数年後、早くも『神田川』(73年) 『いちご白書をもう一度』(75年)など
68年~70年を振り返るような歌が登場するが、それらは「私」に終始し、企業社会へ出てゆく者の社会との和解の為の通過儀礼だった、と言えなくはない。
振り返りの自己責任に於いて『みんな夢でありました』(森田童子、80年)が群を抜いていて異質だ。和解など説いてはいない。
「私」に沈殿しているように見えて、掴みあぐねた「公」をなお探していた。
センチメンタリズムに彩られていると思われがちな歌詞とメロディは、そうであるよりは
68年東大「駒場祭」ポスター。父不在を見抜きマザコンを嘲り、土着を抱えた左翼小僧の心性を見事に言い当てていた(と今認める)、 このコピーの作者は、同世代の東大生=日本古典文学者である橋本治氏(『窯変源氏物語』『桃尻語訳枕草子』の著者)だそうだ。 どうです、このカッコ悪さをパロるカッコ良さ(?)。画像が読みにくいと思うので、字句を示しておく。 『とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く』 です。 世代を相対化できていて、自省的で世代自己分析としてなかなか・・・と言われているが・・・どうだろう?
69年
その頃(この年には、それぞれの個人史があろうが)、キャメラを引いての俯瞰絵と「個」ににじり寄っての接写画、 その両方から自他を見届ける為に、みな生きていたのか?いやそれは無理というものだ。
妙に大人びて「恋愛論」好きの友が、浅丘ルリ子「愛の化石」の語りの部分に心酔(?)して「愛するとは耐えることなの」だ、と真剣に語ったり、 バリケード内に『白いサンゴ礁』が流れていたり、哲学好きの先輩が「時には母のない子のように? 吾らは、時にではなく、生れ落ちてより今日まで、ずっと父不在を生かされて来たのだ」と叫んだり・・・、 そして誰もが流行り歌などなんかより、ずっとずーっと先を走っていると思い上がって生きていた。
70年
70年、歌は「やめてけれ!」と 早々に68・69年を過去のものにしようとしていた。が、「運動」の迷宮に立ち尽くす者は、耳元でささやくような「あなたならどうする?」という幻聴に悩まされていたのか? この70年前後に「戦後社会の曲がり角がある」と多くの論者が言う。確かに、「戦後」社会は変貌していた。白モノ家電の9割普及、マスプロ大学的教育の普及、女性の表層的職場進出、山田洋次が『家族』で活写した高度経済成長のピークに差し掛かっていた(←戦後歌謡曲空間「無許可遊泳」:民子さんオホーツクを唄う。)
【追記】 作詞:寺山修司 『戦争は知らない』
60年安保闘争50周年の、来年2010年。各人の「物語」は、時代遅れの衣装と厚化粧をまとってか、脱衣とスッピンに至ってか、グルリ回って 第4楽章に差し掛かっている。 それは、「公」と「私」の両方から、そうなのだ・・・。
「本来、人間は一生一代一仕事だと思うのですが、二つの時代を生きて二つの仕事をやる必要はないのです。」 『占領下日本-OCCUPIED JAPAN -』(筑摩書房、対談:半藤一利ら)より、保坂正康発言