つぶやき: 労働の原圏
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この業界(内装施工業)に永く居る。
74年にこの業界に入り労組結成、 3年後に勤務会社が組合潰し目的の偽装破産をし、
自分たち(労組)で会社を立ち上げ同業を継続して20年、
98年にその社を破産させてしまい、
フリーターの果てに行くところもなく同業社に拾われ・・・てな具合で、
出入りはあるものの業界在籍期間は合算30年強になる。
考えてみると、その期間の大部分はいわゆるホワイトカラー・デスクワーク中心の
管理者・企画者・営業畑そして経営だった。
現場に出かけてその「裏方」の作業工程を見ることはあっても、
それを身をもってつぶさに知り体験することは、ほとんどなかったように思う。
今回(06年~)の東京単身赴任は、一からの支店開設(現在は3名)・人が居ないなどの条件下、
あれもこれもしなければならず、ほぼ初めて「裏方」を常時体験している。
具体的には、施工開始前の搬入経路の養生・現場全面養生・墨出し作業・
日々のゴミ片付け・資材什器の搬入・施工終了時の大量の廃材の搬出と積込……
それらを、永く見て知りながら自身が行なう事はほとんどなかったのだ。
だが、これが「奇妙な心地よさ」でもあるから不思議だ。
ここを知らないまま、自主経営時代の多くの施工例(中には名の通った店もあるのだ)を、
我が実績のように考え自惚れていたのだ。
だから、今回(06年~)の体験はぼくにとっては、実に良かったし、
リタイアを間近にした時間に、こうした経験を得たことは貴重なのだ。そう考えることにしている。
労働が細分化され、働く者が労働の先の全体像が見えない(想い描くことさえ不可能な)
構造の中では、人々が共働概念を持つこともまた困難な現代社会・・・・そこが恨めしい。
以前、大手金融機関に働く知人がある時「我々虚業は・・・」と自嘲気味に語ったのだが、
ぼくは、そこにある誠実を感じたものだ。
現代社会は人間の労働を、人から遠いところへと持って来たのだなあ・・・とは思う。
だが実は、「現場性」や「全体性」というものは、働く者が本来乞い願っている要素かも知れない。
であるなら、労働の細分部門性・専門性・個別性を不断にシャッフルして、その乞い願う要素へと
仮解放する手立てを「労使」が試行しないことには、労働を人に取り戻す道は遠い。
効率や品質維持に影響が出ない範囲の現場体験を工夫してよいのではないか?企業にそんな余裕はないだろうが・・・
製造過程や施工過程、運搬や在庫管理の「現場」に一時関わる・・・それだけでもずいぶん違うのではないか?
いや無理か・・・? グローバリズムは「労働の原圏」のより一層の解体過程でもあるのだ。
熊沢誠先生にこの辺りの「論」があったように思うのがだが思い出せない。
もちろん、ぼくは、元々不足する体力的にも年齢的にも、「しんどい」のである。
出来ればご容赦願いたいと、その渦中では考えてしまっている。
現場ラストの擬似達成感に騙され(?)、「内装乞食」を続けている。
(「河原乞食」とはよく言ったものだ。一度味わえばやめられないのが「乞食」だそうです)