Archive for 1月, 2010

つぶやき: 太陽の国 -天皇在位20周年慶祝-

EXILE、日出る処の天子、内館牧子。
 
 リダイアリー
(昨年)11月12日、天皇在位20周年慶祝式典があった。
政権(民主党)の主だった面々の参加があり、組曲『太陽の国』が演奏された。
秋元康の総合プロデュースで、序曲「太陽の種」・舞踊「太陽の芽」・歌唱「太陽の花」の
三部構成で成っており、EXILEが二部の舞踊と三部の歌唱を演じた。
秋元康に対しては、映画『象の背中』にイチャモンを吐いたことがある。
 
 映画『象の背中』(原作:秋元康)を観た。肺癌から全身転移で逝くことになる夫(役所広司)、その妻(今井美樹)、夫の愛人(井川遥)、                         仕事関係(益岡徹、伊武雅刀)や高校時代の同窓生(高橋克実)、子供たち、故郷の兄(岸部一徳)・・・、
 謝っておきたい人(笹野高史)、昔、想いを告げられなった初恋の人(手塚理美)(実際会いに行く)・・・
 身につまされるストーリーなのだが、そして役所はぼくなんか
 とうていそのように振舞えまいと言えるほど立派なのだが、優秀サラリーマン然として、
 夫婦のドロドロも親子のなじり合いも、未然に防止するその立派さには脱帽だ。
 「最期の半年の中で夫婦として向き合う」(案内パンフより)と言われても、
 都合のいい妻であり、物分りのいい愛人だなあ、と皮肉の一つも言いたくなるのはぼくだけか? 
 エリートサラリーマンが周りを意識して語る「我が家」でしかない。
巷では、23年ぶりに復縁した玉置浩二と石原真理子が「今度は迷惑をかけないように願います」(お前に何の迷惑をかけたと言うのだ?)                            とそれを食い物にして来た芸能記者からバッシングを浴びている。たとえ近々また別れたとしても、                                             石原より、この妻や愛人の方が
人として尊重されていると、断言する気にはなれなかった。
 剥き出しのドロドロ関係と奇妙な復縁を演じる玉置・石原カップルの23年間、
 癌による最期の半年を過ごしたこの夫妻の、それまでの23年間、そこに軽重はない。
 その時間は当人たちだけのものだ。 と。
 
今回、その秋元が奉祝曲作詞と聞いて「奴らしいな」と思っただけだった。
ところが、観たTVニュースはこう言ったのだ。
『「太陽の国」というのは、申すまでもなく「日出る国」から来ています。天皇家の祖先聖徳太子が
大国「隋」にたいして堂々と「日出る処の天子」と述べたあの故事に由来しています』 ん?
ぼくの持論がムクムク。在位20周年を奉祝するのは勝手だが、「日出る処の天子」について、
誤報を振り撒くのは止めてもらいたい。何が「申すまでもなく」だ!
秋元は天皇・皇室を称え、同時に「日出る処の天子」(何故記紀に記載なく、中国史書にしかない? 記載された「一書」は何処に消えた?)を巡る
謎を封印し、近畿天皇家にまつわる事跡だと決め付ける役割の一翼を担っているのである。平然と・・・。(09.11.20)
 
サブカル「軍国礼賛」、タレント「皇国史観」、文化人「歴史改竄」・・・その波及力、侮ってはなりませぬ。                
 
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上記リダイアリーをブログに転載して青物横丁の喫茶店へ歩く。スポーツ紙を観る。
昨10日。大相撲初日、またぞろ内館牧子女史からお小言。
朝青龍の懸賞の受取方が、作法にもとると言っておられる。感謝と礼儀を込めて
丁寧に手刀を切って受け取る。ぞんざいな鷲掴みは無礼だ。
それは、そうだろう・・・、その通りだと思う。作法の問題だ。
『手刀は神事に基づく作法という説もあり、左は「神産巣日神」、右が「高御産巣日神」、中が「御中主神」、いずれも五穀豊穣を司る神様への感謝の意を表したものだということです。
ただ木村庄之助氏は「この説は後付けで、第一、神様を片手で拝むなどおかしい」とし、名寄岩が「ありがとうございますという感謝の気持ちを表したくて、「心」という字を手刀で書いている」という話に皆が感動して広まったという方が、よほど信憑性も高く良い話だと語っています。』
http://blog.ko-blog.jp/aburajin/kiji/9010.html 油・量り売りのお店「油甚」さんHPより)
ところが、新聞によれば、女史は「両陛下の前で非礼である」との言い分で吠えている。
初日天皇皇后が何年ぶりかの観戦だそうで、普段とは違うのだぞと大いに怒っているのだ。
これが、この脚本家の正体なのだ。文人(?)に於いても敗戦後65年は無効にして、戦前と地続きなのか?
創作の根本=至高の権威に照らして自己の営みの証しがあるのではなく、
創るということそれ自体の犯すべからざる自律を目指す=を考えている者の発言ではない。
 

交遊通信録: カルメン・マキ ライブ

K・Tさん。 インフル直しなさいよ。お大事に
  
カルメン・マキ ライブ に行きました。
 
カルメン・マキ ライブ。1月9日(土)、外苑前のライブ・ハウス「Z.imajine」。19:00会場、19:30開演。
60年近い付き合い(つまり幼なじみ以来)のデザイナーを誘ったが、新型インフルでダウン中。独りで出かけた。
40席そこそこの席は6割程度の入り。
根強いファンなのか最前列に陣取った数人の会話を、開演までの20分間 聞いていた。
東京近郊だが遠方から来たこと、年食った青年は「画家」であること、東京近辺での
ライブは欠かさず来ていること、OZ以降の詳しい経歴を語っていた。中身の記憶は曖昧なので、
コアなファンがブログで語っているのを拝借する。 
 
『69年に「時には母のない子のように」を大ヒットさせるも、
 アイドルの地位を捨ててロック・ヴォーカリストに転身し、
 一時代を築き上げ、現在ではJAZZや、ピアノをバックに詩の朗読という新たなジャンルにも挑戦され、
 進化し続けている女性スーパーヴォーカリスト<カルメン・マキさん>。
 マキさんのことは80年代のメタルブーム時にジョージ吾妻さん率いる<5X>のヴォーカリストとして
 活躍されていたことしか知らなかったのですが、
 数年前に友人にマキさんの素晴らしさを教えてもらって、
 改めてBlues Creationやマキ&OZ、そして最近のソロアルバム等を聴いて
 すっかりその類まれなる歌唱力に惹かれてしまったんです。
 そして2007年4月にはじめてライブを観にいってめっちゃ感動したんですよね。
 その後何度かライブに足を運んだんですけど、ここのところご無沙汰しておりました。
 そんなときにこのブログ用にBluse Creationのアルバムを聴いて再びマキさんの歌が聴きたくなって、
 近くで行われるライブの機会を待っていました。
 するとたまにおじゃまするJAZZスポットのスケジュール表にマキさんのお名前を見つけて速攻予約。
 当日を楽しみにしていました。』  なるほど・・・・。
 
57歳に相応しい風貌で現れたカルメン・マキは堂々としていた。
のっけからその歌唱力に脱帽。天性のものなのか、ホントに上手い。
声が出ない、声量が足りない、かすれる、はずす、うわずる・・・など全く無い。
奥から響く声は、40年前とは違う身体を得てそこを通って巾と艶とリキがあり、
それこそ人生の喜怒哀楽の味と香りを得て、ゆるぎなく主張しているのだ。何を?
それは、40年唄い続けてきた「おんなカルメン・マキ」のいわば到達点だ。圧倒された。
青年画家とお友達になってマキの「追っかけ」になろうかな・・・・。
購入したCDにも入っている『にぎわい』(曲:かまやつ ひろし、詩:浅川マキ)は覚え易く耳ざわりのよい歌だ。覚えよう。
最後に唄った歌、仲間の若いヴァイオリニスト: きた・なおきさん(?うろ覚え)の作曲だという 『ありがたき不幸せ』、
これが中々の名曲で、ふと、あがた森魚を思い出す。
音階が宙空を不安定に泳いで、ぼくらには唄い辛い曲だと思うが、傑作だと思う。
マキさんの紹介では、この きた・なおき さんは「大の啄木ファン」だそうで 「なるほど・・・」 です。
40年ぶりに再会したマドンナが、期待に違わずオーラを放っていた・・・・・・そんな気分でした。
ミーハーとしては、購入CDにサインをもらいました。お宝にします。         
右は、伝説のロック・バンド 『カルメン・マキ&OZ』(75年前後)当時の彼女。後年、「早すぎたロッカー」とも呼ばれたという。 
OZ時代のライブより  『空へ』:http://www.youtube.com/watch?v=d9JyELDnLNk&feature=related
彼女の中に棲む、ユーラシア大陸の西の果てのその先の島:アイルランド、東の果ての島:ジパング、そして流浪の民:ユダヤ・・・、
予定調和の演歌にも、甘いフォークにも納まり切ることのないカルメン・マキの世界。充たされることなく彷徨しただろうか・・・?                                              自己表現としては、音楽ならロックが一番近いかな・・・そうだったんだろう。          
最近、朗読を始めているというのも分かる気がするのだ。

                                                     

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購入したCD『ペルソナ』(ジパング・プロ)には、
『にぎわい』や朗読とともに、初出から40年後に唄う
『戦争は知らない』が入っていた。
味わい深い。

歌遊泳: 人生いろいろ 咲き乱れたい

浜口庫之助さんを偲ぶ
 
品川宿から仕事や遊興や時に**に出かけるに、普段は「新馬場駅」から京急に乗る。
「新馬場駅」は、運河を挟んで北馬場駅と南馬場駅と二つ駅が在ったのを、
運河を跨ぐひとつの駅にした駅らしい。だから、やたら長い駅なのだ。
が、各停しか停まらないので、急ぐときはひと駅蒲田寄りの「青物横丁駅」へ歩く。
ここなら、各停・急行とものOKなので、すぐ乗車できる。
その「青物横丁駅」のホームに流れる曲(駅のテーマ曲?)が、何と島倉千代子の『人生いろいろ』なのである。浜口庫之助の作だ。
訊くと、お千代さんの出身地だそうだ。『からたち日記』の娘は、実家が反対する結婚とその離婚、取り巻きにむしり取られた数億の借金、                        姉の入水自殺・・・。  戦後社会と私的『人生いろいろ』を生き抜いたのだった。アッパレ!
小泉のふざけた国会答弁でさらに有名になったが、87年発表の歌で、90年代カラオケ全盛期に
おばちゃん達が軽快に「人生いろいろ、男もいろいろ♪」 「女だっていろいろ咲き乱れるの♪」
 と唄うのを、ぼくはいささかの嫌悪感を持つこともなく観て聞けたと思う。
吉本マザー・シップ論を持出すまでもなく、母性の底力(?)のひとつは「開き直り」と言っては不正確、「乗越え」と称すべき転位なのだ。
「おんな」「女」「女性」が、この「境地」(?)に立つまでの道のりは100人100様、茨の道か、蛇の道か。
「青物横丁駅」では、この曲に背を押されて乗車するのだ。何と心強い(苦笑)ことか!
 で、品川たそがれ親爺はいつ咲き乱れるのかね?
 
『有難や節』(60年 守屋浩) http://www.youtube.com/watch?v=mZCPcWR2EdA
『バラが咲いた』(66年 マイク真木http://www.youtube.com/watch?v=WIfCZXvAR6c&feature=related
夕陽が泣いている』(66年 ザ・スパイダースhttp://www.youtube.com/watch?v=TqU7oIg1I8c
『夜霧よ今夜も有難う』(67年 石原裕次郎http://www.youtube.com/watch?v=56IrKvDtSJY
『粋な別れ』(67年 石原裕次郎) http://www.youtube.com/watch?v=qvlNS1x7dCs
『花と小父さん』(67年 伊東きよ子、植木等) http://www.youtube.com/watch?v=HWjA90042fo 植木等さんのは見当たりません。
『みんな夢の中』(69年 高田恭子) http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=16vZEfMig1c&feature=related
『空に太陽がある限り』(71年 にしきのあきら) http://www.youtube.com/watch?v=Z2B1tVf_5fA 
『人生いろいろ』(87年 島倉千代子) http://www.youtube.com/watch?v=vZ5VWKeWfcA
                                                              http://www.youtube.com/watch?v=lJOH9NN_TMA
 
40年前、20歳を数年過ぎた小僧だったぼくに、たぶん19歳だった小娘が、
流れていた伊東きよ子の『花と小父さん』を指して、「これ、エロチックでしょう?」と言ったのだ。
「おいおい、分かっているのかい?」と思ったが、
例えば小娘が背伸びして言う「精神的娼婦」という言葉のように空回っていたとしても、
借物の党教義をオウム返しにしか語れない左翼小僧よりは誠実だったような気がする。
その元小娘とは今も交流があるが、彼女は『花と小父さん』から『人生いろいろ』までの時間を、
たぶんその「誠実」(?)を抱え持って生きて来たのだと思わせてもくれている。
浜庫は、そうした「危うく軽い」かつ「適度に重く」「したたかな」人生を肯定的に呑み込む「大物」だったと思う。   90年12月没。合掌。

品川塾誇大史: 100枚限定鏡が500枚出土…? バーゲンか?!!

F・K さん 
 
正月早々、産経新聞(他にも出てるかも)が、「卑弥呼の鏡」と大騒ぎ。読まれました?
決着済みのことですが、「なるほど、邪馬台国はやはり奈良か・・・」と思われても悔しいので、反論しておきます。
 「邪馬台国」(「邪馬壱国」なのだが)を奈良盆地に持って行く為の外堀埋めの一環です。マスコミの煽り・扇情誘導・お上の意向…、                   報道姿勢(大本営発表、イラク戦争、普天間・辺野古、日米信頼関係の危機?報道)は変わりません。
 
 
大量の鏡が出土した桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)。
出土品には中国の年号「正始元年」(240年)と刻まれた鏡と同じ鋳型製の鏡片も含まれていた。
同年は邪馬台国の女王・卑弥呼が中国皇帝から金印や鏡を受け取ったとされる倭国の“メモリアルイヤー”。                                                          被葬者が卑弥呼から直接譲り受けた可能性もあるという。
『正始元年鏡は卑弥呼が中国から授与された可能性が極めて高い』 と指摘するのは、
福永伸哉・大阪大大学院教授(考古学)。桜井茶臼山古墳を280年代築造とし、
被葬者が正始元年当時に20代で、60~70歳で亡くなったとすれば、
『生前に卑弥呼から鏡を直接もらったとも考えられる。
邪馬台国と大和政権を結びつける重要な史料』 と話す。
卑弥呼が活躍したころの中国は「三国志」で知られる魏、呉、蜀(しょく)が台頭。
卑弥呼が魏に送った使者が日本に戻ったのが正始元年だった。
 
【反論】
もしもし!決着済み事項を繰り返さないで下さい!あのね・・・・、
三国志魏書東夷伝倭人条(通称「魏志倭人伝」)には、こうある。
☆「魏志倭人伝」全文 http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
景初二年、魏の天子が女王国の遣い「難升米」らに
「親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
「紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い」とある。
正始元年には、「太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし」とあり、先方が来倭する。
 
*畿内説学者がそれと特定した、この三角縁神獣鏡は、困ったことに見つかり過ぎて、すでに「500枚以上」発見されている。
*中には、「景初四年」という存在せぬ年号のものまである(改元を知らず製作…つまり国内製)。
*受領した「景初二年」に、帰国時の「正始元年」刻印の鏡を貰ったの?天子の死を先取り?大胆な。そんなこと在り得ません!
*中国にただの一枚も出土せず。鋳型も見つからず。
◎三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」に非ず、国内製、渡来工人+列島内工人。として、決着済み。
◎500何十枚目の「100枚限りの鏡」をまたぞろ持ち出すのかマスコミよ! イラク報道と同じ「垂流し」!!
◎古田武彦氏談:難升米が拝受した鏡は・・・?
『三国志』を書いた陳寿と同じ時期に死んだ人が持っていた鏡が発掘されて出てきた。
洛陽の西晋の墓から出てきたのは前漢式鏡もしくは後漢式鏡である。
そうすると卑弥呼の貰った「銅鏡百枚」の鏡は前漢式鏡・後漢式鏡ではないか。
前漢式鏡・後漢式鏡が出てくるのは、今の糸島・博多湾岸、これが基本的に中心です。
 
 
 
 
茨木の在野の研究者:故:藤田友治氏著
『三角縁神獣鏡』(ミネルヴァ書房、\2,800)

歌遊泳: とまどう寝た子

30年前の後輩K君へ
 
たぶん、丸山圭子さんの『どうぞこのまま』(76年)がヒットした数年後に、
豊島たづみさんの歌は短い期間流れていたように思う。
当時、個人的に進退窮まっていて彼女のどこか「乾いた」「都会的」(?)感性に、
進路(退路)の道案内を求めていたような気がする。
いまでは、その「乾いた」「都会的」が抱えている湿り気こそが歌の「核」だと理解できる。
そういえば、当時『寝た子を起こす子守唄』を、君が「これって演歌ですよね」
と言ったのを思い出す。若い君は言い当てていたのだ。ぼくは気付けなかった。
その上で改めて言う「歌は演歌だ」・・・。艶歌・怨歌・厭歌・縁歌・宴歌・焔歌・援歌・演歌だ。
 
『寝た子を起こす子守唄』 http://www.youtube.com/watch?v=DbJCZ7MPbJM
『おもいでは琥珀色』 http://www.youtube.com/watch?v=yatSP2qIQ3I
 
豊島たづみさん、どうしているだろう・・・。
 
見っけ!→ 『彼女は唄い続けていた・・・キッチンで』

交遊通信録・品川塾誇大史 消された「倭国の記憶」

さん。

前頁で言いました予告編です。機会をみて、順次詳細を記述しましょう。「倭」は近畿天皇家ではありえないことが、明らかになると思います。

海峡とは 
人と人、民と民を 断ち・切り・分け・隔てる為の境界ではなく、
人と人、民と民が 出逢い・繋ぎ・結び・交わる為の「場」なのだ。
 
 【たそがれ誇大史:予告編】 最も大規模かつ長期の「記憶の改竄」を糾す 
①9500年前ころ~: 
  鹿児島県国分市「上野原縄文集落」(6300年前、喜界島大爆発で消滅)
  の縄文土器の製法を含め、この集団の出自は?
②4500~3000年前:
  青森県青森市「三内丸山遺跡」の縄文土器・ヒスイ・防腐用コールタール?
③2500年前 前後:
  出雲「国引き神話」に見る、事実の反映、ウラジオストクに隠岐産の黒曜石。
  縄文晩期の苗代式稲栽培=板付遺跡・茨木牟礼遺跡・岡山県総社。
④2100年前 前後:
  出雲「国譲り神話」、誰がどこに譲ったか? アマ原圏=楽浪海中倭人あり(漢書地理誌)
⑤西暦紀元前後:
  アマ勢力、北部九州に本拠地設営。天孫降臨。
  *古事記:「韓国(カラクニ)に向かひて 真木通り(一直線だ)、笠沙の御前にして
     朝日の直刺す国 夕日の日照る国なり、 故 此の地はいと吉き地」 と降臨の地を描写している。
    誰が、無関係な地を特筆するか? カラクニが出自の地だと誇っているのだ! 洛東江両岸、伽耶の地こそ天孫の故地だ。
  *後漢書:「建武中元二年(57年)、倭奴国、奉貢朝賀す。光武、賜うに印綬を以てす。」
    志賀島出土の金印。「漢倭奴国王印」は「カンのワのナ国王の印」(三段読み、例なし)ではない。 
    いえ、「カンのイド国王の印」です。つまり、北部九州王権の王への印。
  *後漢書《倭伝》「倭国は古(いにしえ)の倭奴国なり」
⑥2世紀:
  北部九州王権の一部の東征。ヤマトへ。当時の地形、河内湖、南方(ミナミカタの水路)。記紀説話との一致。
⑦3世紀:
  魏志倭人伝:「その北岸、狗邪韓国に到る」。すなわち、半島最南端部が「倭」の北岸だ!と言っている。伽耶の地だ。
  傍証:魏志韓伝:「南は倭と接す」とある。
  「郡(帯方郡)より女王国に至る万二千里」 魏の尺度:一里=75メートル内外。
  重装備した軍用馬が一日に駆ける距離は75Km=すなわち千里・・・千里馬(チョンリマ)。理屈に合う。
  ゆえに、万二千里は900Km・・・・・・邪馬壱国はどこだ?
   北岸が「狗邪韓国」、南岸が「邪馬壱国」・・・・。海峡国(勢力圏)「倭国」の姿はこれだ!
⑧空白の4世紀:
  百済(ペクチェ)王、倭王旨に七支刀を贈る。390、新羅(シラ)王、子美海を倭へ質と為す。
  高句麗広開土王即位。
⑨5世紀
   美海、倭を脱走。「三国史記」「三国遺事」(半島資料)が描く「臣:堤上の悲話」が語る倭都は海岸に接し、       
   堤上夫人が新羅の嶺に立ち「倭国を望み」慟哭できる地、北部九州の海岸だ。(朴堤上の悲話は壮絶だ)
  倭の五王(讃珍斉興武)はだれだ? その本拠は何処だ? 倭王武が宋(南朝劉宋)に出した上表文。
  東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國
 (東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らぐること九十五国)
  この地理観は近畿でありようもない。中国に通用するいくつかの歴史を前提に書かれている。
  「あなた方が知っている漢書に言う楽浪海中の、魏志にある女王国の、あの倭です」と。
  半島では、高句麗の拡大。474百済第一次滅。
⑩6世紀:
  上記⑥以降のヤマト王権、武烈後に政権混乱政治空白(?)。越(福井)のオヲド擁立の怪、楠葉で即位、20年後ヤマトへ。
  オヲド(継体天皇)の側の叛乱=九州侵攻(531筑紫の君磐井の乱と教えられた)。が、オヲドは戦を前に重臣:物部アラカヒに言う、
  「長門より西汝とれ、長門より東朕とらん」 ん? 長門(山口)より東にも、西の別王権の支配地ありと自ら認めている。
⑪7世紀:
  【遣隋使】
  姓をアマと自称するタリシホコなる王(日出る処の天子)が煬帝に国書を送り、やって来た返礼使に自ら面談したという。
  疑問:聖徳太子は「天子」か? 国書に於いて公的位階を詐称するか? 彼は推古天皇の摂政だ。
  後宮に女性600~700人と自慢しているが、推古女帝に後宮? また、「阿蘇山あり。その石、故無くして火起こり天に接す」とある。
  推古・聖徳太子が九州の山を特筆するか!当然、ヤマトの何かを語るだろう? しかもこの一大外交行動、記紀に記載なし!!小野妹子の訪問先は「大唐」だと書いてある。「隋」とは書いてない。それを学者は「書き間違い」だと言ってきた。違うだろう! 607年の誰かの事績を盗んだのだ。                                       しかも、日本書紀は、607年の前600年の隋皇帝:高宗への第一回「遣隋」に触れていない。???
  【近畿王権内 クーデター】
  645大化の改新?「中大兄が母(皇極)の愛人(蘇我入鹿)を斬った事件に後付けがなされた」との説あり。 
  【半島情勢、倭国臨戦態勢】
  新羅、唐と同盟し660第二次百済滅す。倭、百済からの質=皇太子余豊を返す。百済最後の王に。
  大唐から倭防衛の一環としての「百済防衛・再建」へ全列島動員→ヤマトも斉明天皇・中大兄を先頭に
  数万の大軍を派遣。筑紫・朝倉に陣する。倭、五王時代設営の水城の強化、大野城の整備。首都防衛。
  662斉明死去。喪に服すを大義名分にヤマトは半島へ向かわなかったのでは・・・?
   近畿の主だった将軍・重臣に死者・捕虜なし。「万葉集」にもこの一大悲劇が一切採用されていない。奇妙だ。
    一方、半島では、百済再興運動が対唐・新羅のゲリラ戦を展開。  
    663白村江(錦江河口)で 「唐・新羅」VS「百済・倭」の一大海戦。四たび戦い四たびの大敗北。
  「海行かば水漬く屍、山行かば草生す屍」はここだ。近畿天皇家に大海戦の歴史なし。
   倭軍司令官:倭王薩夜麻、逮捕・連行さる。  倭都、国敗れて山河あり。
  671唐から3000人の使節団が誘導役:薩夜麻を伴い、郭務綜を先頭に来倭。
  672「壬申の乱」勃発。その名に「アマ」を持つ「大海人皇子」(後の天武)側の勝利。
⑫【日本の登場】
  701年。唐、列島を代表する王権として大和を認知。呼称を倭から「日本」に改める。
  旧唐書《倭伝》のあとに《日本伝》あり。「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)す」
【参考】
「倭」の読みは「ワ」ではない。「イ」「ウィ」「ヰ」だ。
「倭」から「日本」は大変化のように見えるが、発音は中国読みなら「イェーベン」朝鮮読みなら「イルボン」・・・、                                    「イ」「ヰ」の音は継続させたようだ。
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ついでに言うと、
「邪馬薹(台)国」とされている国の記述は中国歴代史書において、
例外なく全て「邪馬壹(壱)国」つまり「邪馬一国」です。
「邪馬」は「匈奴」や「鮮卑」に用いられたような、中国からする
属国・格下国への侮蔑語なので 純国名は「一」であり
その音は「イ」周辺だ。「倭」と同音を踏襲しての命名ではないか?
邪馬「倭」国・・・⇒「邪馬一国」じゃあないでしょうか?

交遊通信録・品川塾誇大史 「近畿天皇家の呪縛」と半島

さん。
 
明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 
年末にお薦めのお知らせをいただいた、NHK番組『日本と朝鮮半島 2000年』、
もちろん元日から、拝見しました。
古代東アジア合衆国たるこの列島への半島からの影響力、
国家建設・律令整備などに果たした渡来人の智恵と、
ペクチェ(百済)滅亡に伴って流入した人々の功績・・・。
大いに参考になりました。
列島内王権が自前で執り行ったとされて来た、
文化・マツリゴトが半島の濃い影響の下なされたと、
映像を駆使した説得力ある放送でした。
この列島の覇者は、半島へ三度手を出し、その都度自滅している構図。
白村江の戦(倭国)、文禄・慶長の役【壬辰倭乱】(秀吉政権)、20世紀日韓併合(明治政権~)。
徳川期の朝鮮通信使の彼我の必要性・緊張の中の実施・・・よく解かりました。
 
が、せっかく半島との強い結びつきを言いながら、NHKとヨイショ学者にはうんざりです。
列島内唯一(と海外からも認知される王権)は、
ヤマト以外にあり得ないとする「公認学説」を繰り返されては、
NHKとその監修役の学者の「自説」(「韓国」学会を味方に付けての)
の強要であり、公平を欠いている、というのがぼくの正直な感想です。
ぼくが、言うのは北部九州の王権のことです。その可能性への言及のことです。そこはフェアに案内せんとぉ~。
半島と列島の関係構造を説き明かしたのだからいいじゃないか・・・ではありません。
20~30年前なら半島の強い影響力を正当に認めなかった
古代史学者の多くが、今では半島との関係、半島の強い影響力、
当時の東アジア地政学の中で俯瞰すべき歴史、
中国及び半島がこの列島の云わば「教師」であったという実態・・・、
それらを認めて語っている。
ところが、そこで言う「列島内王権」とは近畿天皇家なのです。
 
逆に言うと、
ある種の学者は、北部九州のある勢力の痕跡(記憶)を抹殺せんがために、
あれほど無視して来た「半島の指導力」を認めたのだ。と ひがみ癖あるぼくは思ってしまう。
仮想:
《  韓国側学者の主流=「日本書紀」重視・影響を与えた対象近畿天皇家なり・・・
の傾向に期待して、近畿天皇家中心史観の補強資料として、その論を活用する・・・。
(韓国学者は、無意識のうちに、日本に最も受容れられるを求め、
近畿天皇家中心書物や史観を前提に述べてしまう。二重の思惑が錯綜する)
ここにある「合意」はまるで、反・北部九州王権説の「日韓連合」の様相を呈している。
それぞれ違う思惑を秘めて・・・。
まるで、反・沖縄独立の「日米連合」のようだ。
辺野古キャンプ・シュワブに軍港を含む基地を作る元々の計画を、普天間返還に絡めて持ち出し、                                             辺野古沖案を平然と出す「詐術」の構造とそっくりだ。
(北部九州王権無視に関する「合意」についてのみの感想。他のことに及ばない。念の為)  》
 
2日放映の「白村江の戦」では、
番組はその後の天智天皇(中大兄皇子)の死去(671)から
すんなりと「やがて天武天皇が即位」などとナレーションで流している。
もしもし! 「壬申の乱」(672)はどこへ行った。
戦勝国:唐からの3000人の使節団来倭を何と見る?
対唐戦争の「戦後」に何故に後継を巡る内戦(壬申の乱)に至ったか?
天智の弟であるはずの天武(大海人皇子)が、何故に天智より年長なのか?
新王権は何故に親唐(戦勝国・唐)政権へと向かったか?
この一大政変をNHKは端折ったのだ。フェアでない!
そもそも中大兄と母(大化の改新時の皇極天皇、白村江時の斉明天皇)は、
白村江戦の主宰者なのか? 近畿天皇家はどこかの要請に応じて、
大軍を筑紫まで派遣しただけではないのか。派遣はアリバイ作りではないのか?
消極的参戦は、「唐・新羅(シラ)」「百済(ペクチェ)・倭」のいずれが勝とうが、
その後の近畿天皇家の安泰を確保せんが為の方法論ではなかったか?
 
長くなるので、詳細は後日として、ぼくの見解はいずれ、「たそがれ誇大史」の頁を作り、
順を追って述べて行きたい。その予告は次頁に示します。
 
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品川宿:「たそがれ自由塾」風景:唯一の自慢は、W=2300のビッグデスク。
何故か カーテン横に「9条改憲阻止」のたすきが・・・。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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