Archive for 12月, 2009
歌遊泳&交遊録: アカシアの雨がやむとき
松田聖子 http://www.youtube.com/watch?v=jpJjCGVS3-E 高橋真理子・工藤静香 http://www.youtube.com/watch?v=D1rFfFbhxtw 戸川純 http://www.youtube.com/watch?v=dean1ozOdsg&feature=related フランク永井+ニニ・ロッソ http://www.youtube.com/watch?v=bn_tfRB8zQc&feature=PlayList&p=51193832371DE118&playnext=1&playnext_from=PL&inde 坂本冬美 http://www.youtube.com/watch?v=SwRO9kCm5vo 石川さゆり http://www.youtube.com/watch?v=VqxUwELbnc4 おおかた静流 http://www.youtube.com/watch?v=GEodr7rHYw0&feature=related 西田佐知子 http://www.youtube.com/watch?v=msSznHB4OyY
つぶやき&歌遊泳: 【おさななじみ】異論
地方を含め、物資不足・勤労動員・ひもじさや父不在、
そうした戦争期の社会構造や風景の中で生きたはずだ。
自身でなくとも、父や母、兄や姉、身近な者の「戦争」を因とする受難も見たはずだ。 痛苦の記憶の味・匂い・香りを、 「青いレモンの味」一本へと変換する装置こそが、公的記憶の無化装置であり、
歌遊泳: 永六輔・中村八大の登場
作詞:永六輔、作曲:中村八大は、六・八コンビと呼ばれた。
『夢で逢いましょう』(TV番組主題歌61年)、水原弘:『黒い花びら』(59年)『黄昏のビギン』(59年)、 坂本九:『上を向いて歩こう』(61年)、ジェリー藤尾:『遠くへ行きたい』(62年)、梓みちよ:『こんにちは赤ちゃん』(63年)、 デューク・エイセス『おさななじみ』(63年)(北嶋三郎『帰ろかな』はオリムピック後の65年) 敗戦後社会の貧困を脱し(朝鮮戦争<50~53>特需がその出発なのだが)た社会が、 東京タワーを完成(58年末)させ、東京オリムピック(64年)へ向かう頃・・・・、何かを置き去りにして発展を謳歌する世に、コンビは歌を提供した。 さて、上記六・八になる歌は、正に豊かさが始まり全国に行き渡る時期の代表歌謡群だ。
『アカシアの雨がやむとき』(60年)を聴いていた(あるいは歌っていた)学生さんも、 60年安保敗北の湿った『挫折』病(?)から立ち直っ(た振りをし?)て、高度経済成長社会(岸退陣後、池田「所得倍増計画」)へ向かう。 やがて、モウレツ社員と呼ばれることとなる世代だ。六・八コンビの歌は、その時代の明暗の、どちらかと言えば「明」の部分からの逆説、 個的世界を謳歌することの意味を堂々と主張していたように思う。「戦後」後的なのだ。 経済発展に付帯して当然に持つべき「先進国的個人」の「自己主張」の大衆的開始だった(ぼくの中高時代に当たっている)。 それは、まるで、やがて来る、経済成長が抱えきれない生産と消費の矛盾、侮れない若者の量的存在、など時代的なある「飽和」が、 個と社会との抜き差しならない関係となり、いわゆる『大衆反乱』(実は学生世代だけの)となる60年代末への予告編でもあった。 60年代末の学生反乱からさらに世紀末の大学、21世紀大学を論じて同世代の論者三浦雅士はこう言っている。 「自動販売機に敗れ去るセールスマンの物語『セールスマンの死』(アーサー・ミラー) の五〇年代からさらに加速される変化は、 六〇年代の『大学=労働力商品の大量生産工場』を経て、 いまや大学は工場でさえなく、『大学自体が自動販売機化』している」 (『青春の終焉』、2001年、講談社)
さて駄話は尽きないが、六・八コンビの歌の中から「ひとつ」と言われれば、私は、『黒い花びら』か『黄昏のビギン』なのだが、 『黒い花びら』は大ヒットしたしあまりにも有名なので、ここでは【黄昏のビギン】(1959年)としておく。ここでも、ちあきなおみさんが圧巻だ。
前川清
http://www.youtube.com/watch?v=kLhK7PAd2hM 夏川りみ
http://www.youtube.com/watch?v=KEKFY7yuT8c 石川さゆり
http://www.youtube.com/watch?v=aSzgIqUTRqM&feature=related
ちあきなおみ
http://www.youtube.com/watch?v=VcsDsOEU3B0&feature=related 水原弘
http://www.youtube.com/watch?v=SqJJPxwSYho
この歌には、他の六・八歌には無い「陰り」がある。敗戦後社会と経済成長社会との交差期、そのあわいに宿る、 まだ高度成長が身に付かない敗戦後を引きずっているような空気、 東京タワーの威容も、見上げれば足許が揺れそうで、シックリ来ないような違和感・・・。傑作です。
だが、実はぼくは、六・八コンビには言いたいことがある。一昨年書いたもので、次回 載せる。
歌遊泳: 酒と泪と男と女
【酒と泪と男と女】
みんな呑兵衛ェなんやろかね!
23歳・46歳とある河島英五さんには、是非60代後半の歌唱を聞かせて欲しかった。
きっと「呑んで呑んで呑まれて呑んで」のところ、力んでは歌えんでしょう。
第一、歳食えばそんなにガブ呑みは出来ませんしね。
ところで、ここでも先日同様、ちあきなおみさんがええね。
和田アキ子
http://www.youtube.com/watch?v=lp78rRty0v0&feature=related 堀内孝雄
http://www.youtube.com/watch?v=R1fc0iVhRVo 金蓮子(キム・ヨンジャ)
http://www.youtube.com/watch?v=n_Hj_HnXgn0&feature=related 鳥羽一郎・五大夏子
http://www.youtube.com/watch?v=uCCt0B32YOQ&feature=related 杉良太郎
http://www.youtube.com/watch?v=T5Fs63W7VJ0 ちあきなおみ
http://www.youtube.com/watch?v=gydiqOmRrU8 河島英五(23歳)
http://www.youtube.com/watch?v=-4m1GPE35rg&feature=related 河島英五(46歳)
http://www.youtube.com/watch?v=tQG1pt_oUls&feature=related
歌遊泳:いとしのエリー
20数年の昔。
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たそがれ映画談義: 『カナリア』
そう、これはオーム真理教をモデルにした映画だ。
「人間の共同性と全き個人性の相克」といふ永遠の課題が迫り、
物神崇拝へと至る呪縛から主体的に免れることの隘路と困難、
「個人の復権」への苦闘が痛かった。
「皇国少年の自己解体」と、彼らの戦後の自己再生や、
座標軸喪失症候群、あるいは総撤退・総封印(一切放棄)の「病」を想った。
実は、そこが「共闘」や「連帯」が始まる契機であり原圏なのだ。
若い元信者:伊沢(西島秀俊)の、少年:コウイチ(石田法嗣)への問いかけ
『教団もまた我々が生きているこの醜悪な世界の現実そっくりの、もうひとつの現実だった』
『お前は、お前が何者であるのかを、お前自身で決めなくてはならない』は、13歳コウイチにはあまりにも酷で、難しい。・・・痛々しい限りだ。 社会性を抜きには生きられない存在たるぼくら大人が抱える課題なのだから・・・。
この少女(の母性)にして初めて可能だったと思えるのだった。
谷村美月。 2007年『檸檬のころ』では、素晴らしい若手女優さんに成長していた。
書評: 脇田憲一著『朝鮮戦争と吹田・枚方事件-戦後史の空白を埋める-』(明石書店)
【イントロ部】
三浦雅士はその評論集『青春の終焉』(2001年 講談社)の前書きをこう始める。
――「『さらば東京! おおわが青春!』 続けて、青春や青年という語の起源と、発展し世に定着する過程、下って60年代後半に急速に萎んでしまった背景などを語っている。例えば「伊豆の踊子」では、青春がエリート層の旧制高校・帝国大学という制度による囲いこみによって維持された、つまりは階級による特権者の独占物であったと語り、主人公はまさにその青春に在り、登場する人々、踊子も栄吉やその女房も青春とは無縁だったと述べる。60年代後半の学生反乱こそは、そうした永く続いたエリート層・特権者の独占構造の大衆化を通じた解体過程、青春の終焉であったと言う。青年という語にはあらかじめ女性を排除する思想性が間違いなく付着しているし、それは保護者の会を父兄会と呼び、労組などでも若い男性と女性全部を一緒にした部会を作り、青年婦人部と呼んでいたことにも正直に表れているとつなぐ。 事実、70年を前にしたぼくの学生期には、所得倍増の「成果」が創り出したその特権の大衆化の中で、青春や青年といった語は、臨終直前であり、やがて青春・青年はダサい気恥ずかしい言葉として姿を消した。三浦氏が言うとおり、青春文化・青年文化とは呼ばず、代わって若者文化と称したのだ。 (以下、カルチャー・レヴュー37号、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re37.html#37-2) |
たそがれ映画談義:『サイドカーに犬』
たそがれ映画談義:『百万円と苦虫女』
我ら二人、偶然同じ映画を取り上げましたね。ええ歳したオッサンが二人、
ネット社会の片隅(?)で、蒼井優的若者への共感・声援の、
キーボードを密かに叩いていたのか・・・、あの苦虫女に届けたいね!
「なんとか出会って苦虫女を抱きしめてほしいと祈りながら観ていた」のは、
ぼくも同様なんです、もう泣きそうになって・・・。
学生が控えめに発した言葉「自分探し・・・みたいなことですか?」に蒼井優が返す、
「いえ・・・。むしろ探したくないんです。探さなくたってイヤでもここに居るんですから」 と。
続いて苦虫女は弟への手紙で、こう独白する。
「姉ちゃんは、自分のことをもっと強い人間だと思っていました。でもそうじゃありませんでした。」
ナチュラルであるのに、そのナチュラルこそがむしろ
生きにくい理由の根本を構成している。
という転倒状況が若者たちを覆う今どき。
ラストのすれ違いは、その「今どき」の若者が強いられる「社会」からの「要請」を、
容れて・学んで・こなして行くのではなく、ナチュラルの側に身を置き続け
その立ち姿に「アッパレ」と拍手したのでした。
この二人、苦虫女と学生は必ず再び出逢います(現実場面でなくとも)。
ナチュラルということそのものに棲む「無知・過信・無謀」を、痛手を負って思い知り、
あのラストシーンには学生君の「必死さ」に対して、「あんたには頼らないわよ」
という「見かけによらない、芯の強い女」のメッセージ性と爽快感がある
とアンケートの初稿ではそのことを書いたのですが、「見かけによらない、芯
の強い女」というのは監督の狙いではないだろうし、現在のフェミニズムの達成点は
> 「いえ・・・。むしろ探したくないんです。
> 探さなくたってイヤでもここに居るんですから」
>「姉ちゃんは、自分のことをもっと強い人間だと思っていました。
> でもそうじゃありませんでした。」
と、苦虫女に言わせる境地じゃないでしょうか?