エッセイ:映画『三丁目の夕日』異論
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【イントロは下記】
1958年(昭和33年)。東の都は、帝都の香り匂うがごとく今盛りなり、と華やいでもいた。
若い勤労者は、社会への目を閉じる限り、上司に『おーい中村君』(58年、若原一郎)と呼び止められても『有楽町で逢いましょう』(58年、フランク・永井)と逢引を謳歌できたし『銀座九丁目は水の上』(58年、神戸一郎)と浮かれることもできた。湘南族の国民的スターは『俺は待ってるぜ』(57年、石原裕次郎)とイキがっていても、東京でひとり働く娘は、母を招いた久し振りの再会に『東京だよおっ母さん』(57年、島倉千代子)と無理して散財し、翌日はまた独り『からたち日記』(58年、同)を書いて自らを慰めるのだった。
街工場の若者は、旗揚げした組合が暴力経営者に足蹴にされ、不参加者からは『だから言ったじゃないの』(58年、松山恵子)と嘲笑われても、クルリと輪を描いて支持してくれる『夕焼けとんび』(58年、三橋美智也)たちを信じることもできた。村では 駅まで三里の『柿の木坂の家』(57年、青木光一)の青年は『愛ちゃんはお嫁に』(56年、鈴木三重子)と太郎を恨んで泣いていたし、友も『東京の人』(56年、三浦光一)を『哀愁列車』(56年、三橋美智也)で見送ったのだ。