Archive for 12月, 2009

歌遊泳: 追悼 三木たかし

 三木さんの特徴・傾向というものがよく解からないのに、印象的な歌の数々です。
そのことの中に歌謡曲というものの真髄があったのかも・・・と振り返っています。
歌手志望で船村徹の弟子だったという独学の士。すごいなあ・・・。  09年5月11日逝去(享年64歳)。合掌。
(09年に亡くなられた方々・・・・。栗本薫、忌野清志郎、清水由貴子、平岡正明、古橋広之進、大原麗子、三遊亭円楽、                                       南田洋子、森繁久弥、田英夫)

 

追悼:三木たかし
 
 アンパンマンのマーチ:http://www.youtube.com/watch?v=BUGh-7Y5kZA

歌遊泳: 東京タワーから50数年

ふたつのタワー

1958年(昭和33年)。東の都は、帝都の香り匂うがごとく今盛りなり、と華やいでもいた。

 若い勤労者は、社会への目を閉じる限り、上司に『おーい中村君』(58年、若原一郎)と呼び止められても『有楽町で逢いましょう』(58年、フランク・永井)と逢引を謳歌できたし『銀座九丁目は水の上』(58年、神戸一郎)と浮かれることもできた。湘南族の国民的スターは『俺は待ってるぜ』(57年、石原裕次郎)とイキがっていても、東京でひとり働く娘は、母を招いた久し振りの再会に『東京だよおっ母さん』(57年、島倉千代子)と無理して散財し、翌日はまた独り『からたち日記』(58年、同)を書いて自らを慰めるのだった。

 街工場の若者は、旗揚げした組合が暴力経営者に足蹴にされ、不参加者からは『だから言ったじゃないの』(58年、松山恵子)と嘲笑われても、クルリと輪を描いて支持してくれる『夕焼けとんび』(58年、三橋美智也)たちを信じることもできた。村では 駅まで三里の『柿の木坂の家』(57年、青木光一)の青年は『愛ちゃんはお嫁に』(56年、鈴木三重子)と太郎を恨んで泣いていたし、友も『東京の人』(56年、三浦光一)を『哀愁列車』(56年、三橋美智也)で見送ったのだ。 ( http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re57.html#57-3 「三丁目の夕日 異論」 より)

 
『愛ちゃんはお嫁に』(56年、鈴木三重子):http://www.youtube.com/watch?v=GrHjQK5D1gc 
『東京の人』(56年、三浦光一):http://www.youtube.com/watch?v=50nhcLgmejw 
『哀愁列車』(56年、三橋美智也):http://www.youtube.com/watch?v=BzxCiAwpOec 
『柿の木坂の家』(57年、青木光一):http://www.youtube.com/watch?v=6tIr0raBTAM 
『俺は待ってるぜ』(57年、石原裕次郎):http://www.youtube.com/watch?v=ePau6WvckJ4 
『東京だよおっ母さん』(57年、島倉千代子):http://www.youtube.com/watch?v=XoMnH-Mkt38 
『有楽町で逢いましょう』(58年、フランク・永井):http://www.youtube.com/watch?v=_h2pKuQL6QU 
『からたち日記』(58年、島倉千代子):http://www.youtube.com/watch?v=Q4Wk7Vy_f0A 
『夕焼けとんび』(58年、三橋美智也):http://www.youtube.com/watch?v=lwypNTiHe64
『おーい中村君』(58年、若原一郎):http://www.youtube.com/watch?v=JoPjjovc_Ak&feature=related
『南国土佐を後にして』(59年、ペギー葉山):http://www.fooooo.com/watch.php?id=598caa1491b23226df54495e83639d13
『情熱の花』(59年、ザ・ピーナッツ):http://www.fooooo.com/watch.php?id=598caa1491b23226df54495e83639d13

翌年は60年なのだ。安保闘争があり、その後 世は所得倍増社会へと向かう。

 

東京タワーから52年。

地デジ用タワーが、12年開業に向け墨田区に建設中。現在、200M超まで進んでいる。              名称は「東京スカイツリー」と決まったそうで、完成すると、高さ610Mだと。

タワーが建つ・・・。時代のひとつの象徴だろうか?

歌遊泳: 尾崎という方法

尾崎という方法
 
友が言うのだ。
65年生まれの尾崎は、
まるで、60年代の若者たる我が世代が擬似反乱のさ中に、
産み落とし、そして抱えきれず棄てた新生児のようだ、と。
父であると告白するのか? DNA鑑定してみなよ、違うから・・・
                                                                                                                                                                                                               【15の夜】(83年)                                                                                                                           http://www.youtube.com/watch?v=AiD78w0AqeQ&feature=related
 
【シェリー】(85年)                                                                                  中村あゆみ
尾崎だけの『シェリー』なのだと承知していても抑えられずに挑んだ、心からの共感哀悼の歌唱。
友情に近く、情愛に近く、母性に近く、そのいずれでもない。同じ夢・同じ孤独・同じ傷を抱えた記憶・・・、                                  戦友のような、同時期拘置のような、それでいて隔たって在るような、遠く近い共振共鳴が伝わって来る。
中村あゆみさん、見事だと思う。NHKBSの画像があったが、消されたので別公演をオンする。 注:録音・画像に難あり。                                                                                                    ☆ あれあれ復活しました。 再録:http://www.youtube.com/watch?v=FrfvGSUwn78&feature=related                                                                          
 尾崎豊
 
 

 

 

 

 
 
I Love You】(91年)                                                                             尾崎豊: http://www.youtube.com/watch?v=ERWYegcKF8o&feature=relate
 
 
 
 
 

歌遊泳: 遠くに聞こえるもの

アリス 遠くで汽笛を聞きながら
 
 
「自分の言葉に嘘はつくまい。人を裏切るまい」 ん?。
自分の言葉に嘘をつき、ときにこころならずも人を裏切ってしまふのが、人間だ。
そこのところのアリスの自信というか自己肯定には、
「勲章文化か?」と問いたくなるような治者の香りが漂う。
似て非なる心情を、例えば尾崎はこう言う。
「俺は転がり続けてこんなとこにたどりついた」
「いつになれば俺は這い上がれるだろう」
「俺はまだ恨まれているか、俺に愛される資格はあるか」と・・・。
 
けれど、『遠くで汽笛を聞きながら』は好きな歌で、
二次会などでカラオケの順番が回って来てしばしば唄った。
が、三番の歌詞が妙に恥ずかしくこう唄い替えて来た。
『自分の言葉に嘘をつくし 人も裏切るよ』
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人は「忘れられ」ないから唄っているのだ。  
そう、表現はさまざまでいい・・・「記憶の社会学」を知っている限り・・・。
まぁ、こんな言い草自体が青いわなあ・・・へへ
ある党の専従をしていた若いX君が、いつも                                    
「なんにもいいことが無かったこの党で♪」と唄っていたのを思い出す。

たわごと書評: 坂の下の曇り空  劇画『「坊ちゃん」の時代』を読む

リ・ダイアリー 09.9.30
【勉強をして来なかった者の、劇画三昧】
> 散逸したという龍馬の「幻の憲法草案」(薩摩に、長州に、幕府に、朝廷に、土佐山内にも配慮して変更した「船中八策」の前の大元素案)には
> 幕府はもちろんだが、天皇も無くして共和制とする旨記載されていたという。(だから暗殺されたという説を支持します)                     
>反幕府藩連合の新幕府ではない、永く実政治に関与しなかった朝廷を担いでの王政でもない。                                                                                              > 藩・幕府・朝廷の力学域から脱した異次元のステージの構想であった。
> 「奉還」先は「やがてあるべき何モノか」(たぶん共和制国民国家)
> であるはずだ、とする考えに至っていただろう。
> それが、龍馬の「公」であろう。来年のNHK大河ドラマ(福山雅治だそうだ)はもちろん、他の龍馬伝からも消されているという。
>
> 劇画『「坊ちゃん」の時代』(文・関川夏央、画・谷口ジロー、全五巻、双葉社)を読んだ。
> 西欧文明を受容しつつ疑い、疑いつつ受容する(関川夏央)。
> 開国の幕末から日も浅い明治人は、圧倒的西欧文明に向き合おうとするとき、
> 国家・国権・国威の拡大と近代的自我の確立とを重ねてしまふ誘惑に駆られた。
> (笑うな!帰属先(教団でも党でも株式会社でもいいのだが)の充実発展の中に、自己の確立を
>  重ねては悦に入っていた御仁を5万と知ってるぞ。「個」が帰属先と未分化なのは、
>  何も前世紀・前々世紀にのみ限った現象ではない。人が属性に依って生きることの傍証だ。)
> 近代化の渦に在って「絶望し」「かく善く生きよう」(関川夏央) と苦闘した
> 鴎外・漱石・二葉亭・・・・啄木・平塚らいてふ・菅野須賀子・幸徳秋水・・・・
> 明治人は、国家・天皇・政府・法・宗教・諸規範を超えてあるはずの
> 「公」を探していたのだ。国民国家はすでに、ヨーロッパにおいて侵略的経済活動単位にして、
> 排他的ナショナリズムの元凶との正体を曝しその幻想は崩壊しつつある。
> 明治政府は、天皇を「公」として盛り立てる策を次々と打ち出し、返す刀で
> そのことに抗う不敬の輩への、天皇の逆鱗や容赦のない課罰力を
> 天下に示す機会を密かに(堂々と)準備していた。「大逆事件」がそれだ。
> 天皇以外の「公」が登場し薩長革命の構図が崩れるを極端に恐怖する、
> 最後の維新革命世代たる山県有朋による、多くの無関係者を含む
> 「この際、根こそぎ」的な、24名に死刑(12名無期に減刑)という
> 容赦のない前代未聞の暴虐であった。
> 「このとき日本の青年期たる「明治」は事実上終焉した。そして昭和20年
>  (1945年)の破局に至るレールの上を走り始めたのである。」(関川夏央)
> (「公」なき日本は、この破局後も江戸瓦解からなお地続きのままを生きる?)
>
> 一方、対ロシア「戦争」に多大な犠牲を強いられた民は
> 西欧の一部には違いないロシアとの戦争勝利に、「西欧と肩を並べたぞ」意識、
> 国威の拡大を自己の確立にダブらせる思想(「気分」)、
> それにすがって自己を支えたのだ。軍国昭和へ走る街道の初期道だ。
> 現実は、戦費総額=国家予算の4倍で戦争継続の余力無き明治政府が、
> アメリカに仲介を依頼、賠償金なき講和を「勝利」と喧伝したに過ぎない。
> 日露戦争後のポーツマス講和会議の結果に人々は「軟弱外交」と抗議し
> 各地で「戦争継続」要求の大衆街頭行動まで繰り広げたという。
>1904~1905年(明治37年~38年):「日露戦争」、
>1910年 (明治43年):「大逆事件」、 
>1910年 (明治43年):「日韓併合」。
> 100年後の今日から見ると、この三つがワンセットだったとハッキリ見える。
> 西欧化を目指し西欧と戦い、天皇制強権国家を完成に向かわせつつ、アジアを奪う・・・。
> 西欧と伍すためにアジアを奪う? 薩長主導の明治新国家の国家目標の核心だと言える。
> 添付画像は『「坊ちゃん」の時代』第三巻 『かの蒼空に』 の表紙、この巻は啄木が主人公。
> 啄木の実生活は一面「とんでも」男なのだが・・・http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-2.html 

> 稀代のC調寸借王・生活破綻者・無用の人たる彼にしてようやく見えることもあったのだ。 
> 無用の人、啄木は「大逆事件」「日韓併合」の同時代に在ってこう詠んでいる。
> 『何もかも行末の事見ゆるごときこのかなしみは拭ひあへずも』
> 『秋の風我等明治の青年の危機をかなしむ顔撫でて吹く』
> 『地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く』

 
> 『「坊ちゃん」の時代』(全五巻:双葉社刊)
> 第二巻『秋の舞姫』は鴎外が主人公だ。
> 巨大な先達でもあり、かつ違和の対象=西欧という山脈の前で
> のたうつ彼鴎外は、西欧への劣等感を埋め合わせるかのように、
> 異境に在って薄幸の女=舞姫との関係を持つ。
> (鴎外の深層心理を見透かすように、舞姫は実はユダヤ人だったのだ。
> 「舞姫」一篇は、西欧へのコムプレクス問題と、擬インテリは上昇志向を
> 何を棄てて成就して来たか? といふ二重テーマによって成立している。と聞か された記憶がある)
> 『「坊ちゃん」の時代』第二部によれば、ドイツ滞在時、鴎外はある夜、乃木希典なども同席していた宴席で
> 明治初期日本政府の招きで開成学校で教えたナウマン博士の言に噛みつく。
> 「日本は急速な西欧化を目論んでおる。その意気やよし、知識欲やよし。
>  しかし、残念ながら西欧化近代化の基礎となるべきキリスト教文化を
>  欠いておる。わたしは断言する、 日本が西欧と肩を並べる日はつひに
>  来たらず」というナウマン氏に、   鴎外は
> 「日本には古来、武士道があります。武士道は信と義との結晶です。
>  我々は、数千年心性を鍛えぬき、いま西欧の覇道から身を避けるために
>  たかが数百年の洋智を学んでいるのだ」と、気色ばんで言い返す。
>
> しかし、日本の歴史に明らかなように武士の登場は平安末期であるし、
> 言うところの「武士道」の暦は決して数千年ではない。
> ここで「武士道」と名付けて引っ張り出されたものは、より永い歴史ある
> ものとして、後年「やまと魂」として提出されたものに連なる「虚構」か?
> 誤解を恐れず言えば、数千年を耐え抜き持続されたものなど無いので、
> あえて「武士道」というものを持ち出すしかなかった、と思える。
> 西欧の「神」に代わるものとして「天皇制」を持ち出さなかった苦肉の言説の意味するところは大きい。
> 「天皇」が、世界の光の中に晒されたとき、それは「私」的な存在だと
> 明治知識人は承知していたのだ。
>青年「明治」は、より高次の「公」、揺るがぬ「公理」を探していた。
>
> 明治政府は、「天皇」「官」をもって「公」に代え、それに絶対権力を付与した。
> だがしかし、それは断じて「公」ではないのだ!
> 最終正義を持っている在り方は、それが教義・教祖であろうが
> 「天皇」であろうが、その先が無いのだから一種の思考停止状態を生み、
> 論理や疑義の発展の可能性を閉じてしまう。明治政府が天皇を絶対
> とした瞬間、軍国昭和と1945年が用意されたと言えまいか。
> 幕末と明治は地続きであり、明治が昭和を準備し、昭和は昭和で
> 人間宣言をして焼け跡に舞い降りた裕仁が、戦前と違う言葉を発する以外
> 戦前と戦後は同じであり、つまりは幕末から平成まで
> 時代は天皇の代替わりや、外的な事件によって区切られてなどいないのだ。地続きなのだ。
> 「公」なき、のっぺらぼう日本の時間が過ぎて行く。
> その裏では、しばしば「大逆事件」時の山縣有朋の役割を果たす
> のっぺらではない強面の巨魁が領導する事態が何度も繰り返された。
>
> 今日、この国で最も「公」に近いものは『憲法』だろうか? 
> 敗戦時のまさに「国体」の処置と、天皇の責任の曖昧さが、地続き日本、
> のっぺらぼう日本の、金太郎飴人心の、大きな原因だとぼくは思う。
> それはともかく、新左翼に「公」概念、「公共性」への意識が希薄ではあったとは認めたい。
> 某主義を語り、革命を謳った。党組織論を述べ、国家論を論じた。
> が、それらを越える「公理」「公」など抽象論だとして捨て置いたと思う。
> 多くの悲劇や惨劇が、そのことと無縁だとは思えないのだ。
> 明治の「主義者」には「公」が在ったか・・・?
> 幸徳秋水は日露戦争に際して、こう演説していた。
> 『ロシア平民と、われら日本平民とは同志であり、断じて戦うべき理なし。
> 愛国主義と軍国主義とは、日露平民共通の敵ならずや!』
>
【付録】
[漱石先生の大和魂観]
漱石先生は、こう言っている。
『東郷大将が大和魂を持っている。魚屋の銀さんも大和魂を持っている。
 詐欺師、山師、人殺しも大和魂を持っている。誰もみたものはない。
 誰も遭った者がない。大和魂 それ天狗の類か』 (『吾輩は猫である』)
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駄エッセイ・歌遊泳: カルメン・マキは母になったか?

『戦争は知らない』(作詞:寺山修司、作曲:加藤ヒロシ)
 「戦知らずに」「二十歳になって」「嫁いで」『母になるの』と唄った、69年少女は母になったか?
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68年~70年に世に出た歌で一番好きな曲だと言った(いや白状した)ので、
この歌の歴史を調べてみた。
ユー・チューブで坂本スミ子版に辿り着くと、歌の来歴が書いてあった。
『戦争は知らない』 作詞/寺山修司 作曲/加藤ヒロシ 歌/坂本スミ子  東芝音楽工業 
1967年2月発売。何と坂本スミ子が最初なのだ。
1968年フォーク・クルセダーズがカバーしてヒット。
その後、広 川あけみ、シューベルツ、ザ・リガニーズ、で、その後カルメン・マキ版(69年)が出て、
森山 良子など多数のアーティストがカバー。フォークの名曲として今に 歌い継がれる。・・・だとさ。
カルメン・マキ:1951年生れ。68年、たまたま友人と劇団「天井桟敷」の舞台を見に来て感銘を受け、即入団決意。
それまで、今で言う「不登校」に近い状態だった少女の一大決心だったそうだ。その不登校時代に、話を聞き、
親身になって寄り添いケアしたのが「キューポラのある街」の作者:早船ちよだという。
(これは、早船さんに近い筋と親しい人からの情報。まず、間違いない)
69年 『時には母のない子のように』で 歌手デビュー。
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『戦争は知らない』の各版を採録してみる。
 
カルメン・マキ:http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related                                                                                                                                                              本田路津子:http://www.youtube.com/watch?v=F9e74o5clX0&feature=related
 
ここに出たものは、カルメン・マキ以外はアップ・テンポで、カントリー風に流す反戦フォークですか?
カルメン・マキの歌はゆっくりしていて、ナチュラルで透明感(といってもやや陰りのある)に充ちているが、
ナチュラルというのは「普通の子」や「素直な子」の代名詞なのではない。
媚びたところがない姿勢には、逆に大人や世の中との「非和解」の意志が棲んでいそうで、
どこかそっけなく、かといって投げやりではなく、歌詞やメロディにもしがみつきはしない距離を保っている。
これは、もう、あの時代のアレコレ全てを浴びて生きる少女像(寺山主観の)なのだ。
寺山が気も狂わんばかりに執着(いや全く知りませんが)したとしても不思議ではない。
この少女の持つある「価値」と重なる存在との「交信」を乞い願ったたことはあるか?
捉まえた瞬間から消滅に向かうはかないものを追いかけたことがあるか?(ぼくには記憶が**)
カルメン・マキは、『時には母のない子のように』 『山羊にひかれて』、そしてこの『戦争は知らない』までだけは、
寺山のうっとうしい要望=「幻の69年少女像」を演じてくれという要望に、応えてやったのかもしれない・・・。それ、すでに母の片鱗か?
 
だが、思うに、1935年(昭和10年)青森県弘前生れの寺山を支配する、
41年父出征・親戚家・45年青森大空襲・父戦死の公報・敗戦時10歳…という
「寺山の戦争」からの立ち上がりと、中学期には始めていた俳句・青森高校・早稲田・訛り・
競馬・劇団天井桟敷・・・「戦争の過去と未来」への詩的(そう言うしかない)総括を
仮託された69年少女(いかにも荷が重い)が「お嫁」に行き「母になるの」だから、
そのとき少女は少女ではないという自明を、この歌詞は最初から背負わされている。
つまり、歌詞の「思想世界」と歌う少女の「現実世界」が、
いずれ衝突を起こし、歌唱そのものが不可能になる。 短い歌唱可能時間の緊張の上でこそ、
少女であって母でもある「不可能」を抱え、仮装カルメン・マキの歌はどこまでも輝くのだ。
寺山は、「駒場祭」ポスター:[背に代紋]のお兄さんの「とめてくれるなおっかさん」に応答してか、それと対を為すように「おっかさん」予備軍に「母になるの」と宣言させている。母性への依存と回帰(寺山がそうなのかどうかは知らない)かと嘲笑われそうだが、「戦争」の「知らな」さへの、世代を貫通する悲惨への、歴史としての戦争への、その理解に於いて、後のフォークル『戦争を知らない子供たち』(71年、作詞北山修)の軽薄さとは違い、なるほど寺山なのか・・・と思えた。                                                                                                                              寺山修司:『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
(NHK「あの人に会いたい:寺山修司 」 http://www.youtube.com/watch?v=GAfwMovC0_0&feature=related
 戦争期を知らないフォークル世代の「知らない」位置と、同じく「知らない」少女の「物語」に仮託して自らの戦前~戦後を貫く「戦争」を語ろうとした(無理があるが)寺山の「知っている」位置は、実体験の差であるのは当然としても、それ以上に想像力・構想力・思想力の差だ。                 
「平和の歌を口ずさみながら」や「今の私に残っていろのは♪」のところは、当時からムズムズと居心地悪く、厭だった。                                                                                                  ハッキリ言って『戦争を知らない子供たち』は嫌いなのだ。   
 「父」が国家に至る縦・制度・社会的属性を象徴すればこそ、「戦争」で「死んだ」(それを喪った)「悲しい父さん」を「想えば」、あゝ「荒野」に赤い夕日が沈むのです。 で、今寺山の幻想上の少女は「母になるの」です。                                                            
「見ていて下さい」は、「他」から望まれ・指示され・誘導されて在る存在を止め、自らの意志で「自身の姿」を決める存在になるという宣言だと思う。 それを仮に「母」と呼ぶなら、それは非縦・非制度・非属性であり、ここで昔太宰が青年吉本隆明に語ったという「男の本質」=「マザー・シップ」の意味が浮かび上がる。←つぶやき: 太宰と吉本 生涯一度の出逢い その論旨は、吉本自立論の根幹に通底していると思う。
 
ところで、ハーモニカだけのほとんどアカペラ状態の、この歌唱・この質感はどうだ! 
上手い、実に見事だ。そこらのどんな歌手も歌えまへんで・・・。
 
興味ある方は何らかの方法で、その後のカルメン・マキを調査・検索してみて下さい。
70年にロックに転向。マキの歌唱は高く評価され、
伝説の『カルメン・マキ&OZ』(75年)が当時としては異例の10万枚売上達成・・・・・・とある。
ぼくはロックが分からないのだが、寺山的カルメン・マキ像からも、初期ファン層の期待像からも、
離陸して立っていた、当時の「早すぎたロッカー」カルメン・マキに会いたかったなぁ~。
 
『時には母のない子のように』:http://www.youtube.com/watch?v=6C1YIEJYtu4&feature=related
『戦争は知らない』:http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related                                                               Carmen Maki & OZ 『空へ』:http://www.youtube.com/watch?v=d9JyELDnLNk&feature=related
Carmen Maki & OZ 『閉ざされた街』:http://www.youtube.com/watch?v=j7W_zLuoa48&feature=related
Carmen Maki & OZ 『朝の風景』: http://www.youtube.com/watch?v=Nb6ubnH_cMk&feature=related
押し付けられた少女像を自己埋葬して、彼女は「母にな」ったのだ。
なお、彼女には 日本人とアイルランド人とユダヤ人の血が流れているそうです。
      
ライブ活動も健在、ホーム・ページは → http://www.carmenmaki.com/
一月の神宮前ライブ 行こうかな・・・・・・・・・・

つぶやき: 太宰と吉本 生涯一度の出逢い

リ・ダイアリー 08年11月。
 
東京では、「東京人」という薄い雑誌が、どこの書店にもある。その月は太宰治特集だった。
表紙を見ると「吉本隆明」が何か言ってるようなので購入した。
吉本が無類の太宰ファンであり度々太宰を論じていると知っていた。
電車の中でパラパラ捲ると、吉本の写真付きの記事があった。その老人ぶりに驚いた。
吉本 84歳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
吉本(現在84歳)は戦後間もなくの学生時代、
学生芝居で太宰の戯曲『春の枯葉』を上演しようとなり、仲間たちを代表して
三鷹の太宰宅を訪ねる。太宰は不在だったが、幸い太宰家のお手伝いさんから
聞き出し、近くの屋台で呑んでいた彼を探す出す。
当時の人気作家と無名の貧乏学生=のちの詩人・思想家の出会いだ。
 
そこで、こう言われたという。
『「おまえ、男の本質はなんだか知ってるか?」 「いや、わかりません」と答えると、
 「それは、マザー・シップってことだよ」って。母性性や女性性ということだと思うのですが、男の本質に母性。不意をつかれた。』
もう一つ。選んだ戯曲『春の枯葉』について語ってくれたという。
『中に、<あなたじゃないのよ、あなたじゃない。 あなたを待っていたのじゃないのよ>
 と流行歌を歌う箇所があるが、 「<あなた> というのはアメリカのことを言ってるんだよ」って教えてくれた』
翌48年、太宰は心中する。
吉本は親友奥野健男と二人だけの追悼会をしたという。
マザー・シップ・・・。ふと、取り上げてきた、石川節子・与謝野晶子・マルメンマキ『戦争は知らない』・『カナリア』のユキ:谷村美月、                           清作の妻、サイドカーのヨーコさん、…   彼女たちを思い浮かべている。
 太宰①
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
太宰と吉本の60年余前の、たった一度の出会い。ええですなぁ~。
当時の三鷹駅近くの風景写真も添えられていたが、
この両師の安屋台での出会いのエピソードだけで、
戦後の風景や香り、街行く人の表情、
占領下の天皇・皇国主義者・戦後政権から「解放軍」と規定した日共まで・・・
公民挙げて例外なく浸った、強大なものへの「完全脱帽」(加藤典洋)、
敗戦直後この国に「在り得たはずの」幻の「国のカタチ」その可能性・・・『敗北を抱きしめて』が描く人心・・・・多くのことが浮かび上がる。

歌遊泳: 誰もが、歌より先を走っていると 思って生きていた 68~70年

数年後、早くも『神田川』(73年) 『いちご白書をもう一度』(75年)など
68年~70年を振り返るような歌が登場するが、それらは「私」に終始し、企業社会へ出てゆく者の社会との和解の為の通過儀礼だった、と言えなくはない。
振り返りの自己責任に於いて『みんな夢でありました』森田童子、80年)が群を抜いていて異質だ。和解など説いてはいない。
「私」に沈殿しているように見えて、掴みあぐねた「公」をなお探していた。
センチメンタリズムに彩られていると思われがちな歌詞とメロディは、そうであるよりは
「現実」なるものに抗う者の最後の方法論を秘めたもののようだ。←「歌遊泳」:森田童子の磁力に抗して
  
68年
帰って来たヨッパライ:http://www.youtube.com/watch?v=GHNHACxnU6U

68年東大「駒場祭」ポスター。父不在を見抜きマザコンを嘲り、土着を抱えた左翼小僧の心性を見事に言い当てていた(と今認める)、                                                                                  このコピーの作者は、同世代の東大生=日本古典文学者である橋本治氏(『窯変源氏物語』『桃尻語訳枕草子』の著者)だそうだ。                                                                   どうです、このカッコ悪さをパロるカッコ良さ(?)。画像が読みにくいと思うので、字句を示しておく。                                          『とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く』 です。                                                        世代を相対化できていて、自省的で世代自己分析としてなかなか・・・と言われているが・・・どうだろう?                                   

                                                                                         

 
 
 
 
 
69年
ブルーライト・ヨコハマ:http://www.youtube.com/watch?v=XUAq18FQ3is
風:http://www.youtube.com/watch?v=3rvhjMZj3eI (←書評:ヘルメットをかぶった君に会いたい)クリック                                                                                      フランシーヌの場合:http://www.youtube.com/watch?v=uqSPNZHaZRU
時には母のない子のように:http://www.youtube.com/watch?v=6C1YIEJYtu4
                                                                                                         その頃(この年には、それぞれの個人史があろうが)、キャメラを引いての俯瞰絵と「個」ににじり寄っての接写画、                                                                その両方から自他を見届ける為に、みな生きていたのか?いやそれは無理というものだ。
妙に大人びて「恋愛論」好きの友が、浅丘ルリ子「愛の化石」の語りの部分に心酔(?)して「愛するとは耐えることなの」だ、と真剣に語ったり、                                                                                      バリケード内に『白いサンゴ礁』が流れていたり、哲学好きの先輩が「時には母のない子のように? 吾らは、時にではなく、生れ落ちてより今日まで、ずっと父不在を生かされて来たのだ」と叫んだり・・・、                                                                          そして誰もが流行り歌などなんかより、ずっとずーっと先を走っていると思い上がって生きていた。 
 
70年
あなたならどうする:http://www.youtube.com/watch?v=UVZJVAf3sjg
老人と子供のポルカ:http://www.youtube.com/watch?v=LZZk0tP49H8 
 
この年、銀座・新宿・池袋などで「歩行者天国」が実施された。 一方、車社会が進行し、交通事故死者数は急増中。「歩行者は天国へ」と揶揄された。 12月、沖縄が燃えた。いわゆる「コザ暴動」がそれだhttp://www.youtube.com/watchgl=JP&hl=ja&v=wXjs5MpPRtw      
70年、歌は「やめてけれ!」と 早々に68・69年を過去のものにしようとしていた。が、「運動」の迷宮に立ち尽くす者は、耳元でささやくような「あなたならどうする?」という幻聴に悩まされていたのか? この70年前後に「戦後社会の曲がり角がある」と多くの論者が言う。確かに、「戦後」社会は変貌していた。白モノ家電の9割普及、マスプロ大学的教育の普及、女性の表層的職場進出、山田洋次が『家族』で活写した高度経済成長のピークに差し掛かっていた(←戦後歌謡曲空間「無許可遊泳」:民子さんオホーツクを唄う。) 
そして、新左翼は70年7月7日、「七・七華青闘告発」に晒されていた。 ←華青闘代表発言: http://konansoft.com/zenrin/html/huajingtou77.htm 
 
【追記】 作詞:寺山修司 『戦争は知らない』
この時期数年で一番好きな歌は何かと問われれば、たぶん68年か69年のカルメン・マキ版の『戦争は知らない』だ。                                                         (フォーク・クルセダーズとの競作だが、そのフォークル版ではありません) ←http://www.youtube.com/watch?v=FpRowO6AVCs&feature=related                                                     

60年安保闘争50周年の、来年2010年。各人の「物語」は、時代遅れの衣装と厚化粧をまとってか、脱衣とスッピンに至ってか、グルリ回って    第4楽章に差し掛かっている。 それは、「公」と「私」の両方から、そうなのだ・・・。

「本来、人間は一生一代一仕事だと思うのですが、二つの時代を生きて二つの仕事をやる必要はないのです。」                    『占領下日本-OCCUPIED JAPAN -』(筑摩書房、対談:半藤一利ら)より、保坂正康発言
 
 
 
 
 

歌遊泳: 1915年(大正4年)中山晋平作「ゴンドラの唄」

『ゴンドラの唄』 

写真は大正期道頓堀

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  この歌は1915年の作品だそうだ。ぼくは、母が歌っていたのを聞いたのが最初だと思うが、映画『生きる』(黒澤明監督)で、死期近い老公務員:志村喬が公演のブランコに座り 「命~ぃ 短~かし 恋せよ乙女」と歌ったのを聞いて「戦後の唄なのかな」と思ったような気がする。いま思えば、このメロディーは確かに昭和以前ですね・・・。

【ゴンドラの唄】
映画「生きる」予告編より、後半に志村喬歌唱ありhttp://homepage2.nifty.com/tedukuri/ikiru.htm

生きる

ともかく、「戦後歌謡曲」云々の番外編です。

つぶやき: 東京出稼4年目。谷根千(ヤネセン)から品川宿へ…

谷根千(ヤネセン)『「坊ちゃん」の時代』から 品川宿『幕末太陽傳』へ・・・

 先日、某・忘年会で出会った友人に声を掛けられた、「仕事や睡眠を削ってブログ書いてんのか?」 と・・・。 ネタをバラしておく。ブログを立上げて以来、過去に「人の迷惑 顧みず」メールで発信していた「駄文」(といっても自分としてはお気に入りの)を微修正、せっせと「転載」しているだけ。だから、今のところ労力はほぼ皆無。迷惑メールだった人々は、たぶんホッとしていることだろう。迷惑だとサインを送ってくれた人が、案外読んでくれていたのだが・・・。しかし、長文の「強引自説」メールは「迷惑」に違いない。

 某社東京支店立上げで上京したのが06年10月だから、ようやく満3年が過ぎ4年目に入ったところだ。08年7月まで、文京区本郷は東大近くに居た。仕事の先行きに自信も無く、業務は独りで何とかこなした。  東へ坂を下ると根津がある。「谷根千」(やねせん)=谷中・根津・千駄木の街並みは漱石・鴎外・わがまま啄木らの『「坊ちゃん」の時代』(双葉社、文:関川夏央、画:谷口ジロー)の息遣いが感じられ、震災・戦災を超えて昭和ばかりか明治まで見えるような気がした。その気分を『明治~平成 根津権現坂』  http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re69.html#69-2  に書いたりしたのだが、そこから、啄木へ、やがて啄木の妻:節子へと遊泳したのだった。 だから、節子さんに出会えたのは、住居近くの散策のお陰だと言えなくはない。  http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/column-2.html 

 08年7月、東京支社はようやく3名態勢となり、南品川に3階建ての事務所兼自宅を借り移転した。ここは東海道品川宿。 街道の街並みは、参勤交代の人馬の響きまでが聞こえて来そうな趣で、なかなか人も街も魅力的なのだ。 

品川宿と言えば、名作:『幕末太陽傳』(57年、日活、監督:川島雄三)の「居残り佐平次」。                    

幕末太陽傳

やがて品川宿散策から、幕末~21世紀の何人もの「居残り佐平次」に出会えるだろうか・・・。 北品川駅近くに「売防法」前の「赤線」があったそうで、ある世代以上のある趣向の人には「北品川カフェ街」=「16軒の特飲街」として知られていた。 品川宿という語には、そうした背景色が湿気を帯びて付着しているらしい。 

 幕末の志士、明治の民権派、西欧コムプレクスと格闘した明治人、大逆事件の人々、関東大震災、軍国昭和、開戦・大空襲・敗戦、東京湾上のミズゥーリー号・進駐軍・マッカーサー~『敗北を抱きしめて』の時代、幻の2・1ゼネスト、砂川闘争~伊達判決、60年安保闘争、67・10・8他の羽田へも近い、・・・・。 江戸の手前、大東京の喉元、品川宿。 

 『幕末太陽傳』佐平次の「幻のラスト・シーン」=【佐平次(フランキー堺)が撮影セットを突き抜け、スタジオの扉から外へ出て、現代(57年)の品川の街並みを[ちょんまげ]頭のまま走り去って行く。映画の登場人物が現代の格好で佇んでいる・・・】 のように時空を突き抜けたいものだ。                                     本来、時代は地続きなのだ。

品川宿独り暮らしの自作モーニング(どう?美味しそうでしょう?)と、事務所兼住居3Fから視た 品川神社・荏原神社合同の天王祭

モーニング (1)

事務所3Fから観る天王祭

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