エッセイ:明治~平成「根津権現坂」

【本文より一部転載】 

漱石『こころ』の「K」は誰か?

識者は言う。明治の大文豪たちは「大逆事件」に際して、こぞって、沈黙をもって応えた、漱石もしかり、と。                                                        「K」とは幸徳秋水である、と。(注:徳富蘆花は兄の蘇峰を通じて死刑の執行停止に動いた。永井荷風は「文学者」停止を宣言、世間に背を向けた。昭和の戦争に対してもその姿勢は一貫していたと言われている。)
 高橋源一郎『日本文学盛衰史』によれば、「大逆事件」前後に漱石に推薦され場を与えられ、秘密裁判が始まるや、その同じ漱石に「場」を奪われた人物が居る、という。                                              その人物は漱石を「先生」と慕い、何かにつけ相談にやって来ていた。
名を工藤一という。イニシャル「K」だ。・坊主の息子・途中で姓が変わって周りを驚かせた。                         彼は大逆事件に相前後して、「明治の暗黒」を撃つ評論を書いている。それは日の目を見なかった(どこにも出なかった。死後発見された)その評論は、今日では誰もが知っている。                                                               『こころ』の「K」のプロフィールにピタリ合致する。
 明治四十三年八月、彼はある評論を書いている。「大逆事件」の僅か二ヵ月後である。
 朝日新聞文芸欄に掲載されるはずであった。誰が執り持ったか?                                                                   「K」はその短い生涯のうちに、ただの一度も漱石への非難・異論を口にしなかったという。彼は「じっと手を見」ていたのだ。

 『何もかも行末の事見ゆるごときこのかなしみは拭ひあへずも』(同年8月)                                                *全文は http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re69.html#69-2  で…

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