当事者に撥ね返って来る課題を抑制的に・控えめに浮かび上がらせてもいる。

その「超えて」に必要な方法論を、労組や周囲が「示して欲しかった」、自身が仲間・家族などの助力を得て「見出して欲しかった」という鎮魂・無念の記は、一義的に個人に責があるのではないと解明する論証だ。

映画『ぐるりのこと』を思い出していた。

この映画は、待望して身籠った子の死から、こころのバランスを崩しやがてこころを病んで行く妻、その妻を何とか支えようとする夫。妻が再生への入口に立つまでの夫婦の日々を描いている。靴修理の仕事から「法廷画家」に転職した夫は、最近の、凶悪・悲惨・冷酷犯罪の裁判と関係者を目の当たりにする。 人や社会との関係も成立し難い病に沈んで行く妻を支えようとする夫の、こころを広げ浄化し高めて行ったものが、逆に「法廷」で知る眼を覆いたい事実だったことを通して、ある「可能性」を示していた。事件の悲惨、被害者の無念や打ち砕かれた未来・希望、加害者のこころの闇・・・、その「公的」意味を自己の内に刻み蓄積できた者だけが持ち得る、ある「可能性」を・・・。

そして又ぼくは、昨日のニュースが伝えた制度開始一年の、「裁判員」体験者へのアンケート結果を考えていた。アンケート結果は言う。大多数の人が、「社会全体のことを考えるようになった」と答えていると・・・(裁判員制度自体への評価は保留とします)。 人は、個々の悲惨や受難の具体を知ることを通してこそ、「社会全体」を考える「能力」を持っているのだ(とばくは確信している)。

又、情理を尽くした誠実な記述をもって、読者を「労働」と「日本の労働現場」の全体を思い起こさせる「場」へと導く、その「力」を持っていた。加えて、事態は今日の明日の我が事なのだから・・・。

本書は、ぼくのような社会科学書苦手者に棲む「苦手」理由を覆して、その論旨を一般読者に届け得た、たぶん数少ない書物だと思う。それが、著者の「隠し切れない」感受性に負っていることは間違いない。

労働→生産→購買消費生活→社会的位置→夫婦・家庭→趣味娯楽→子を巡る願い→労働→生産→・・・・・。 勤勉に付着している、出来れば「出世又は安定」したいという「在ってしかるべき意識」、購買・消費の底にある「誘導された欲望」、家庭運営の基本に居座っている「人並み」な水準を家族に与えたいという「横並び強迫」、けれども自身の労働、明日また繰り返す労働は、その「欲望」を前提にした「不要不急のモデル・チェンジ」に類する作られた消費欲望に相応する生産の、自身によるその再生産なのだ。環状にしてエンドレスの、この強固な輪。そのどこか一箇所でも「断ち切る」ことが出来たら、強固に見え不変に思える輪は、形状を維持できず見る見る溶解し、姿を変え、風景は変わるのではないか? 企業が、そして多くの場合労働組合までもが、その輪を打ち固める側に在る限り、ぼくら自身が、まず、その輪の切断可能な箇所を「エイヤッ」と「断ち切る」。ぼくらのそうした挑みが、勤労と生活を覆う自身の価値観総体の変更(下記の著者結語にある「集団主義」)への、出発点だと思うのだ。それは、「自己責任」論と聞こえそうでそうではない、ささやかでも根本的な、生きることの「自己決定」なのだ。   玉子が先かニワトリが先か?  企業の政策や職場の人的環境や労働組合自体の、永い変更への架橋を築くためにこそ、いま玉子が先なのだ。「反:自己責任論」に立てばこそ、いま、ぼくたち自身が「価値観の総体変更」を獲得するために、時に頑ななプライドに縛られ、時に生活的強迫や弱さから、時に上昇志向から、そのままにして来た輪の一部を、「断ち切る」のだ。そう思って部厚い本を読み終え、再度開いたりしていた。

著者の結語はこう「全体」を語っている。

『80年代以降の新自由主義がなお勢力を保ち、働きかたの「個人尊重」論がもつ惰力としての受難の「自己責任」論によって、目前の働きすぎとワーキングプアの併存すら一定不可避なことと見なされもする現時点では』 『形成されるべき労働者像とはおそらく、価値基準としては、自分にとってかけがえのないなにかに執着する「個人主義」を護持しながら、生活を守る方途としては、競争の中の個人的成果よりは社会保障の充実や労働運動の強化を重視する「集団主義」による――そうした生きざまの人間像であろう。』

【余談】(以下の感慨はぼくばかりではないだろうと想像します)

①学術書では、裁判資料の引用時に、裁判官氏名の記載が当然なのだろうが、裁判官の「諭し」や「叱咤」にはある「誠実」が読み取れて、時にそこに聞き流せない重量があったと認めたい。氏名表記の連続に仕事仲間や労組が、裁判官から「諭される」(裁判官が保持している「人権感覚」さえの欠如を指摘される)がごとき事態への、著者の想いが伝わって来て本書の立ち位置が沁みて目からウロコ。

②中部電力主任焼身自殺の事例。激務から「限界」にいた夫に対して、妻が「声さえ掛けられなかった」ことに、被告代理人たる女性検事が「何故」「カクカク云々と声掛けしなかったのか」と追求する場面がある。著者の記述の底に、「おんながおんなを貶めること」の二重に屈折した「権力性」への怒りを読んだ。女性が「国家」の意向(威光)を背に語る構図の引用に、著者の、女性観や女性へのまなざしや共感を垣間見たのは、ぼくだけの読みすぎだろうか・・・?。 

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