交遊通信録&歌遊泳: M氏の 『戦争は知らない』、五月の工場
音信不通の先輩Mさん。
今日、東京は2時を過ぎても快晴でした。五月の蒼い空を見ると、あなたを思い出します。どこでどうしています?
70年が明けて月が変る頃、ぼくは行き場も無く、後年妻となる女性の狭い下宿屋に転がり込んでいた。
ある日、ぼくの部屋にも来たことなどない先輩Mが唐突に訪ねて来た。ひと時雑談を終えると、
先輩Mは、ぼくに「今後は、お前とは会えないと思う。最後なので歌を唄う」と言って、『戦争は知らない』を唄い始めた。
聞いたことはあったが、通しで聞くのは初めてだった。突然のことであっけにとられたのだが、意外に上手かった。
誰の歌かと訊くと、カルメン・マキだと言う。Mは四番まであるその歌詞を、最後まできちんと唄ったと思う。
ぼくたちは大きく拍手し、Mは黒い顔を赤く染めて照れていた。部屋の主はお茶の一杯も出したのだったろうか・・・。
当時、MはK大「*共*」の重要な役をしていて学内「有名人」だったのだが、最後に苦い表情で改まってこう言った。
「俺、卒業するんや。苦労して大学へ行かせてくれたお袋、年老いたお袋に、卒業証書見せんならんし・・・。お前なら解ってくれるやろ。」と。
誰彼が「卒業試験粉砕」などと言っていたのだったか、あるいはK大「*共*」の要求や闘争が店晒しのさ中に卒業とは何事か、
それも重要な役のMが!との学内「世論」があったのだろうか? 「お前なら」と言われては困ったが、
ぼくに「解ってくれる」雰囲気が漂っていたのだろうか・・・? ぼくにはMの選択を非難する気は起こらなかった。大学というものにも、
卒業ということにも、何らの執着もこだわりも持たなかった当時のぼくは、ただ「ふ~ん、そうなのか」と思うばかりだった。
それはそれでいいじゃないかと受け止めたと思う。 いや、それ以前に進退極まった自身のことで精一杯だった。
だが、こだわりや執着があるのに、苦渋の果てに卒業を拒否した人々にとって、それは許せないことだったようだ。
その日その部屋その場面の記憶は鮮明なのだが、Mが仲間に、とりわけぼくに、何故、何を言いに来たのか、よく分からなかった。
やがて大学を除籍となったぼくは、後年、勤務先で労組を結成し争議となり、77年2月、組合つぶしの破産に直面する。
風の便りにMが南大阪の工場で「破産法」下の職場占拠闘争を闘っていると聞き、晴れわたる1977年の五月、破産争議のイロハを聞こうとMを訪ねた。
職場占拠の防衛戦に必要な各種法的対策、自主経営企業設立の方法、破産法闘争のありとあらゆる智恵を授かった。今も感謝している。
そこで初めて、Mが大学卒業を高卒と「詐称」し、いわば目的意識的に「労働戦線」を選択して南の工場に就職したという経歴を知った。
そのことを特段立派だと思ったのではない。その時の心は、卒業試験を受けるというMの選択を追認した心と、ぼくの中で繋がっている。
それらはいずれも、明治以来、(亜)インテリ層(?)青年が直面した、「現代」に普遍的な岐路であり選択だったと言えなくはない。
人の、たぶん切実であろう選択にはそれ相応の重量があり、その重量を背負う、あるいは背負い切れない、それは当人だけの荷物だ。
Mの卒業を非難した人の多くがやがて卒業し、学生当時の言葉と行動からも「卒業」して行ったことも事実だ。
けれど、人々が、その卒業が生きて行く為に必要な条件の一つであるような現実を生きながら、なお「卒業」しない事柄を抱えて生きる限り、
そしてぼくらが、何事からも「卒業」しないような「愚かさ」からは「卒業」すべきだと痛く自戒する限り、そこに軽重は無く、
それぞれの数十年はいわば「等価」なのだ。ぼくとMなら、自主経営企業をそれぞれの理由で破綻(ぼくの場合は破産)させたのだ。
カルメン・マキ『戦争は知らない』を聞けば下宿屋の光景が浮かび、五月の青空を見れば油にまみれたその工場内部を思い出す 。
その両方に、その日のMが居る。
両方を繋げば、「学内闘争は気にはなるし、立場もよく承知している。が、自分は卒業もして労働戦線の生産現場へ行く」そう言いに来たのだと、
「欺瞞的」だと受け取られまいとしてか「高卒で行くのだ」とは言わなかったのだと、ようやく理解できる。
もっとも、「労働戦線」という言い回しは、当時も今も好きではないのだが・・・。
Mさん、どうしてます? 芋焼酎呑みましょ。何がどうであれ、会社破産後の自主経営を、
破綻させてしまった者同士として・・・。
今度はぼくが言いましょう、「あなたなら解ってくれるやろ」と。