たそがれ映画談義:シェーンとマッカーシズム
『シェーン』(1953年、アメリカ) 監督:ジョージ・スティーヴンス
出演:アラン・ラッド、ヴァン・ヘフリン、ジーン・アーサー、ブランドン・デ・ワイルド、ジャック・パランス、エリシャ・クック・JR
「シェーン」の作品背景にあるという「ジョンソン郡戦争」(1892) というのを知った。紀田順一郎『昭和シネマ館』(小学館)によれば、それは、ワイオミング州ジョンソン郡で実際に起きた大事件で、牧畜業者がテキサスの退役軍人など22名のプロを傭兵として雇い、新参入の開拓農民多数を虐殺させた事件だそうだ。アメリカ国内では「ああ、あの事件ね」と誰もが知る有名な事件だそうだ。(マイケル・チミノ『天国の門』はジョンソン郡戦争を描いたもの)ジョージ・スティーヴンスは原作をひとヒネりして黒ずくめ装束の殺し屋(ジャック・パランス)を登場させ、シェーンに「卑しい嘘つきヤンキー野郎」と呼ばせている。原作にない台詞を再々度にわたって登場させるのは、そこに映画作家の「ある事態」への本音があるのだと紀田は言う。
ある事態……
「シェーン」(公開が1953年だから、製作時を含めある事態の同時代性)公開当時のアメリカ映画界に在って、正統派というかアメリカニズム保守派の重鎮のようなスティーヴンスのある事態への見解が、そこに垣間見えて興味深いという。テキサス人の傭兵を「ヤンキー野郎」としたのは、かのマッカーシー議員が北部=ウィスコンシン州出身だからだそうだ。
スティーヴンスはマッカーシー旋風(’50~’54)を苦々しく見ており、「恥ずべき」事態であり、その旗振り男を「唾棄すべき」存在だと思っていたのだと知り、「なるほど……」というか、丁寧な彼の映画のファンでもあるぼくは、実際「ホッ」とはしたのだ。
スティーヴンスが「シェーン」で新参開拓農民夫妻(ヴァン・へフリン、ジーン・ア-サー)などに託して示した、アメリカ的正義感や良心、生活感・勤労観やアメリカ観は、いま「シェーン」の時代から100年強を経て、どう変形したのか? イラク戦争を熱狂的に支持する巨大な存在となって猛威を振い、アメリカ中西部のレッド・ゾーン(04年ブッシュ勝利州)=言われるところのもう一つのアメリカ(?)を形成しているのではないか?
「卑しい嘘」に基づく横暴には決して与しないはずの、スティーヴンスが言う正統派たちには、イラク戦争の虚構を糾す情報を入手する努力や、殺し屋に立ち向かう気力を、元々持たなかったのか? それとも何処かへ回収されてしまっていて見えにくいのか……?
回収先は、ここが・これが世界だとするアメリカ的世界観と、そうした構造を作り上げることに大きな役割を果たして来た新興宗教(キリスト教原理主義教団が新興宗教でなくて何であろう)に違いない。
「シェーン」という「よそ者」が去って以降の100年という時間に、「よそ者」ではない者の言葉を選択した結果、スティーヴンスが示した「本来」のアメリカ保守正統派の精神は、皮肉にもその選択によってか、元々の素性ゆえか、解体したのだ。シェーンが「よそ者」であるところに、スティーヴンスのもうひとつの冷めたメッセージがあるのかもしれない。
そもそも本来のアメリカの精神なるものは、フロンティア・スピリットであり、 「他者」の「場」を強奪して「世界」を拡げる精神の各種変異体なのだが・・・・。
【注】 ジョージ・スティーヴンス(1904~1975)
『ママの想い出』1948年、『陽のあたる場所』1951年、『シェーン』1953年、 『ジャイアンツ』1956年、『アンネの日記』1959年、
『偉大な生涯の物語』1965年、